ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その33)家主なのに自宅で下宿人?

2015-06-19 19:32:13 | 自分史
 社長が名大贈収賄事件で引責辞任した翌年のことです。私は48歳になり、一人暮らしの別居生活も丸6年になろうとしていました。

 六甲おろしの吹くまだ寒い2月のある日、長男が思いがけないことを伝えて来ました。本宅に戻って来てもいいと母親に言われたというのです。狐につままれた気分でした。聞き返してみても本当だと言うので、早速引っ越しの準備に取り掛かりました。学生時代に4回も引っ越しをしたので要領はよく心得ていました。

 引っ越しの当日、息子たちが手伝いに来てくれました。荷物を運び去った室内を改めて見回すと、褐色にくすんだ壁に、洋服ダンスや色紙額、カレンダーなどの跡がそこだけクッキリと残っていました。部屋ボコリとタバコのヤニを免れた跡です。6年間という時間の長さを物語っていました。こんなお化け屋敷のような部屋に、よくも住んでいたものだと苦笑いするだけでした。絨毯敷の床に散らばるゴミを拾い集めるだけに止め、大型車両の騒音と振動に馴れさせられた部屋とおさらばしたのです。

 机と椅子も引っ越し荷物に含まれていました。長男が、机と椅子は邪魔なので運送屋に処分してもらおうと言い出しました。私に割り当てられる部屋は、かつて父親が一時使ったこともある6畳間で、広さにゆとりがないと言うのです。仕方ないので承知しましたが、机には書類や小物などを残していたのです。そのことに気が付いたのはずっと後のことでした。

 この頃からすでにアルコールによる記憶障害があったのでしょう。幸いなことに、後になってアレが無いコレが無いと、蒼くなって慌てたことはありませんでした。断捨離とはよく言ったもので、必要と思い込んでいるものでも、無ければ無いで別段不便を感じないで済むものだと納得させられました。

 自宅に戻った最初の夜、寝床に入って気付いたのはシーンとした静けさでした。大型トラックが四六時中往来し、交差点も近い国道脇のワンルームでは、騒音と振動が絶えたことがありません。そのような環境に馴れてしまった身には異様とも思える静寂でした。日中でも車がほとんど通らず、周囲が緑に囲まれた公園のような住宅地ですから、当たり前と言えば当たり前のことです。「やっと・・・、戻って来れたぁ~!」と実感しました。

 ほぼ6年ぶりに自宅マンションに戻ったわけですが、実のところ新しい下宿先に転居したような奇妙な生活が始まりました。テレビと冷蔵庫、洋服ダンスを備えた南向きの6畳一間の和室だけが私専用のスペースで、玄関、トイレ、浴室、洗面所、居間(食事時だけ)、これらすべてが共同住宅の共用部分のような具合でした。自宅はマンション2階の角部屋で、南、西、北の三方にベランダがあるのですが、物干用として私に割り当てられたのは西側のベランダだけでした。

 ローンの支払い、管理費、光熱費は従前通りに私が負担し、約二人分の月々の食費を妻に渡し、妻は電話料金を負担する、これがおおよその家計分担の内訳です。もちろん家族としての団欒などはなく、家主が下宿人として隔離されるという面白い構図です。淡い期待を抱いていた私の思惑とは全く異なる境遇でした。

 妻は化粧品関係の会社に勤めており、長男は知人の所に居候、二男は高校に通っていました。週日の昼間には家に誰もおらず、休日には各々出掛けることが多かったように記憶しています。こんな状況で、息子たちとのコミュニケーションをどう取っていたかについて触れておきます。

 阪神西宮駅えびす口の駅前北側に “華京” という中華レストランがありました。品のある綺麗な造りの店で、まともな広東風料理を出してくれるので、ワンルームの独居時代から休日にはたまに昼食を楽しんでいました。機会を見つけては、息子たちとその店で夕食を一緒にするようにしました。3人が一緒ということは稀でしたが、長男、二男それぞれと1時間ぐらい話す場にしていたと思います。独居時代には、特に二男との夕食を妻の近況も聞き出す機会にしていたのです。

 私の週日の夜は、定時の会社帰りに居酒屋 “旬香” 詣でが相変わらず続いていました。その一方で休日には、西国三十三ヵ所巡礼などへと外出するようにしていました。これも相変わらずです。私の行動は完全に習慣化していました。

 前年の6月には速くも、西国三十三ヵ所巡礼最後の札所、岐阜にある33番札所の谷汲(たにぐみ)までの一巡目を正味6ヵ月間で終え、引っ越し時には二巡目についても、京都亀岡にある21番札所の穴太寺(あなおじ)まで済ませていました。温かくなると朝早く家を出て、暗くなってから家に戻る、帰路は無論ビールが入った状態です。そんな休日の過ごし方をしていました。

 雨の日や家族のいない休日には、酒を飲まないでいられるよう一人で写経に励み、全札所に納めるべく一日2~3枚準備するようにしていました。写経には1枚当たり2時間強かかりました。

 なぜ写経を? 西国三十三ヵ所巡礼の必携品として朱印帳、掛け軸、笈摺(おいずる:白衣)の三点セットがよく知られています。これらは各札所で朱印をいただくのが目的です。しかし、巡礼の一番の目的は納経です。一巡目の途中でそれを悟らされました。そのためには写経が必須で、ワンルームの独居時代から始めていました。一巡目で持参したのは朱印帳だけでしたが、二巡目には写経と掛け軸も必携品に加えることが出来ました。

 こんな訳ですから、久々に戻って来た自分の家なのに、私の “居場所がない” ことなりました。何とも皮肉なことでした。当然、家の中での飲み直しは自室で一人やっていました。“居場所がない” とは居心地が悪く、安らぎがないことです。速い話が何とも “おもしろくない” のです。心にポッカリ空洞を抱えることになりました。会社ではYoさんと確執中の時期でもありました。

 巡礼を続ける一方で、心に空洞を抱えた時のお決まりの “Shelter探し” もやっていました。大阪には旧赤線の街が少なくとも2ヵ所残っていて、半ば公然と営業しています。巡礼の帰り道、それらの街の一つにある某店に通い始めました。

 馴染みとなって4ヵ月ぐらい続いたでしょうか。晩秋のある日、贔屓にしていた娘が店からいなくなりました。聞くと店を辞めたというのです。何のことはない、依存症に特有の習慣化が仇となり、ストーカー紛いの付き纏いと見做され、それで逃げられたのです。私の風俗遊びは、これで目出度く幕引きとなりました。

 こんな風に、まるで隔離されたような状態でしたから、妻がなぜ私の帰宅を許したのか当初は不思議でした。引っ越しが許された(?)のは二男が高校三年になる年です。かつて妻と交わした覚書では、二男が高校卒業までは別居継続も止む無しとしていたのです。これをすっかり失念していました。

 妻としては、別居生活でこの上ない自由を満喫できていたのでしょう。再び同居するのは不本意だったのだと思います。どんな風に私の生活態度が変わったのか、それをじっくり観察するためのお試し期間とするつもりだったのかもしれません。復籍などは、もちろんありませんでした。

 私が自宅に戻った年の年末に長男が結婚しました。いわゆるデキちゃった婚です。居候と称していたのは実は同棲のことで、同棲相手の方と目出度く結婚と相なったというのが真相です。やはり血は争えないと思いました。翌年には男児が生まれました。私の初孫で、とうとうお爺ちゃんになってしまいました。

 アルコールの害は、じわじわと身体を蝕み続けていました。

 当時の手帳にこんなメモが残っています。
「・・・アルコール依存症の身体的徴候は着実に現れている。昨日も(会社の)全体研修会でうたた寝中に、出席者確認の署名用紙が回ってきて振戦がモロに出た。現在、焼酎お湯割り7杯の後、3杯目のウィスキーの水割りを飲んでいる。その最中に記述している。振戦はこのように(今は)ない。」筆跡はまともですが、会社で振戦に悩まされていたことが書かれていました。

 この全体研修会は午後1時の開催でした。ちょうどアルコールが切れる時間帯に符合します。会場は300人収容の机なしのスクール形式で、下敷き用の台紙もなしだったので、多少文字が乱れていても気付かれない可能性はありました。


アルコール依存症へ辿った道筋(その34)につづく



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アルコール依存症へ辿った道筋(その32)上司への反抗は減給損

2015-06-12 19:57:56 | 自分史
 再び当局から指示事項でT/P比(その28、参照)が名指しで求められた時点、私が47歳になりたての早春に戻ります。

 指示事項を受けた翌月、臨床開発部門から後方支援部隊が分れてTS部となり、Yoさんがそのトップに就きました。社長の国際戦略構想に忠実に従い、社長のお気に入りとなってのご褒美人事でした。

 TS部は生物統計(BS)、データ・マネジメント(DM)、私が属すメディカル・ライティング(MW)などの職種からなり、開発品目の種類に関わらず共通する業務を担当します。ある意味、受託業者のように他社の業務でも有償で請け負うことが可能な機能を持つ組織です。

 Yoさんは就任後さっそく、所信表明として新組織TS部の方針を発表したのですが、その中味は突拍子もない異様なものでした。新組織が受託業者のような性格の部門である旨の話をした直後、私たちに各担当業務の請負単価を出すよう業務命令を出して来たのです。

 いきなりですから、この命令に正直狼狽えました。業界の相場がどのぐらいなのか全く不案内だったのです。私の担当するMWは業界でも新しい職種で、受託業者の噂はあっても仕事を業者に委託した経験は皆無でした。まして、自社の仕事をこなすのに精一杯で、他社の業務を受注する余裕などありませんでした。そんな訳で対応できない旨を告げると、MWが発足してから1年近く経つのに業務上必要な情報収集もしていないのか、とYoさんは私を詰(なじ)ってきました。

