蜻蛉日記 下巻 2016.9.1より
天禄三年(972年) 円融天皇
兼家 44歳くらい。正月二十四日、右大将兼任の権大納言。
二月二十九日(閏月)大納言に。
作者(道綱母)36歳 結婚十八年目。
道綱 18歳
蜻蛉日記 下巻 (139) 2016.9.1
「かくてまた明けぬれば、天禄三年といふめり。ことしも憂きもつらきもともに心ち晴れておぼえなどして、大夫さうぞかせて出だし立つ。下り走りてやがて拝するを見れば、いとどゆゆしうおぼえてなみだぐまし。」
◆◆このようにして新年となり、天禄三年というようです。今は嫌なことも情けないこともすっきりしたような気分になって、道綱を正装させ参賀に送り出しました。道綱が庭に降りて拝舞するのをみると、ひときわ立派に成長した姿に涙ぐんでしまいました。◆◆
「行ひもせばやと思ふ今宵より、不浄なることあるべし。これ人忌むといふことなるを、またいかならんとてにかと、心ひとつに思ふ。今年は天下に憎き人ありとも思ひなげかじなど、しめりて思へば、いとこころやすし。」
◆◆私は勤行をしようと思っていたこの夜から不浄の身となるようです。月の障りが元日からとは、世の中の人が忌み嫌うようですが、全く私はどうなっていくのかと、内心案じられるのでした。今年は兼家をどんなに憎らしいと思っても、嘆くまいとしんみりとして思えば、心も安らかにいられます。◆◆
「三日は帝の御冠とて、世はさわぐ。白馬やなどいへども、心ちすさまじうて、七日もすぎぬ。」
◆◆正月三日は円融天皇の元服の儀だといって、世間は大騒ぎしています。七日は白馬(あおうま)の節会やなにやと騒いでいますが、私の心は荒涼としたまま、その七日も過ぎていきました。◆◆
■さうぞかせて=装束させて、正装させて。
■白馬=白馬(あおうま)の節会。七日。
奈良時代ころから行われた年中行事。正月7日、天皇が紫宸殿(ししんでん)または豊楽殿(ぶらくでん)に出御し、左右馬寮(めりょう)から引き出された21頭の青馬(あおうま)を見る儀式。青馬とは、白または葦毛(あしげ)の馬で、この日に青馬を見れば、その年の邪気を避けられるという中国の風習に倣ったもの。もとは「青馬」と書いていたが村上(むらかみ)天皇(在位946~967)のとき「白馬」と書き改めた。ただし読みは「あおうま」のままであり、馬の色がとくに変わったのではなく、ただ、上代の色彩感が平安時代になると、白を重んじる結果である。行事の日本化のためである。平安時代には儀式も整い、初めに御弓奏(みたらしのそう)、白馬奏(あおうまのそう)があり、のちに諸臣に宴が設けられた。平安末ごろからこの行事は衰え、応仁(おうにん)の乱(1467~1477)で中絶、1492年(明応1)に再興して、明治初年まで行われた。
天禄三年(972年) 円融天皇
兼家 44歳くらい。正月二十四日、右大将兼任の権大納言。
二月二十九日(閏月)大納言に。
作者(道綱母)36歳 結婚十八年目。
道綱 18歳
蜻蛉日記 下巻 (139) 2016.9.1
「かくてまた明けぬれば、天禄三年といふめり。ことしも憂きもつらきもともに心ち晴れておぼえなどして、大夫さうぞかせて出だし立つ。下り走りてやがて拝するを見れば、いとどゆゆしうおぼえてなみだぐまし。」
◆◆このようにして新年となり、天禄三年というようです。今は嫌なことも情けないこともすっきりしたような気分になって、道綱を正装させ参賀に送り出しました。道綱が庭に降りて拝舞するのをみると、ひときわ立派に成長した姿に涙ぐんでしまいました。◆◆
「行ひもせばやと思ふ今宵より、不浄なることあるべし。これ人忌むといふことなるを、またいかならんとてにかと、心ひとつに思ふ。今年は天下に憎き人ありとも思ひなげかじなど、しめりて思へば、いとこころやすし。」
◆◆私は勤行をしようと思っていたこの夜から不浄の身となるようです。月の障りが元日からとは、世の中の人が忌み嫌うようですが、全く私はどうなっていくのかと、内心案じられるのでした。今年は兼家をどんなに憎らしいと思っても、嘆くまいとしんみりとして思えば、心も安らかにいられます。◆◆
「三日は帝の御冠とて、世はさわぐ。白馬やなどいへども、心ちすさまじうて、七日もすぎぬ。」
◆◆正月三日は円融天皇の元服の儀だといって、世間は大騒ぎしています。七日は白馬(あおうま)の節会やなにやと騒いでいますが、私の心は荒涼としたまま、その七日も過ぎていきました。◆◆
■さうぞかせて=装束させて、正装させて。
■白馬=白馬(あおうま)の節会。七日。
奈良時代ころから行われた年中行事。正月7日、天皇が紫宸殿(ししんでん)または豊楽殿(ぶらくでん)に出御し、左右馬寮(めりょう)から引き出された21頭の青馬(あおうま)を見る儀式。青馬とは、白または葦毛(あしげ)の馬で、この日に青馬を見れば、その年の邪気を避けられるという中国の風習に倣ったもの。もとは「青馬」と書いていたが村上(むらかみ)天皇(在位946~967)のとき「白馬」と書き改めた。ただし読みは「あおうま」のままであり、馬の色がとくに変わったのではなく、ただ、上代の色彩感が平安時代になると、白を重んじる結果である。行事の日本化のためである。平安時代には儀式も整い、初めに御弓奏(みたらしのそう)、白馬奏(あおうまのそう)があり、のちに諸臣に宴が設けられた。平安末ごろからこの行事は衰え、応仁(おうにん)の乱(1467~1477)で中絶、1492年(明応1)に再興して、明治初年まで行われた。