永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(1015)

2011年10月21日 | Weblog
2011. 10/21      1015

四十九帖 【宿木(やどりぎ)の巻】 その(76)

「御みづからも、月ごろ物おもはしく心地のなやましきにつけても、心細くおぼしわたりつるに、かくおもだたしく今めかしき事どもの多かれば、すこしなぐさみもやし給ふらむ」
――(中の君)ご自身も、この月頃はお心にかかる事が多くて、ご気分もすぐれず、心細い思いを重ねていらっしゃいましたが、このように晴れがましい御産養のにぎわいが打ち続きましたので、幾分かはお気持も安らいだことでしょう――

「大将殿は、かくさへおとなび果て給ふめれば、いとどわが方ざまはけどほくやならむ、また宮の御志もいとおろかならじ、と思ふ心は口惜しけれど、またはじめよりも心おきてを思ふには、いとうれしくもあり」
――薫としては、こうしてすっかり母親らしくおなりになったのでは、ますます自分とはとおく離れていってしまうだろう。また匂宮のご寵愛も並々ではあるまいと思いますと、たいそう口惜しくもありますが、中の君の御幸福を念じていた最初からの定めを考えれば、一方ではほっともし、喜ばしくもあるのでした――

「かくてその月の二十日あまりにぞ、藤壺の宮の御裳着のことありて、またの日なむ大将参り給ひける。その夜のことは忍びたるさまなり。天の下響きていつくしう見えつるかしづきに、ただ人の具し奉り給ふぞ、なほあかず心ぐるしく見ゆる」
――こうして、その月の二十日過ぎ頃に、藤壺の女二の宮の御裳着の式がありまして、その翌日、大将殿(薫)は婿君として御所にお上がりになりました。その夜の御儀は、万事内々に取り行われました。世間の評判になるほど大切にお育てになりました帝の姫君に、臣下の方が婿となられるとは、やはり物足りなく、お気の毒にみえるようです――

「『さる御ゆるしはありながらも、ただ今かくいそがせ給ふまじきことぞかし』と、そしらはしげに思ひのたまふ人もありけれど、おぼし立ちぬること、すがすがしくおはします御心にて、来し方のためしなきまで、同じくはもてなさむ、と、おぼしおきつるなめり」
――「そういうご縁組の勅許があったにしても、御裳着の儀を待ちかねたように、そうお急ぎにならなくてもよさそうなものを」と非難がましく言う人もありましたが、帝は思い立たれたことはさっさとお運びになられるご性分ですので、同じ事なら前例のない程に、手厚くもてなしてみようと、お心に決めていらっしゃるようです――

「帝の御婿になる人は、昔も今も多かれど、かくさかりの御世に、ただ人のやうに、婿とりいそがせ給へるたぐひは、すくなくやありけむ」
――帝の御婿となる人は、昔も今も多いけれど、帝がまだこのように盛りの御歳でいらっしゃるのに、臣下の慣習のように婿取りをお急ぎになる例はあまりないようです――

右の大臣(夕霧)も、

「『めづらしかりける人の御おぼえ宿世なり。故院だに、朱雀院の御末にならせ給ひて、今はとやつし給ひし際にこそ、かの母宮を得奉り給ひしか。われはまして、人もゆるさぬものを、拾ひたりしや』とのたまひ出づれば、宮は、げにとおぼすに、はづかしくて御答へもえし給はず」
――珍しいほどあの方(薫)は宿世のおぼえめでたい人だ。亡き六条院(光源氏)でさえ、朱雀院が晩年におなりなって、いよいよ出家なさるという際に、薫の母宮(女三宮)をお迎えになったものだった。わたしなどはましてや、御降嫁どころではない、世間も許さぬお方を拾ったようなものだった」と語りだされますので、その昔の女二の宮は、全くその通りだったと思われるにつけ、恥ずかしくてお返事もおできにならない。

◆右の大臣(夕霧)=夕霧は左大臣の筈だが、ときどき混乱がみられる。

◆宮は=ここでの宮とは、朱雀院の内親王、女二の宮。柏木の正妻、柏木が死去してのち、落葉宮と呼ばれた人で、強引に夕霧が妻の一人とした。
光源氏の子孫は臣下の身分。当時の貴族たちは内親王と縁を結び、血統にこだわった。

では10/23に。