 一事が万事、Yoさんには現場経験も知識もなく、現場に即した発想というものが全くなかったのです。これにはさすがに嫌気がさしてヤケ酒挙句の二日酔いを繰り返し、私は2日間ほどカゼと称して会社を休んでしまいました。いわゆるフテ寝です。案の定、3日目に会社からプロジェクト関連の会議があると電話で呼び出しがあり、渋々出社するハメとなりました。

 あとから考えてみると、この時は受託業者の役目までも担おうとしたわけではなく、予算の提出時期だったので単に算出根拠が欲しかったのだろうと察しがつきました。それならば TS部が分離される前の実績から人数割りするなど、いくらでも応急的な当座の対処法はあったはずです。新たに発足した組織ならばこの程度のことは許容範囲内のことです。

 この後もYoさんの唯我独尊状態は続いたままで、Yoさんとの齟齬が続きました。かつて色々あったN先輩に輪をかけた人物だと分かり、一緒に那智行をしたのは一体誰だったのだろうと思ったものです。

 Yoさんに一旦捉まったら文字通り黙って聞くしかない、これは我々部下の一致した見方でした。

 「ちょっといいかな?」と捉まったら最後、就業時間内は何も出来ないだろうと諦める方が賢明でした。聞く耳を持たずに一方的に自説を喋り続けて止まらないのです。聴き手の都合などお構いなしだったのです。彼の特殊な性格の所為でもありますが、社長という虎の威を借りたところも厄介至極でした。この人物は普通の大人ではない、噂にたがわず御しがたい変人か狂人だと皆が身構えるようになりました。

 部内の他の部署でもYoさんと齟齬をきたすことが頻発し、業務に支障が出始めるなど組織として危機的状況になりつつありました。同僚たちは皆困り果て、苦々しく思っていました。中でもBS室長の件のO女史、彼女がYoさんの恰好の餌食となりました。

 O女史は机の正面と両脇の三方に本やら資料ファイルやらを上に並べ、その上にさらに資料を山積みしてバリケードを築くのが趣味で、資料の山の中に姿を隠していることが普通でした。そんなO女史のところにYoさんが押しかけてはしょっちゅう議論を吹っかけていました。実は二人はよく似た性格で、それだけに一層ややこしい状況になったようです。

 しばらくすると吃驚(びっくり)することが起こりました。YoさんはPC操作にずぶの素人の女性たち4人をプログラマーの契約社員としてBS室に雇ったのです。彼女たちを教育するだけで、どれだけの人手と時間を割かなければならないか、ちょっと考えれば誰でも分かります。

 その時期は、Ca拮抗薬Pの指示事項回答のため、ちょうど家庭血圧を活用して追加の治験計画を練っていた時期と重なっていました。当時O女史が、家庭血圧計のデータ記録装置の仕組を逆手にとって、データの盲検化(=匿名化)を思いつかなかったのは、Yoさんとの確執あってのことで無理からぬことだったのかもしれません。(その30、参照)

 当時、国際臨床開発品として向精神病薬Abがあり、会社の将来を担う一大プロジェクトとなっていました。米国でも莫大な売上が見込めると、米国の大手製薬企業から共同開発の申込みがあり、契約が締結されたのです。この件でも一騒動ありました。

 契約締結から間もないある日、YoさんはTS部のAbプロジェクト担当者の前で向精神病薬の領域に最も明るいのは自分だと言い張り、自分がAbプロジェクトの全指揮を執ると言い出しました。恐らく功名心からだったのでしょう。Abプロジェクト専任の前線部隊スタッフがいない場とはいえ、彼らAbプロジェクト担当者を見くびった、あまりにも不遜な発言でした。

 これを聞いて同席していた私はさすがにキレてしまいました。刺違えまで覚悟していたか定かではありませんが、感情を抑えきれずにこう言ってしまったのです。
「全面的に黙ってあなたに従えということですか?・・・。今までにあなたに付いて一緒に仕事をした者で、良い思いをした人は一人もいない。これは誰もが知っていることです」遂に抜き差しならない状態になってしまいました。

 会社には半期に1回ずつ年2回の自己申告制度がありました。申告項目には、仕事量、業務に対する満足度や適性、職種の異動希望や転勤希望の有無などの他、職場の改善点や問題点を申告する欄も設けてありました。職場の改善点や問題点とはずばり問題上司か否かという問いと、その時は受け取りました。

 「特にナシ」と書くのが普通ですが、その年のTS部員からの自己申告書は壮観だったと聞きました。誰もが上司が問題とびっしり書いて来たというのです。同僚に「申告書はどうした?」と聞くと、「上司」という答えが決まって帰って来ました。まるで合言葉のようでした。

 TS部が発足した年の晩秋に名大贈収賄事件が発覚し、社長が辞任するという事件となりました。翌年後任として新社長に就任したのは創業家以外の人物で、同じグループ内会社の社長をしていた現場感覚に優れた人物でした。

 Yoさんから少し遅れてMW室に着任してきたKa氏は定年を間近に控えた経験豊かで温厚な人物で、部長職として名目上私の直接の上司でした。Ka氏はYoさんの議論に付き合いつつ真っ当な意見を述べていたようです。帰って来るとよくため息をついていました。その内さすがのKa氏もYoさんの屁理屈だらけの専横には辟易してしまい、会社からこのままの状態で放置されたなら、客観的に見て組織全体が危うくなると考えたようでした。

 Ka氏と新社長とが旧知の間柄だったことは幸いでした。TS部発足から2年目、新社長に変わった初秋に、Ka氏は意を決して新社長に直訴してくれました。新社長の現場重視の経営感覚がKa氏の冷静で誠実な直訴を理解してくれたのだと思います。Yoさんは年の暮れに更迭され、発足から2年足らずでTS部は解消されました。私たちは臨床開発の前線部隊と再び統合されました。

 前社長の辞任事件がなく在任のままなら、たとえ直訴しても難しかったろうと思います。TS部独立は前社長お気に入りのYoさんの提言を容れての人事だったのですから・・・。それに、自己申告書による告発だけだったなら、たとえその数が夥しいものであっても事態がどう転んだのか分かりません。やはり経験豊富なKa氏と現場主義の新社長が旧知の間柄であったからこそ、直訴が受け入れられたのだと思います。36年間の会社在職中で唯一のハプニングでした。


アルコール依存症へ辿った道筋(その33)につづく



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アルコール依存症へ辿った道筋(その31)大逆転した他社の戦法とは?

2015-05-29 20:02:52 | 自分史
 それなりに自信をもって提出した回答が「見劣りする」とまで言われてしまいました。この件の発端となった他社の類似薬についてお話しましょう。ずっと後に情報公開となって分かったことです。

  我々のCa拮抗薬Pに追い着き並行審査となった他社の類似薬は、申請時の資料が粗雑な内容でした。そのため審査開始初期に追加治験の指示を受けたようでした。用法・用量設定のデータ構成が経験未熟な者の仕事という印象が強かったのです。

 ところが回答とした追加治験では、1日1回服薬で定評のある同種・同効の市販薬Nを対照薬として比較試験を実施していました。しかもそれが24時間自由行動下の血圧日内変動(ABPM)試験だったのです。対照薬に選んだ市販薬Nは、当時すでにCa拮抗薬としてばかりでなく医療用医薬品としてもトップ・ブランドの地位を占めていました。文句なしの対照薬でした。

 その際の薬剤の入手の仕方がチャッカリしていました。流通市場で購入した商品の錠剤を、そのまま着色カプセルに詰め込んで外から見分けがつかなくし、見た目だけ薬剤を盲検化したやり方だったのです。ダブル・ダミー法(その4、参照)など手間のかかることは一切なしでした。

 対照薬提供に関する製薬業界の協定では、対照薬を入手するには煩雑な手続きが必要で、相当の時間がかかります。その時間のかかる協定を横目で見ながらの、“抜け穴” を使った見事な奇襲戦法でした。

 対照薬製造会社から協定違反の抗議を受けたら、次のような釈明を準備しているものと見て取れました。ABPM用携帯型血圧計には測定データ記憶装置が内蔵されており、人為的なデータ操作はできません。データの盲検化が主張できるのです。データの盲検化が担保されているので薬剤の盲検化までは不要であった、だから市販品を購入して使用したまでと釈明できます。その一方で当局には二重盲検化に精一杯努力したとアピールすることも可能なのです。

 結局、追加治験指示に対する他社の戦略が見事の一言だったのです。第一に、比較に用いる対照薬を最高評価の市販薬Nにすること。第二に、ABPMを使った薬効評価の報告がないためサンプルサイズ(優劣や同等性の根拠となる対象患者数)が算出不能で済むこと。さらに第三に、少数例の比較で両者に見た目だけ差がなければ十分で、それを問題視されることはないこと。以上を読み切った上の一発逆転の発想でした。その戦略性の高さに加え、手間を省いた対照薬入手のやり方も老獪で見事でした。

 他社の担当者は指示事項への対応で百戦錬磨のギャンブラーに一変していました。1日1回服薬の評価が固まっている市販薬Nが対照薬ですから、両者に差がない結果が得られたなら用法・用量の問題は全て解決ということになるのです。このABPM比較試験成績1本だけで承認を勝ち取ったも同然でした。

 このABPM比較試験成績ではT/P比(その28、参照)も算出して回答していましたが、算出方法の詳細な記述はありませんでした。見栄えが良ければそれでいい、駄目で元々イチかバチかの博打そのものでした。敵ながら天晴なゲリラ戦法と感心したものです。

