ブログ仙岩

各紙のコラムや報道番組、読書の感想、カメラ自然探索など。

ノロウイルスの感染とインフル流行期へ

2014-01-26 10:03:26 | 日記
浜松の集団感染はパンを扱う人からの感染であり、山形でも発生、昨日25日は広島の中学校10校の生徒教職員324人から下痢や嘔吐の症状がでて、ノロウイルスを検出したという。
そして、弁当の食材は加熱処理のため、その後の作業中に汚染された可能性があるとした。
また、名古屋でも仕出し弁当から感染者が高校で14人が出たと。

ノロウイルス(Norovirus)は非細菌急性胃腸炎を引き起こすウイルス(核酸の非生物)で、主にカキなどの貝類の摂食中毒、感染した人の嘔吐処理やその乾燥粉末を介して経口感染するもので、1968年アメリカオハイオ州の小学校集団感染で初めて検出されたものである。

今年は異常発生の年であるようだ。
また、インフルも13~19日の1週間での患者数は1医療機関11.78人と、国立感染症研究所が発表して、本格的な流行に入ったとみている。

昨年1/16の天声人語に、通勤電車の女性が使い捨てビニール手袋をはめてつり革を握っていた。ノロウイルスが下火になりインフルがじわり流行期に入ったようだ。軽い風邪も含めて人は年に200回ほど風邪を引くと。風邪で休めない人のためにも用心を助ける気配りを共有の心得としたい。

春の七草ハコベラの生き方

2014-01-25 09:53:47 | 日記
セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ これぞ七草と左大臣・四辻善成の歌であり、雑草を擬人化して語るトークを先日、0時台稲垣栄洋さんのお話を聞いた。

私も以前、娘たちが飼育していた小鳥に夕方畠のハコベを餌にやると翌朝死んでいた。今まで何ともないから、ハコベが原因と判断したがどうも納得がいかない。ハコベには小鳥を死なせるものが含まれているのか、うさぎなどは喜んでたべるし、春の七草(コハコベ)で食するのにどうしてと?

稲垣さんは雑草は踏みつぶされても生きる丈夫なハコベというイメージがあるが実際は弱い者という。
しかし、からからの乾燥の時期の太平洋側では土がふんわりしていても青く枯れずに生育している。どこに秘密があるのか、それは、一つ目は花の下に枝分かれして成長していくが有限である。次に、茎には下に向かって細かい毛が生えており、根本に水を送り乾燥地でも生育可能という。また、茎は軟らかいが、踏まれても折れない芯がある。花びらは10枚見えるが5枚で二つに根元近くで分かれている。花は上向きでも終わると下向きになり、他の花の受粉の手伝いをしたり、熟すと種に突起がついて土にもぐり、靴底にへばりついて遠くに運ばれて繁殖するという7つの不思議があるという。

また、ハコベには、低地のウシ、イト、エズなど、山間地ではサワ、シラオイなど、高地ではカンチヤマ、シコタンなど多数種あり、ハコベの名の付いていないものもあるというが、小鳥に害を与えるものがハコベに含まれているかは分からない。

1~20mSv/年は許容範囲とIAEAが報告

2014-01-25 08:41:28 | 日記
環境省は24日、除染実施から年間1~20ミリシーベルトの被ばくは許容範囲とIAEA専門チームの最終報告書を公表した。

IAEAが昨年10月に来日した報告と同様なもので、環境の回復は良好に進展していると事故後の取り組みを評価した。また、個人の被ばく線量把握の強化でも被ばく低減に効果ありとした。

しかし、いわき市の線量値のテレビ放映では0.06~0.35μSv/h、わが町四倉町放射線量マップでは~0.25が15か所、~0.50が妙見神社周辺1ヵ所あるのみである。昨年9/11,HORIBA PA1000 Radiで測定した結果、我が家屋敷は0.261~0.817μSv/h、裏山の雷神神社境内は2.652μSv/hであった。各テレビ放送ではなぜ低い測定値だけを知らせるのであろうか、信用できない。

が、~50mSvが原発作業員の年間被ばく線量値であり、裏山や近隣の登山は控えているが、0.23以上除染の対象であり我が家は除染していないが、何ら問題ないとして生活している。1~20mSv/年=0.23~4.57μSv/hより、より安心であるから。

四倉0.5キロ沖合の海水採取しての濃度はセシウム、トリチウムは検出限界地未満で、β線を出す放射性物質は0.02~0.04Bqで原発事故前と同じ数値であったという。操業に前進できる朗報である。

戦争の人殺しと自殺について

2014-01-24 09:04:51 | 日記
30年遅れて帰国した小野田さんは理不尽な権力者、平和ボケの雰囲気で私が入る隙間が日本になかったと述懐している。

また、戦争で人を殺すという感情はどうですかという質問で、何と愚かな質問かとあきれて答える気がしないという。生きるか死ぬかの戦場で自分の立場を見失うと生きることも見失い中途半端な決断こそ一生罪悪感に悩まされる。

神仏を尊び、神仏に頼らず自力の精神で生きてきたが、衣食住どれを見ても他人の世話になっており、自分一人では生きて行けない。ルバング島でなにしたかわかるものでないという陰口に対して、ブラジルの牧場経営で証明してみせると出国したが、経済的に豊かになった日本で親を金属バットで殴り殺す事件から青少年育成で恩返ししたいと帰国した。

しかし、わが子の育成ではれ物に触るような親もいれば、キャンプの訓練ロープ渡りで限界の子を仲間が手伝って渡り終えると、「助けてもらってだらしない」と陰で叱る付き添いの親もいる。山で自力を身につけるキャンプなのに、家庭の延長になっている。

また、いじめがあっても見て見ぬふりで、助けたい気持ちがあっても野次馬と変わらない。そして、天童市のように中1生の自殺を招く結果となる。人は誰にでも死んだ方が楽だと思うことがあるが、冷静でないから目的を忘れる。

目的があれば生きられる。死んではいけない。何故なら人は生きるために生まれて来たのだから。

仲間二人と永遠の別れをした小野田さん

2014-01-23 09:37:02 | 日記
攻撃中止後、三人で次にとるべき行動を話し合うと、41才になった足怪我の治療を二人から受けて少しは回復した島田さんがここにいたいという。投降した赤津さんからこの場所が知られているからと小塚と喧嘩になり小野田さんが島田さんの意見を尊重して留まった。

果物ナンカを倒木の上に並べたが、日が沈むと島田さんが谷へ下ろしたことから、居場所を知られまた銃撃戦に、射撃の名手島田さんが立撃ちの姿勢から打たれ亡くなった。残された二人は島田さんが日章旗を見て友軍と思い撃たなかったのではないかと推測したが、私は島田さんの銃撃戦のケガから、自分の家族の写真のビラを見たりする郷愁の念と合わせて、自殺行為ではないかと推測した。

朝鮮動乱ベトナム戦争での上空飛来の飛行機から戦争続行していると思っていた二人は、食糧確保で稲の焼き払いから銃撃戦となり、1972年に島田さんが亡くなってから17年後小塚さんを亡くした。

一人になった小野田さんは、小塚さんの戦死後1年4ヵ月後1974年2/20夕刻鈴木さんと出会い、写真撮影に応じ、2週間後3/5「口達す」のビラから99%信用、3/9谷口少佐から「作戦任務解除命令」を受け、マルコス大統領から罪なしの許可を得晴れて帰国した。4年に一度の閏年を考慮した自作歴30年間で6日早い誤差であったという何事にも驚異的な生活の足跡を残していた。