永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(3)

2015年03月25日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (3)  2015.3.24

「これをはじめにてまたまたもおこすれど、返りごともせざりければ、
又、<おぼつかな音なき滝の水なれやゆくへもしらぬ瀬をぞたづねる>
これを、『いま、これより』と言ひたれば、しれたるやうなりや、かくぞある。
<ひとしれずいまやいまやと待つほどにかへりこぬこそわびしかりけれ>
とありければ、例の人、『かしこし。をさをさしきやうにも聞こえんこそよからめ』とて、さるべき人して、あるべきに書かせてやりつ。それをしもまめやかにうちよろこびて、繁うかよはす。」
――これを始めとして、たびたび手紙を寄こすけれど、お返事もせずにおりますと、
また、(兼家歌)「どういうことか、音無しの滝でもあるまいに、お返事をくださらないとは」
これに「いずれ、こちらから改めて」と申しますと、あきれたことに、このようなことでした。(兼家歌)「人知れず返事が今か今かと待っているのに来ないとは全くつらいことだ」とありましたので、母が、「恐れ多いこと、きちんとお返事をなさい」と言って、さる侍女にもっともらしく書かせて贈ったのでした。そんな代筆の手紙をあの人は喜んで、それからもまたせっせと書いて寄こすのでした――


「また添へたる文みれば、
<浜千鳥あともなぎさにふみ見ぬはわれを越す波うちや消つらん>
このたびも例のまめやかなる返りごとする人あれば、まぎらはしつ。又もあり。『まめやかなるやうにてあるも、いと思ふやうなれど、このたびさへなうは、いとつらうもあるべきかな』など、まめ文の端に書きて添へたり。」
――また添えてある文に
(兼家歌)「返事がないのは、私より親しい人がいて、私を無視するからなのか」とありましたが、今回もまた儀礼的にきちんと返事を書く代筆者がいるので、それにまかせておりました。そうしていますとまた文が来ます。「いかにも真面目に考えてくれていると思うものの、この度は返事がないのは本当に辛いことだ」などと、真面目な文の端のほうに書き添えてありました。――


「<いづれともわかぬ心は添へたれどこたびはさきに見ぬ人のがり>
とあれど、例のまぎらはしつ。かかれば、まめなることにて月日はすぐしつ。」
――(兼家歌)「本人か代筆者かは分らないが、返事はありがたい。でも今回は前に筆跡をみていない人の方(道綱母)へ」とありましたが、今度も適当に紛らわしていました。こんな風に
度々の文が続いたのでした。――