 私が新Ca拮抗薬Pの比較検証試験で対照薬としたのは、1日2回服用のCa拮抗薬ALでした。申請時には辛うじてトップ・ブランドのひとつとしての地位を保ってはいましたが、5回目の指示事項を受けた頃には、1日1回服用のCa拮抗薬Nにあっさり首位を奪われ、その凋落した姿は往時を偲ぶべくもありませんでした。

 承認申請してから徒に(?)過ぎた3年10ヵ月という時間は、ビジネスの世界では主役交代をもたらすぐらいに重いものでした。対照薬同士を譬えで比べると、片や人気絶頂の花形役者、此方(こなた)人気凋落著しい過去の人、こんな感じでしょうか。当局が「見劣りする」と言った表現は言い得て妙でした。
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 1日1回服薬の根拠が不十分と、名指しでT/P比が出た指示事項の直前に、旧GCP違反を事由として当局から申請取下げの処分が下った別化合物があったことは(その27)で述べました。T/P比の回答で揉めた挙句、家庭血圧による追加治験を実施することで当局と折り合いが着いた年の晩秋に、追い打ちをかけるように新たな不祥事が発覚しました。私が47歳のときでした。

 当時の医薬品事業の主力商品は、血栓を出来にくくする抗血小板薬と、胃粘膜を増強させる抗胃潰瘍薬の二つでした。会社としては主力商品の後継品を急いでいました。そのため名古屋大医学部薬理学教室と抗血小板薬の後継品の共同研究をしていました。当然、共同研究には研究費が伴います。その研究費の受け皿となっていたのが実体のないトンネル会社であったことが発覚したのです。トンネル会社の代表は名古屋大学の担当教授の家族が務めていたそうです。

 この事件は名大贈収賄事件として全国的に報道されました。会社の研究所や私たちのオフィスの一部も家宅捜索され、地元の名古屋では連日の報道で大騒ぎだったようです。捜査の手は、前研究所長だった臨床開発部門トップで常務のYa氏や、さらには社長本人にまで及びました。

 身柄を拘束され連日の取り調べを受けた結果、社長本人が贈賄の罪を認め、裁判で執行猶予付きの実刑が確定しました。拘留中に会社の社長職ばかりでなくグループ会社の役員のほぼ全てを辞任し、急遽社長代行として創業家以外の副社長が当たることになりました。

 創業家によるワンマン経営の悪い面が出てしまった事件でした。経営の全権を一手に握っていた社長に諫言する幹部が一人もいなかったのです。たとえば新薬の臨床開発では次のようなエピソードがありました。

 当局は、新薬の効能・効果として目指す対象疾患ごとに、具体的な治験の進め方を定めた各種臨床ガイドラインを行政指導として公表しています。ガイドラインに即していなくても、ガイドライン以上に発展した科学的根拠のある内容であれば、受け入れ可能とはされていました。その道の専門家が、定説から定めたものがガイドラインです。ガイドライン以外の方法を一製薬企業が簡単に挑戦できるものではありません。

 社長は業界の柵(シガラミ)から自由で独創的な発想を殊の外大切にする人でした。この臨床ガイドラインについて、社長が「ガイドライン通りにしなくてもイケルんじゃないの?」と語ったことがありました。この言葉に対し、実際には不可能であることを誰も諫言できずに黙ったままというのがお決まりのパターンだったのです。

 「法律というものは後から(現状に)追い着くものだ」、これも社長の口癖でした。柵(シガラミ)から自由でありたいという社長の考えに迎合し、法令軽視という空気が社内にありました。その目に見えない空気が、法に触れてはならないという企業コンプライアンスの意識を薄めていったのだと思います。

 名大贈収賄事件の翌年には臨床検査事業で不祥事が発覚し、さらに翌々年には医薬品営業部門が枚方市民病院贈収賄事件の共犯とされるなど不祥事が続きました。’91年の使用成績調査データ捏造事件を発端に枚方市民病院贈収賄事件まで、この間の10年で大々的にマスコミを賑わせた不祥事は4回にのぼりました。

 名大贈収賄事件の翌年、株主総会で創業家以外の社長が初めて就任することに決まりました。これを期に遅まきながら法令順守と企業コンプライアンス教育に初めて全社で取り組むことになったのです。

 当局は、不祥事のオンパレードに呆れ返り、どうもこれは普通の会社ではないと苦々しく思っていたに違いありません。新薬の承認は、新合成抗菌薬の外用薬が’91年の使用成績調査データ捏造事件の翌々年に承認されたのが最後でした。その間、私の担当したCa拮抗薬Pをトップバッターに新有効成分として4成分の申請が続いたのですが、全て申請取下げとなりました。皮肉なことに、申請取下げのシンガリがCa拮抗薬P でした。

 当局が “見劣りがする” としたのは指示事項回答ばかりか会社そのものだったのです。それが承認審査にも影響したと思えて仕方ありません。次の新有効成分が承認されるまで “空白の時間” が13年間も生じてしまいました。


アルコール依存症へ辿った道筋(その32)につづく



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アルコール依存症へ辿った道筋(その30)家庭血圧による世界初(?)の評価方法

2015-05-22 20:01:53 | 自分史
 「1日1回の服薬で十分な降圧薬である」この根拠を立証し当局を満足させる回答には二つの要件を満たさなければなりません。一つは血圧日内変動試験かそれに匹敵する評価方法であること、二つ目は1日1回以外の用法と比べる比較試験であることです。

 24時間自由行動下の血圧日内変動(ABPM)は手に余るので避けるとして、いまさら入院患者を対象とした従来型の血圧日内変動試験の再実施というのでは陳腐な印象を与えるだけです。そこで、家庭血圧で薬効評価をやってみようということになりました。これは全く新しい薬効評価方法を世界で初めて開発することでもありました。

 当時、家庭血圧は高血圧の野外(病院外)研究で評価が定まっていました。住民の集団定期健診の一環として、地方の小規模な町村コミュニティーを舞台に家庭での血圧測定を導入した成果でした。そこで収集した厖大なデータから、精度の高い測定データが得られることが判明していたのです。

 医師の前だと緊張して、見かけ上高血圧を呈してしまう “白衣高血圧” を除外でき、何より日常生活を送っている中での血圧であるということが高い評価を得たのです。現在、家庭で測定した血圧で135/85 mmHg以上を高血圧としているのはこの家庭血圧研究の賜物です。(参考:診察室で測定した血圧では140/90 mmHg以上を高血圧)

 家庭で血圧を測定する上で守るべき条件は、起床後1時間以内、排尿後、摂食・服薬前の三つです。少し慣れれば誰でも出来る方法です。1回目の測定値が血圧の実態をよく反映していること、連続する5日間測定した5点の血圧の平均値の信頼性が高く、降圧効果を評価する基準値に適していることも判明しました。これら測定する際の取り決めも、そのまま治験に採用することにしました。


 (家庭血圧基準値)=(1日1回起床後1時間以内に測定した家庭血圧の
            連続5日分の平均値)


 測定方法の次に降圧効果の評価基準を新たに定める必要がありました。家庭血圧の測定時刻はFDAのT/P比でいうトラフ時に相当します。そこで服薬期間前後の家庭血圧基準値の差から求めた血圧下降度をトラフ(家庭血圧 T)と見做すことにしました。

 (家庭血圧 T)=(服薬期間前の家庭血圧基準値)
                ―(服薬期間後の家庭血圧基準値)


 すでに、わが国の『降圧薬の臨床評価ガイドライン』(ガイドライン)では、外来診察時の血圧で求めた血圧下降度で降圧効果を評価する判定基準(血圧下降度判定基準)がありました。ガイドラインの判定基準では、外来血圧下降度が20/10 mmHg以上を「有効」と定めています。

 そこでガイドラインの外来血圧判定基準を参考に、家庭血圧 T で「有効」の判定基準を外来血圧判定基準値(血圧下降度20/10 mmHg)の50%以上としました。つまり、家庭血圧 T が10/5 mmHg以上であれば「有効」と定めました。仮に外来診察時の血圧下降度をピーク(P)と見做せば、こう定めることで家庭血圧 T の「有効」例はT/P比≧0.5以上に相当するのです。そして、家庭血圧 T で「有効」と判定された患者の有効率が50%以上であれば、1日の服用回数は妥当であると定めました。前回述べたZanchetti流のT/P比算出方法の考え方を準用したものです。

 家庭血圧ではデータのバラツキが少ないので、1群20例未満という少数の患者でも評価可能と統計学的に算出できました。これは治験の実行可能性からみても好ましい点でした。

 評価方法の次の問題は比較する対照群を何にするかでした。当然、二重盲検比較試験法を視野においての議論となりました。この議論で、あの生物統計責任者O女史が、最も評価の高い市販薬Nを対照薬とすべきだと主張しました。Ca拮抗薬Nは製薬業界全体でもトップ・ブランドの一つになっていました。理屈の上では最も理にかなった、まさに正論でした。

 対照薬がすんなり入手出来るものなら、私も諸手を挙げて賛成したでしょう。ところが真っ先に私の頭に浮かんだのは、手続きの煩雑さと、提供依頼先がやるに違いない嫌がらせの時間稼ぎでした。

 対照薬提供に関する業界内の取り決め(協定)では、製造販売会社に治験実施計画書(案)を添えて文書で提供依頼し、その同意を得た上で製造販売会社から製品と共にプラセボを購入します。それでダブル・ダミー法(本シリーズ、その4参照)で盲検化を図るというのが正式な手順を踏んだやり方です。

 当然ながら提供依頼された会社は、将来の商売敵として時間稼ぎをするのが定番です。その嫌がらせで製品入手に相当の時間を要します。高血圧症の比較検証試験の際は、申込から3ヵ月程度の口約束であったものが、実際は6ヵ月以上かかった経験があったのです。

