永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(63)

2015年08月16日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (63) 15.8.16

「この御方、東宮の御親のごとして候ひ給へば、まゐり給ひぬべし。『かうてや』など、たびたび『しばししばし』とのたまへば、宵のほどにまゐりたり。時しもこそあれ、あなたに人の声すれば、『そそ』などのたまふに、聞きも入れねば、『宵まどひしたまふやうにきこゆるを、論なうむるかられたまふは。はや』とのたまへば、『乳母なくとも』とてしぶしぶなるに、者あゆみ来てきこえ立てば、のどかならで帰りぬ。
又の日の暮れにまゐり給ひぬ。」
◆◆この御方(貞観殿登子)は、東宮(村上天皇の第五皇子、守平親王。後の円融天皇。冷泉天皇即位に伴って九月一日立太子に。このとき十歳)の御親代わりとしてお仕えになっておられましたので、やがて参内なさるにちがいないでしょう。「このままお別れするのでしょうか」などとおっしゃり、幾度も「ほんのしばらくの間でも」とおっしゃるので、宵の間に参上しました。時もあろうに、あいにく私の住いの方で、あの人の声がしたので、貞観殿さまが「それそれ、兄がおいでになっていますよ」と注意をされますが、聞き入れずにいますと、「大きい坊やが宵のうちから眠たがってぶつぶつ言っているように聞こえますよ。さあ早くお帰りなさい」とおっしゃいます。私が「乳母がいなくても大丈夫ですわ(自分を坊やの乳母に見立てて)」と帰りをしぶっていましたが、あちらから家の者がやってきて、やかましく催促申し上げますので、のんびりも出来ず帰ってきたのでした。
貞観殿さまは、翌日の夕方に宮中に参られました。◆◆


■東宮の御親のごと=東宮の守平親王の母君安子(あんし=兼家の姉か妹)は喘選子内親王が亡くなったので、その妹の登子が母代(ははしろ)になったのであった。

■宵まどひ=共寝をしたい意。

■『かうてや』=「かう」「て」「や」。こうなるでしょうから。(平安時代の話し言葉がどうであったのか知りたいですね。)

■『しばししばし』=ちょっとの間、重ねて意を強める。

■『そそ』=「それそれ」と、指し示すことば。