 この経験に懲りていたのなら、まともな入手ルート以外の “けもの道” を探ろうと考えるのが普通です。が、入手するには協定を守った正式なルートしかないという固定観念に私は完璧に囚われていました。呆れるほどに発想の視野が狭まっていたのです。

 盲検化というのは、比較試験の場合に人為的な介入(インチキ)を排して、データの偏りを防ぐことを言います。

 インチキがあり得るからこそ、非盲検による比較データは全く相手にされません。比較する薬剤同士、お互いの外見等を同一にする薬剤の盲検化のことは知っていましたが、データ処理の段階で人為的介入を排して改竄を防ぐデータの盲検化(=匿名化)のことは知りませんでした。測定データを人為的に改竄できなくすれば、データの盲検化を担保でき、薬剤の盲検化を省いてもよくなります。これがここで言う “けもの道” です。

 市販の家庭血圧計には、測定データを記憶チップに保存可能な機種もありました。この仕組みを活用することで匿名化を思い付きさえすれば、信頼性の高いデータの盲検化という立派な “けもの道” となったのです。たとえ対照薬を協定外の流通市場で簡単に入手したとしても、非盲検と非難されることはありません。

 結局治験では、測定データを記憶チップに保存可能なこの機種の家庭血圧計を採用することになったのですが、データの盲検化という奥の手については最後まで気付かないままでした。データの盲検化という知識さえあれば・・・、私は絶好の機会を取り逃がしてしまいました。件の生物統計責任者O女史も、血圧測定の段階でデータの盲検化が図られるところまで頭が回らなかったのでしょう。データの盲検化という奥の手を提案することもなく、対照薬入手がらみの問題になると、“我関せず” の定位置に戻っていました。

 このような社内議論を経て当局との治験相談を7回も重ね、家庭血圧による評価方法を当局に了解してもらうことが出来ました。すなわち追加治験は家庭血圧による評価方法を採用し、自社製の新Ca拮抗薬P同士の1日1回と1日2回の服用法を1日量を同量にして比べることに落ち着いたのです。

 ただし、ABPMによる少数例の検討も要求されました。家庭血圧は早朝の血圧なので、早朝の血圧データだけになり、昼間の時間帯の血圧データがない評価ということを懸念したのだと思います。回答として出来るだけキレイなデータにしようと、ABPM測定日には行動を管理できる検査入院とし、血圧の実測値の他に三角関数を応用した回帰曲線も求め、見栄えのよいものにしました。皮肉にもこれらの追加治験が、患者が対象の治験として新GCPに則った会社初のケースとなりました。

 家庭血圧での治験結果は期待通りのものでした。1日1回服用と1日2回服用の両者の血圧下降度には差が無く、どちらも50%以上の有効率が得られました。この結果を回答として当局に提出したのです。

 T/P比についての回答が不十分とされた後、治験実施計画書が当局と合意の上で確定するまで6ヵ月、実際に治験を開始して回答提出までにさらに1年6ヵ月、計2年の歳月がかかっていました。その間に会社の不祥事が発覚し、「(申請中の)Ca拮抗薬Pは絶対に承認させない」という当局の噂も耳にしました。それからさらに2年(正確には1年11ヵ月)、無為のまま徒に過ごした後で当局から相談があると会社の上層部が呼び出しを受けたのです。

 そこで打診されたのが承認申請の取下げです。当局側の承認手続き上、その次の段階では中央薬事審議会の特別部会を通過させる必要がありました。面談した上層部の話によると、次のように言われたそうです。
「(承認の方向で)上の特別部会に上げても、(他社の成績と)比べられると見劣りがするんです。それは避けたい」
同時期に上程品目に上がっていた自社製品の承認が交換条件で、“取り引き” による取下げだったとしか詳細は教えてもらえませんでした。すでに7年という歳月が承認申請から経とうとしていました。

 当局の懸案は、米国やEUに比べ承認審査に要する期間が長いことでした。毎年、承認審査期間を公表し、努力目標を平均で22ヵ月(1年10ヵ月)としていました。そのような場に、承認審査期間が7年というのは、いかにも足を引っ張る “不都合な真実” となります。会社側としても特許期間が切れかかっていたこともあり、承認申請取下げに応じることになりました。

 世界初と自負していた家庭血圧による薬効評価は、論文発表も出来ずに終わりました。公表なしでは世界初とはなりません。承認申請取下げ時、私はいつの間にか52歳になっていました。

 用法の問題で拗れたことの発端が、自分の身から出た錆だったということは自覚しています。開発途中から、用法について問題視されると不安を感じていたものの、進行中の日々の仕事に流されるままでした。形ばかりのABPMデータという弥縫策にしがみつくのみで、勇気をもって比較試験に舵を切れなかったのです。

 これにはアルコールが相当程度影響していたのかもしれません。飲酒以外のことならすべてに対し、最初に浮かんだ言葉が「う~ン、面倒クサ~イ」でしたから・・・。


 新規の降圧薬の用法・用量設定で、T/P比の扱いがその後どのようになったのか分かりません。私自身、今となっては全く知りたくもありません。

アルコール依存症へ辿った道筋(その31)につづく



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アルコール依存症へ辿った道筋(その29)当局が他社申請と見比べる?

2015-05-15 18:14:24 | 自分史
 新Ca拮抗薬P の承認申請から早くも3年10ヵ月が過ぎていました。この間、旧GCP査察に伴う生データ確認作業(5ヵ月)や、大学病院での治験データ捏造・改竄事件とその煽りを受けた生データ確認作業(13ヵ月)という思いも寄らない出来事があり、さらに新GCP に則した追加治験も実施(5ヵ月)となって想定外の時間が経っていました。
 それらの対応に取られた約2年(正確には23ヵ月)という時間は通常の承認審査ならとっくに結論が出ている期間に相当します。ちなみに承認申請から3年10ヵ月の内訳は、申請者側の時計では10ヵ月を費やしたのみで、当局側で経過した期間は3年でした。

 1日1回の服用という用法について、当局は申請当初何ら問題視していなかったのは事実です。恐らく後から申請した他社の類似薬と承認審査が並行することになったのでしょう。他社の申請資料と見比べて、私たちの申請資料には用法の比較試験データがなく、1日1回服薬の根拠資料として欠陥品なことに初めて気付いたのだと思います。このままの状態で承認したら、情報公開で他社の類似薬との違いが歴然とします。それをどうしても避けたかったのだと思います。

 指示事項で回答に含めるよう名指しで要求してきたのはT/P 比でした。T/P 比ならば、比較するもの(対照群)がなくても、24時間自由行動下血圧日内変動(ABPM)試験成績ひとつで算出可能なのです。そう考えるとT/P 比は当局の “助け舟” とも受け取れます。

 私としては、最初の担当官が注意怠慢で見落ししてしまったことを隠蔽するための工作で、むしろカムフラージュだったのではないかと疑っています。当局の本音は「比較試験データが欲しい」だったのです。冷静に考えてみると、T/P 比は思い付きの代案だった、それしか言いようがありません。成功体験の思い込みから、欠陥資料で申請してしまった手前の落度を棚に上げての暴論ではありますが・・・。

 危機的状況に遭遇すると誰でも視野が狭くなりがちです。当時の私も痛い所を突かれて狼狽え、視野が狭まったのだと思います。状況を広く見わたし、当局の最大の関心事は何なのか、彼らの思惑や当方の弱点(1日2回の服薬と比較したデータを欠く申請資料)など、冷静に推量するだけの心のゆとりがありませんでした。既にして相手の思惑を読むべき神経戦に敗北していました。これもアルコールの仕業だったのかと考えさせられました。

 取り敢えず指示事項に回答するには、T/P 比関連の文献情報を精査するしかありません。FDA のガイドライン(案)が内包する問題の中で、最も大きな問題はT/P 比の算出方法でした。FDA のガイドライン(案)の曖昧さから誰もが躊躇していたのでしょうか、実際にT/P 比を算出した臨床報告は数少ないものでした。

 ABPM に関する数少ない臨床文献の中に、当時の欧州高血圧学会会長Zanchetti が著者に名を連ねる降圧薬の臨床研究報告がありました。

 Zanchetti の報告では患者個々のT/P 比を算出した後、それらのT/P 比を用いて患者集団全体のT/P 比の平均値を求める方法を採っていました。こうして求めた患者集団全体のT/P 比の平均値が0.5 以上であったとし、FDA のガイドライン(案)が推奨する水準を満たしたとしていました。患者の立場に即した正統的な算出方法です。

 著者のネイムバリューからしてもお手本とせざるを得ない報告でしたが、ピークを服薬前と服薬後の血圧最大格差(最大血圧下降度)としたと述べているだけで、どの時点であるか明記してないことが不満でした。また、データ解析の背後に製薬企業がついているらしいことに胡散臭さを感じました。

 早速、Zanchetti 流を手持ちの試験データでためしてみると、やはりピークの採り方が曲者と分かりました。

 Zanchetti の報告では、ピークを最大血圧下降度の1点だけで求めます。服薬前後の血圧の折れ線グラフ(縦軸:血圧、横軸:時間)が交叉していなければ、ピークを求めるのは簡単な話です。多くの患者は、期待通りトラフもピークもはっきりしていて、服薬2~8時間後にピークを迎えた症例でした。ところが、患者によっては服薬前後の血圧が激しく変動して折れ線が交叉した症例もあったのです。これらの症例ではピークばかりかトラフも求まらないものもありました。これではT/P 比の平均値≧0.5 なぞ望むべくもありません。改めてT/P 比なるものはとてもマトモなシロモノではないと気付かされました。

 そこで前回述べたように、新薬調査会の新任専門委員に一席を設けて、これら生データの実際を見てもらい、落としどころを探ってみました。が、ABPM の生データを見たことがなかったのか、あったとしても実際は患者の病態を診断する観点でしか見たことがなかったのでしょう。
「作用の持続時間が短いとしか言いようがない」と、けんもほろろに言われるだけでした。結局、この筋からの解決策を見出すことは出来ませんでした。

 このような状況に困り果て、新Ca 拮抗薬P 研究会の代表世話人をはじめ主な幹部医師に相談を持ちかけました。やはりどなたもT/P 比算出の経験がないことから、上手く捌く妙案をもらえませんでした。“外れ値” や “移動平均” など統計学上よくやるデータ処理で解決を勧めてくれる方もいました。

 ところが、このような議論の場に備えて同行させた生物統計部署の責任者O 女史が、医者が相手となると “借りてきた猫” 状態となってさっぱり役に立たないのです。社内では何かにつけ舌鋒鋭い批判をするのが得意の人物がこれです。まさしく「一緒に仕事をしてみないと人物というのは分からない」、この時も実感しました。

 それでも医者と相談している内に、家庭で測定した血圧(家庭血圧)で評価する別の手段があるとの提案をもらうことが出来ました。この助言が後になって貴重なヒントになりました。

 結局、Zanchetti 流のT/P 比の算出が不可能な理由を述べ、元々の申請内容に患者集団全体の平均値から算出した仮のT/P 比を加えて回答としました。T/P 比の理不尽に憤る私では感情的で偏った回答にしかならないからと、元部下のM 君が正規の責任者PL (PM)として簡潔で抑えた論調の回答執筆者となりました。

 「比較試験データが欲しい」というのが本音の当局が、この回答に納得するわけがありません。T/P 比では埒が開かないと思った当局は、やっと用法の根拠データの欠落を指摘し、追加比較試験立案の治験相談に乗ると言って来ました。当局が治験相談に乗るということは、立案した治験計画自体が十分に評価できること、得られた成績が目的通りの結果であれば承認すること、その両方を意味します。

 私たちも厄介なT/P 比を求めることを諦め、家庭血圧で用法を比較するという新しい評価方法に方針を変更することにしました。家庭血圧が薬効評価に用いられたことは未だなかったものの、高血圧の野外(院外の町村コミュニティ)研究でその評価は定まっていたのです。全世界を見回しても例のない、全く新しい薬効評価方法を新たに開発することになりました。


アルコール依存症へ辿った道筋(その30)につづく



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アルコール依存症へ辿った道筋(その28)急所攻撃の神経戦・・・

2015-05-08 21:45:02 | 自分史
 「本薬は血中消失半減期が短い。本薬は1日1回の服用で十分なのか、用法の妥当性を血圧日内変動試験などの成績をもとにT/P 比を算出するなどして回答すること」
 
 当局からの5回目の指示事項(照会事項)で、ついに私が一番恐れていた急所を突かれてしまいました。吸収された新Ca拮抗薬Pは短時間しか血液中を循環しないので作用の持続時間が短いと推定され、一定の間隔で頻回に測定した血圧のデータ(血圧日内変動)から、1日1回の服用で十分血圧をコントロールできていることを説明せよという指示内容でした。

 血中薬物動態学的にみると、新Ca拮抗薬Pは2相性の血中消失半減期を持ち、前半(α相)の急激な消失半減期は2時間強、後半(β相)の緩やかな消失半減期が約30時間でした。

 2相性の血中消失半減期を持つ薬物の場合は、体内への分布に要する時間を示唆するβ相の消失半減期の方を重視するのが普通です。私たち会社側としてはβ相の消失半減期の約30時間を長時間作用持続のひとつの根拠としていましたが、当局はα相の短い消失半減期を問題としてきたのです。α相の短い消失半減期を重視するのは邪道で言いがかりとも受け取れました。

 血圧日内変動については、このシリーズ(その15)で述べた血圧日内変動試験に関連する部分をチョット長いですが再掲します。


「・・・私は、気に掛るのは『血圧日内変動の試験データだ』と答えました。
 血圧日内変動の試験というのは、入院患者を対象として降圧薬の作用が1日中安定して持続するか否かを調べる試験のことです。降圧薬を服用開始前と継続服用終了時の2回、所定の時刻に1日10回(午後10時~午前6時の就寝時を除く)血圧を測定し、降圧薬の用法を立証するための試験で、・・・
 新Ca拮抗薬Pの申請資料では、朝食(服薬)前の午前7時と就寝前の午後9時のデータについてだけ、血圧の下がり方が不十分に見えていました。
 私自身、問題視される可能性に備え、念のために治験を特別に2本組んでおきました。・・・睡眠中も含め、30分毎に24時間血圧を測定できる携帯型血圧計を用いた自由行動下の血圧日内変動(ABPM)試験が一つ。・・・ ABPM試験には次のような問題が内包されていました。
 心臓は1日約10万回拍動します。・・・血圧(=血管の拍動)も1日約10万回変動するのです。自由行動下の血圧であればなおさらです。本来なら動脈内にカテーテルを留置し、血圧を直接連続測定するのが理想的なのですが、現実問題としてほぼ実行不可能でした。
 ・・・ABPM試験成績では、患者全体の血圧の平均値で見ると(縦軸に血圧、横軸に時間をとった折れ線グラフを想像して下さい)、服薬前後の曲線は平行して推移し、昼間に高く夜間睡眠時には低い典型的な血圧変動曲線を示していました。ところが個々の患者の血圧の推移をみると、自由行動下の血圧は思わぬ数字を示すことが多々ありました。想像通り服薬前後の線が至る所で交叉した折れ線グラフそのもの、つまりグジャグジャした変動だったのです。・・・」


 血圧は重要なバイタル・サイン(vital sign:生きている証)です。生きて活動しているからこそ上述したような複雑な問題を内包しています。これに加えて照会事項にT/P 比という新しい概念の問題が出て来ました。

 T/P 比というのは、米国食品医薬品局(FDA)が降圧薬の用法を血中薬物動態と同様のイメージに沿って決めるべきである、とガイドライン(案)として提起したものです。血中薬物動態と同様に、血中濃度が底値となる次回服薬直前をTrough (トラフ)とし、服薬後の最高血中濃度到達時点をPeak (ピーク)として、それぞれの時点に対応する血圧下降度(服薬ナシの状態と比べた血圧の差)の比(Trough / Peak )のことです。

 FDA はT/P 比が0.5以上の場合のみ、その用法が適切であると推奨したのです。つまり、1日1回の服用を謳うためには、最も降圧薬の作用が弱まる時間(トラフ)の降圧作用は、最大の降圧作用となる時間(ピーク)の50%以上(T/P 比≧0.5)でなければならないということです。これは理想論ではあるものの、絵に描いた餅のような現実離れした架空の概念です。

 降圧薬の作用の発現はその血中濃度と完全に一致するわけではありません。血圧は行動や心理的ストレスにより常時変動していて、一定の値を示すものではありません。さらに、同一患者でも測定日が異なれば行動も当然異なるので、血圧の日内変動パターンが全く同じわけがありません。当たり前のことですが、最大血圧下降度を示す時刻も患者毎に異なり、一様ではありません。

 トラフをどの時点に求めるかに異論はないものの、ピークをどこ(最高血中濃度到達時点か、それとも最大血圧下降度を示す時点か)に求めるかについても決まりがありませんでした。必然的に、T/P 比を個々の患者から求めるのか、それとも患者集団の平均値から求めるのかが重大な問題となりますが、そのことについても何も決まっていませんでした。すべてが無いない尽くしだったのです。

 T/P 比は、このように合理性を装った概念ですが、算出方法のルールのない空想物語でした。治験当時もそのように考えていましたし、今でもその考えに変わりありません。ただし、T/P 比の概念そのものは、血圧の生データを知らない当局には受けのよいもののはずで、その対策を講じておくべきでした。

 患者集団から得られた平均値によるABPM のデータは、24時間にわたる血圧の変動パターンが目に見える形で提示されるので、降圧薬の薬効をアピールするのにとても重宝です。当時、夜間の血圧が患者の予後にも影響するということで関心を呼び、ABPM のデータを降圧薬の宣伝に使うことが流行り始めていました。しかし、ABPM のデータを新薬の薬効評価に用いた例はまだありませんでした。

 私もまさかの場合に備え、T/P 比も視野に入れてABPM のデータを治験で採ったつもりでした。が、初めて生のABPM データを見てからというもの、T/P 比が架空の概念であると確信を持ってしまい、よもや算出を求められることはないものと思い込んでいました。目に見える形のデータとして、患者集団の平均値を備えてさえいれば審査の対応には十分で、承認後の宣伝に使えればよいぐらいの気持ちの方が強かったと思います。

 血圧日内変動試験については、私には1日1回の服薬成績だけで承認を得た新剤型薬LA の成功体験がありました。新剤型薬の場合は、血中薬物動態でのバイオアベイラビリティー(血中濃度曲線下面積:AUC)が承認済の普通剤型と同等であればそれで十分なのです。両製剤の薬理作用を血圧日内変動試験で比べる必要はありません。

 新薬の有効成分は、薬理作用の持続時間自体が未承認のため、この点で全く条件が違います。有効成分の置かれていた条件の違いを列挙し、承認取得に必要な項目を科学的な目で整理してみれば簡単に分かることです。作用の長時間持続性を実証するには、1日1回の服薬と1日2回の服薬とを血圧日内変動試験で比較した成績が必要だったのです。なまじ成功体験があったために、1日1回服薬という外見上の共通項だけに目がくらみ、そこを勘違いしていました。

 成功体験には必ず甘い陥穽があります。その落とし穴にまんまと嵌ってしまったのです。前年秋に受けたヒアリングの際、当局が漏らした用法に関する懸念は当局の本音でした。
         *   *   *   *   *
 当局側では前年夏に全く新しい体制になっていました。国立医薬品食品衛生研究所医薬品医療機器審査センターという新たな組織が出来、新薬の承認審査を当局主導で行うことになりました。日米欧三極のICH 協議の影響によるものと思われました。それまでの当局は事務方で、新薬調査会という外部の専門委員が審査の主導権を握っていたのですが、これからは当局主導で外部の専門委員は助言するという立場になったのです。当然のことながら、当局の意向が前面に強く出るようになるだろうと誰もが思いました。

 一方、新薬調査会の専門委員メンバーの臨床医にも入れ替わりがありました。新任専門委員の臨床医は、業界内では治験に関して風評のある人物でした。△X◇の治験で御殿を建てたというよからぬ噂が流れていました。

 当初、専らこの新任医師が問題提起したものと考えていました。何か思惑があってのことと勘繰ってしまい、何とか助言をもらおうと一席を設ける機会を作ってもみました。しかし結局のところ、用法の妥当性を問う照会事項は、当局自身の強い意向から出たものと受け取らざるを得なくなったのです。

 当局が最も恐れるのは情報公開による国民の目です。誰がみても分かりやすいデータに基づいて新医薬品が承認されたと、国民に納得してもらうことが最大の関心事なのです。比較データの成績ほど誰が見ても納得できる成績は他にありません。

 新Ca 拮抗薬P の血圧日内変動試験成績は1日1回服薬の場合のみのデータであり、1日1回服薬と1日2回服薬を比較したデータ、あるいは対照薬として1日1回服薬の市販の類似薬を立て、それと比較したデータではなかったのです。市販の類似薬では例外なく、血圧日内変動試験の比較データで申請し承認されています。

 医薬品の使用方法である用法・用量は承認事項の根幹事項です。これほどの重要な案件が承認審査5回目の審議で初めて俎上に上がってきたことに今でも納得がいきません。最初の議案として取り上げて、1回目の指示事項として出されるべきでした。申請当初、当局は何ら問題視していなかったことは事実なのです。


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アルコール依存症へ辿った道筋(その27)酒害がジワジワ・・・

2015-05-01 19:47:48 | 自分史
 アルコール依存症と初めて診断された後、短い禁酒期間を経て再飲酒が始まったことはお話しました。当然のことですが、何かにつけ酒ばかり意識する生活に変わりました。

 休日には何の引け目も感じずに、当たり前のように昼間から飲み始めることが多くなり、そのまま深酒になることが普通になっていました。振戦も自覚せざるを得なくなり、その原因が深酒からではないかと見当をつけ、深酒にはならないよう休日の昼間は出来るだけ外出を心掛けるようにはしました。

 一方、週日の会社が引けた後の過ごし方にも変化がありました。新Ca拮抗薬Pの申請後、深夜までの残業が全くない内勤業務となり、やっと就業規則(時間)通りの普通のサラリーマン生活に変わっていました。残業していた時間がヒマになり、禁酒期間中に見つけた会社近くの居酒屋にほぼ毎晩通うようになったのです。

 その店は “旬香” といい、昼飯時の魚料理のメニューが良かったので、禁酒期間中にちょくちょく昼に利用していました。それで、再飲酒が始まった初夏の頃からは、会社が引けると夜にも直行で顔を出すようになったのです。もちろん夕食も兼ねてのことです。

 カウンターに8席、小上がり(狭い座敷)にテーブル2つというこじんまりした店でした。私より5歳ほど年下の夫婦でやっていて、亭主はすし職人上がりとのことでした。阪神大震災では同じ被災者だったことから話のウマが合ったのです。何のことはない、会社以外に自分の居場所を見つけたかったのかもしれません。

 程なくして “旬香” には昼も夜もの入り浸りとなり、一晩で3~4千円ほどの出費が毎日続くことになりました。酒の量はビールに始まり、焼酎のソーダ割りを3~4杯が普通だったと思います。客が他にいないときは、次の客が現れるまでと称して長居するようになるのは自然の流れです。会社に電話して客がいないからと同僚を呼び寄せたことも再三ありました。当然ながら、その分焼酎の量が増え、酩酊状態になることもしばしばありました。

 酩酊状態を見かねてのことでしょう、勧められるままに店主夫婦の自宅に泊めてもらったこともありました。それが契機で、寝ている間中、大きな鼾で始終息が止まっていたと言われました。睡眠時無呼吸症候群になっていたのです。当時独居の身でしたから、一人でいては決して分からなかったと思います。全くの偶然でした。

 通い始めて1年後の秋には、夫婦の自家用ワゴン車に乗せてもらい、大台ケ原~川湯温泉~熊野本宮大社~熊野速玉大社~熊野那智大社~串本・潮岬という紀伊半島を真っ直ぐ南下するコースを車中2泊で一緒に旅するようにもなっていました(雨で大台ケ原は急遽パス)。

 キャンプをした熊野川の河川敷ではブラックアウト事件もありました。飲んだ挙句に大の方の用足しに立って、川岸まで向かったところまでは覚えていますが、その後の記憶が消えてブラックアウトになってしまいました。用は足せたようですが、店主夫婦が一緒でなければ、危うく尻ポケットの財布を無くすところでした。予め財布を預かっていてくれたのです。自宅では飲んだら止まらなくなるのが普通でしたが、自宅外でも歯止めがきかず、飲み始めたら止まらなくなっていました。

 贔屓の店を一つに決め、毎晩ほぼ同一時刻にその店の暖簾をくぐる。居酒屋が潰れると、今度は立飲み屋へと、通う店は変わっても同じ時刻・同じ店に通い続けることが習い性となっていました。その後も長く続く私の典型的な飲酒パターンの始まりでした。依存の度合いが強く、すぐ習慣化してしまう性格がよく出ています。

 晩秋に受けた人間ドックで胃が荒れていると指摘され、年の瀬に初めて胃の内視鏡検査も受けました。毎日の酒が祟ってのことでしょう、胃潰瘍の瘢痕が見つかりましたが、幸いそれだけで放免となりました。血圧が高めで血糖値は基準値上限を超えるまでになっていました。

 新しい年になって、誕生日が来ると私は47歳、息子たちはそれぞれ長男が21歳、二男が17歳を迎えようとしていました。正月恒例の “十日戎” のお参りに二男と出掛けた際、ためしに進学先と将来就きたい職業を聞いてみました。二男は高校一年でした。

 「京大の法を狙ってみようと思う。」
 「目標を高く持つのは良いことだ。ただ、京大は現国が記述式で
  難しぃんじゃなかったかなぁ? そんな記憶があるが・・・。」
 「そうかぁ、数学は得意だけど、現国はなぁ・・・。」
 「自分の考えをいつでもメモする癖をつけるといいよ。
  まず書く癖をつけて、それを読み返すことから始めることだ。
  そうすると文章力が着く。要約してみるのがいいんだが・・・、
  時間はまだ十分ある。それで、仕事は何に?」
 「他人に使われるのはイヤだから、自営業に成りたいなぁ。
  国家資格の司法書士や公認会計士なんかどうかなぁ?」
 「国家試験は何とかなるだろうが・・・。自分だけの力でお客を
  呼び込むんだぞ、会社からの月給のように毎月の収入の保証は
  ないんだよ。お前に自営業が出来るかなぁ?」

 ある意味鷹揚(ホラ吹き)で他人付き合いの上手い性格の長男と違い、二男は他人付き合いが悪くはないものの、生真面目な性格です。ホラを吹いて煙に巻くことなど出来ません。公務員向きのところがあると思っていたので自営業志望には驚きました。

 二男は私と同じで営業的センスが乏しいのです。毎日夜の遅い帰宅で休日はほぼごろ寝の父親を見ていたので、会社勤めに魅力を感じなかったとしても不思議ではありませんが・・・。社長というたった一人の人物評価だけの、個人的な “好き嫌い” 人事をいつも気にしなければならないよりはマシかとも思いました。


 “十日戎” から少し経って、申請中の別化合物に対し、当局から旧GCP違反を事由として申請取下げの処分が下りました。治験実施計画書の立案時に、先行する治験中に発生した重大な安全性情報を加味しなかったため、患者の安全が確保されていなかったことが重大な違反とされました。これは安全性に対する会社の基本姿勢が問われた警告でした。新Ca拮抗薬Pも含め、他の申請中の化合物へ良からぬ影響が及ぶかもしれないと嫌な感じがしたものです。

 その処分から間もなく、新Ca拮抗薬Pへの照会事項(5回目の指示事項)がありました。

 「本薬は血中消失半減期が短い。本薬は1日1回の服用で十分なのか、用法の妥当性を血圧日内変動試験などの成績をもとにT/P比を算出するなどして回答すること」

 これがその内容です。吸収された新Ca拮抗薬Pは短時間しか血液中を循環しないので、作用の持続時間が短いと考えられる。一定の間隔で頻回に測定した血圧のデータ(血圧日内変動)から、1日1回の服用で十分血圧をコントロールできていることを説明せよということです。ついに私が一番恐れていた急所を突いてきたのです。


アルコール依存症へ辿った道筋(その28)につづく



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アルコール依存症へ辿った道筋(その26)奇妙な同行二人?

2015-04-24 20:15:02 | 自分史
 入社が3年先輩のYoさんは大学の同窓ですが、頗る人物評の悪い人でした。メガネを掛けエラの張った、見るからにガリ勉タイプの風貌をしていました。

 入社して2年間研究所で製剤研究業務に携わった後、国際関係部署に移って自社開発治療薬2号品Mの海外展開プロジェクトに加わり、そのまま海外勤務となった経歴の持ち主です。その間、統一前の西ドイツに臨床開発連絡事務所を開設したぐらいで特に目立った業績はない、というのが社員間の一致した見方でした。しかし、是非とも海外展開を図りたい社長の目から見たら、海外経験のあるお気に入りの使える人物であったわけです。

 社長臨席の御前会議では、聞き取れないぐらいの声で淡々と意見を述べるだけでした。それが、我々社員だけの場になると、机上の空論としか思えない理屈を捏ね出し、話しているうちに自説に酔って次第に興奮して来るという性癖を持っていました。空想小説ばりの自説を滔々と述べ、他人の意見を全く聞かないのです。

 社長のお気に入りということが事態を一層始末の悪いものにしていました。社員の中には彼を演技性(劇場型)人格障害者とレッテルを貼った人もいました。この年の春に転勤で去ったN先輩が以前から最も嫌っていた人物でした。

 一緒に仕事をしてみないと人物というのは分かりません。それまで私は彼と一緒に仕事をした経験はありませんでした。ただ、入社して2週間ほど社員寮の3人部屋で相部屋生活をしたことはありました。
「この会社はオーナー社長のワンマン経営だから、偉くならなきゃ何もできない会社だよ」 この言葉が印象に残ったぐらいで、それだけの関係でした。ですから社内の風評とは別で、特別変わった印象を持っていませんでした。
         *   *   *   *   *
 那智に行こうと思っていると会社で同僚に話していると、それを聞きつけてYoさんの方から一緒に行こうと言って来ました。後方支援部隊のトップになる話をまだ知らなかったのと、別段断る理由もなかったので同行することにしました。

 那智駅からは当然徒歩行を予定していました。当時はまだ和歌山・新宮行の夜行の普通電車がありました。拝観指定時間も考慮するとこの夜行列車で行くのが最善で、他に選択肢がありませんでした。そんな事情に加え実は夜行列車で久々の旅情に浸りたかったのが本音でした。大学時代に夜行快速電車と普通電車を乗り継いで東京駅から奈良駅まで行ったことがあったのです。もちろん貧乏学生ゆえの節約のためです。

 勤労感謝の日の前夜、夜11時過ぎに新大阪駅発のその電車に乗りました。座席は4人掛けのボックス席でした。途中の天王寺駅から和歌山駅間は快速区間で、最終の快速電車ということから朝の通勤ラッシュ並みの混み方でした。和歌山駅で乗客の大半が降りて行きました。それでも御坊までは和歌山からの乗車組も含め結構乗客がいましたが、御坊から先はほとんど私たちだけの貸切り状態でした。

 私は新大阪の始発時から缶ビールを飲み始めていました。和歌山駅からは向いの座席に脚を伸ばし、御坊を過ぎたらいつの間にか眠っていました。まだ暗い5時前、目覚めたときには終点の新宮駅に着いていました。乗り過ごしでした。那智に引き返す一番電車は5時少し過ぎだったでしょうか、5時半前にやっと那智駅に降り立つことができました。外はまだ真っ暗でした。

 那智駅から一番札所の青岸渡寺(熊野那智大社)までは10km余の行程です。那智川に沿った緩やかな上り道を歩いて行きました。那智川は小川に毛の生えた程度の川幅の狭い川です。’11年8月の台風12号による紀伊半島豪雨で氾濫し、山あいにある途中の井関地区や市野々地区で人的被害が出ることになるとは信じがたい穏やかな川でした。

 残り3~4km手前から大門坂という、両側に杉の巨木が並んだ熊野古道の石段を登ることが出来ます。当然、大門坂を選びました。大門坂を抜け、土産物屋の並ぶ狭い急な石段を登り抜けたところに左に熊野那智大社、右に青岸渡寺が同じ敷地内にありました。

 駅から歩き始めてこの方、次第に頭の中が真っ白になって余計なことを考えなくなっていました。Yoさんも同じだったろうと思います。黙々と歩くだけの2時間半ほどの行程を私の言う通りに素直に従ってくれました。

 境内に着いたのは早朝の8時前でした。肌着にビッショリ汗が染みこんで、Yoさんは早速着替えをしていました。準備に抜かりのない人だと感心したものです。私は着替えを準備してなかったので、タオルで額と首筋と背中を少し拭くだけでした。汗を吸った下着が背中にベッタリ貼りつくのが気持ち悪く、やがて濡れた汗の冷たさで寒ささえ感じました。それでも、気分は言いようのない達成感で満たされていました。

 人影がまばらな境内から遠くに見える白い那智の滝は、手前の三重塔の朱色と背景の杉(檜?)木立の緑が好対照となって荘厳な絵画そのものでした。遠く離れた滝からかすかな轟が聞こえていました。境内から見渡す滝の眺望と静寂な雰囲気にすっかり魅せられてしまいました。Yoさんもさすがに感動していました。

 私は、まず西国三十三ヵ所霊場納経帳を買い、納経帳に付いている般若心経を唱えて拝礼しました。納経帳に朱印をいただき、ついでの勢いで杖も買ってしまいました。

 願い事は“家内安全”とCa拮抗薬Pの早期承認、それと“無病息災”としました。別居生活が5年目となっていて、崩壊してしまった家族を再び元に戻して一緒に生活するのが望でした。ただし、アルコール依存症なのに“無病息災”はどう考えても無理筋ですが・・・。

 ただゝゞ参詣することだけをめざし、脚を棒のようにして歩く動と、一転して般若心経を一心に唱える静の対照の妙が堪りませんでした。ぜひとも巡礼はやり遂げなければならないと思ったものです。

 那智の滝は、落差133m一段の滝としては日本一で、熊野那智大社の別宮の御神体だそうです。杉(檜?)の巨木が並んだ石段の参道を滝壺まで下って、水しぶきを降らす滝を間近に見物した後、帰りはバスで紀伊勝浦駅に向かいました。

 勝浦では魚市場近くの食堂がすでに開いていて、まだ午前中なのも構わず本場のマグロの刺身を肴に早速ビールにしました。ビンチョウマグロだったので本場のマグロにしては期待外れでしたが、寝不足と歩き疲れで心地よい酔いでした。何ら警戒心もなく問われるままに社員の人物評まで話してしまいました。Yoさんは特に異論をはさむでもなく、時に相槌をうち、上機嫌で耳を傾けているようでした。

 そのまま何事もなくひと時が過ぎ、昼ごろの特急電車で帰路につきました。電車内では座ると直ぐに爆睡です。気が付くと私は終点の新大阪駅に一人で着いており、酔って夢うつつのボンヤリとした頭のままでホームに降り立ちました。まだ明るさの残る夕方でした。

 ワンルームの自宅に着いて再びビールを口にし、せっかく買った杖がなくなっていることに初めて気が付きました。これもいつも通り、またまた後の祭りです。一日中Yoさんと行動を共にしてみて、社内の芳しくない風評は一体何なのだろうと不思議に思ったものでした。


 年の瀬の12月に入って、二番札所の紀三井寺、三番札所の粉河寺、四番札所の槙尾寺まで一日で一気に巡ることができました。

 大阪泉州の槙尾寺には拝観指定時間の締切が迫っていため、和泉府中駅から寺の麓まで渋々タクシーを利用しました。槙尾寺は、境内に入ると急な登りで狭い山道の参道しかなく、30分ほど歩く以外に手段のない唯一の札所です。他の札所にはどこかに車の通れる参道があるのですが、ここだけは日頃の脚力が問われます。もちろん汗ビッショリになるので着替えのためのシャツも必要です。槙尾寺からの帰りはバスを利用しました。槙尾寺は最寄りの和泉府中駅から14~15kmもあるのです。

 その後、西国三十三ヵ所巡礼は番外札所も含め36ヵ所の全札所を3回巡ることになりました。すべて最寄りの鉄道の駅から歩いて寺に向かい、寺からの帰りも原則駅まで歩きました。その中でも槙尾寺が最も長い行程だったと思います。

 4巡目も始めたのですが、狭心症を発病してしまい、山道の登りを続けるのは危険と判断して20番札所の京都西山・善峰寺までで中止しました。4巡目は、4番札所から20番札所までの全行程を寺から寺へ歩きで繋いでいたので残念で堪りません。古道地図を頼りに一日最長で40mkぐらいを平気で歩いていましたから・・・。

 今になって考えてみると、西国三十三ヵ所巡礼に夢中になったのは、始めたら止められないというアルコール依存症に特有の行動パターンだったのかもしれません。


アルコール依存症へ辿った道筋(その27)につづく


参考)西国三十三ヵ所巡礼のURL:http://fishaqua.gozaru.jp/temple/saikokutemple.htm
   西国三十三所古道地図のURL:http://www.saigokuws.com/chizu.html


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アルコール依存症へ辿った道筋(その25)厄の火の粉は祓わにゃならぬ~♪

2015-04-17 06:47:44 | 自分史
 再飲酒してしまってからも隔週の日曜日にあった表装の受講を続けていました。講習は昼過ぎの時間帯にありました。午後の時間帯は深酒した場合にアルコールが切れてくる時間帯です。

 表装の表・裏生地の切り取りには力と神経を使います。定規を添えてカッターナイフで力を込め生地を切り取る際に、いつの頃からか手指の震えで上手く出来ないことがよく起きるようになりました。緊張すると余計に力が入り、それで震えが益々酷くなるのです。明らかに振戦でした。掌もじっとりと汗ばんでいたと思います。

 さすがに周りの誰かに気付かれはしないかと気になり始めました。そのうち表装すべき肝腎の書の作品が調達できなくなり、(いい口実が出来たと)秋口になって仕方なく(?)受講を辞めることにしたのです。グレープフルーツ・ジュースとの交互作用の指示事項回答を提出した頃のことです。1年10ヵ月の講習で仕上げた作品は仮表装1本と本表装4本でした。

 飲酒再開後にこのようにはっきりと振戦の顕在化を自覚するようになって、休日ことに土曜日には必ず外出しないと危ないと考えるようになりました。

 幸いなことに週日の勤務時間内ではまだ振戦を自覚しないですんでいました。連休明けの月曜日は仕事リズムに戻るのが遅いと感じてはいましたが、仕事に何ら支障はありませんでした。翌日の出勤を意識して日曜日には深酒を自重していたのです。

 ところが、出勤がない連休初日の土曜日は最も気が緩みがちで、昼食時からビールが始まり酒量が多くなっていました。表装の受講は深酒後の連休二日目にあたり、前日の過ごし方が振戦の原因だろうと気が付いたのです。

 とにかく外出しなければいけないということを口実(?)に、夏になると有給休暇を採ってまでもせっせと高校野球を観戦に甲子園球場に通いました。

 以前、甲子園球場の近くに住んでいたこともあり、夏の休日には無料で自由に出入りできる外野席にちょくちょく行っていました。仕事が忙しくなって暫く行けない時期がありましたが、家族と別居するようになって野球観戦を再開したのです。

 ウグイス嬢の場内アナウンスの響き、大観衆の耳を聾するばかりの歓声、球場内を包むムワッとした熱気、これら全てが快く、私の夏のお気に入りでした。

 8月上旬の朝は午前5時前にはすっかり明るくなっています。球場の開門が7時なので、5時半には家を出て50分ほど歩いて球場に向かいました。

 球場前の国道43号線高架下で入場券発売まで30分以上列を作って待ち、7時に入場券を買い、7号門から一斉に入場して一目散に走り、銀傘下バックネット裏のNHK放送席近くに陣取りました。ファールボールが飛んで来ることは決してなく、直射日光に曝されることもない特等席です。

 第一試合開始の8時半までには持参したビールで出来上がってしまい、第二試合の途中からは酔いと暑気で意識が朦朧のままに居眠りタイム、第三試合から再びお目覚め観戦というのがお決まりのコースでした。

 ビールをさらに補給しながら、つい第四試合までお付き合いしてしまった帰り道、急な排泄欲求に堪えきれなくなって敢無く粗相してしまったのもこの時期だったと思います。公園の水道で応急処置をし、下半身を濡れた下着のパンツ一枚だけになり、暗がりを選んで歩いて帰るハメになったことがありました。それでも球場で消費するビールの量は控えめで、夏の暑い日中に酒浸りで部屋に引き籠っているよりはマシでした。


 西国三十三ヵ所観音巡礼は御利益があるという話は以前から聞いてはいました。近畿地方がその舞台で、四国八十八ヵ所遍路に匹敵する行程距離を誇り、平安朝時代から続く歴史ある古寺巡礼コースです。

 巡礼成果の朱印の掛け軸が話の発端だったでしょうか、表装の受講生に朱印を掛け軸にしようとする人がいました。その人から巡礼行の具体的な自慢話を聞いたのだと思います。受講生はほとんど50歳代以上の方々で、共に関心のある話でした。

 私は46歳となっていたので厄年は明けていましたが、まだまだ厄が取り憑いている気分が残ったままでした。西国三十三ヵ所観音巡礼はどの番号の札所から始めてもいいと聞きました。でもやっぱり一番札所から始めるのが自分にピッタリのやり方と思えました。ガイドブックを買って一番札所が日本一の滝で有名な那智の青岸渡寺であることを確かめ、秋になったら厄払いを始めようかと考えていました。

 秋になって、どこかで土門拳の室生寺五重塔の写真を見たのでしょう、西国三十三ヵ所観音巡礼の前にまず奈良の室生寺を訪れてみようと思い立ちました。土門拳は当時すでに鬼籍に入った人でしたが、室生寺を題材とした作品集『古寺巡礼』は有名でした。

 室生寺までは近鉄室生口大野駅から歩いて約2時間半、8km余の山道のハイキングコースです。杉か檜かは覚えていませんが、薄暗い木立の中を辿る石ころだらけのコースで東海自然歩道の一部になっていました。鬱蒼とした木立の登り道を抜けきったところが峠の頂上になっていて、突然開けた眼下に山あいの室生の里が見えました。暗い鬱陶しさから明るく解き放たれた気分でした。

 下りの桑畑の間を抜けると寺の前に着きます。短い太鼓橋を渡って仁王門から室生寺の境内に入ると、広くはないうねうねした上りの参道の左右交互にお堂が配置され、登りきった所に五重塔があります。いかにも山寺らしい伽藍です。

 弥勒堂、金堂、権現堂に安置されている仏像はどれも国宝や重要文化財(重文)で、特に金堂に祀られている中尊釈迦如来立像(国宝)、十一面観音像(国宝)、地蔵菩薩立像(重文)、薬師如来立像(重文)、文殊菩薩立像(重文)、十二神将像(重文)が群立している様には圧倒されました。

 十二神将像以外の仏像は、かなり名の通ったお寺であっても、それぞれが本尊として安置されていても不思議ではないぐらいで、むしろその方が普通のように思えます。また、博物館では一体々々が独立して展示されるのが当たり前です。

 そのような展示を見慣れた眼には、狭いところに密集して無造作に並べられているとしか見えない金堂の仏像群に違和感がありました。京都の三十三間堂もここ以上に夥しい仏像群が安置されていますが、三十三間堂ではどれもが観音像で秩序が感じられるのです。

 金堂からさらに石段を登り奥まったところに五重塔が建っています。五重塔は小柄で華奢な女性を彷彿させる瀟洒な造りでした。塔の姿とたたずまいが女人高野と呼ばれる所以とも思えました。

 周りを檜の巨木に囲まれ、柱や梁の朱と庇や壁の漆喰の白とが檜の緑に映えて色彩的にも唸らせるものがあります。土門拳の作品は五重塔の静かで優美なたたずまいをよく伝えていると感心しました。

 ’98年の台風で檜の巨木が倒れ塔左側の庇屋根が潰されました。支柱で補強されてはいましたが、それでも塔自身は倒壊などしていませんでした。私が最初に訪れたのは台風の前年でしたが、台風の翌年にも訪れていて台風被害を目の当たりにしていたのです。

 室生寺からの帰りも徒歩行としました。その日は往復で17~18kmぐらい歩いたでしょうか。駅に着くなり缶ビールを買い求め、電車の中でも構わず飲んで古寺巡礼の心地よい疲労感を楽しんでいました。室生寺を訪れて古寺巡礼の味を占め、いよいよ那智行きを決めたのです。


アルコール依存症へ辿った道筋(その26)につづく


参考)室生寺HPのURL:http://www.murouji.or.jp/


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アルコール依存症へ辿った道筋(その24)えっ、新GCPで治験追加?

2015-04-10 20:33:07 | 自分史
 世界標準の新GCPの法制化の議論が確定し、’97年3月に省令として発出されました。日米欧の三極で協議(ICH)して決めたものとなっていますが、実質的には米国主導で出来上がったグローバル・スタンダード(ICH-GCP)です。
 ICH-GCPでは、ひとつの事柄(例えば治験責任医師)について立場を変えた複数の視点から繰り返し何度でも記述するという体裁が採られていて、治験実施体系が執拗なまでに徹底した形で規定されています。新GCPはこのICH-GCPを法律文にしたものです。
 法律文を理解しやすくするため中央薬事審議会が答申GCPというものを発出しています。理解しやすくした翻訳文の答申GCPであっても、アングロサクソン文化特有の記述構成のままで、日本文化の特色でもあるさらりと淡泊で程よい曖昧さは全くありません。新GCPからみると旧GCPは大甘で無邪気で幼稚なものでした。


 会社でも新GCP施行少し前から臨床開発業務の分業化が具体化されました。

 モデルとなったのは米国で臨床開発を担っていた子会社のシステムです。従来一人で何役もこなしていた臨床開発業務を細分化し、新GCPに則した専門職種として独立させました。分業化された職種ごとに「何時・誰が・何を・どうする」を規定する標準業務手順書(SOP)作りもしました。こうして責任を明確に分担させる体制を整えたのです。

 新しい職種、メディカル・ライティング(MW)の部署も新設されました。治験実施計画書や、治験完了後に義務付けられた治験総括報告書などの必須文書の記述作成を専門とする著述家(?)集団です。職種代えで私がMWを取り仕切ることになったのもこの時期です。臨床開発の前線部隊から後方支援部隊へ、私としては初めての異動となりました。

 後方支援部隊というのは私たちのMW室の他、統計解析担当の生物統計室(BS)、治験データ(CRF等)管理のデータ・マネジメント室(DM)、文書の和文英訳担当の科学文書室、それと治験薬管理室のことです。これらの業種は開発品目を問わず共通する臨床開発業務で、新GCP施行に伴いこれらの業務の受託を専門とする臨床開発受託業者(CRO)も現れ始めた時代でした。

 この組織改革を実行したのは異動で着任した常務のYa氏と役員待遇のYoさんでした。

 常務のYa氏については研究所長から臨床開発部門トップへの横滑り人事なのは明らかでした。自社開発治療薬1号品と2号品両方の創薬リーダーを務めた人物で、アクが強いものの海外留学経験もあり実績は誰もが認めるところでした。

 一方のYoさんは私の3年先輩でしたが、海外勤務経験もあり社長のお気に入りの一人でした。当初は常務のYa氏の補佐役だろうぐらいに思われていました。ただ、この二人の仲が悪いことは皆知っていました。それでお互いをお目付け役にしようとする社長の思惑かと勘繰ったものです。

 もう一人、しばらくして私たちの直属の上司になる定年間近のKa氏も異動してきました。

 この組織改革を機に異動で離れたのが感情的に色々あったN先輩と臨床開発部門のトップ・専務のK氏です。

 N先輩は医薬営業部門の販促戦略責任者として東京へ転勤となりました。会社を揺るがした市販後使用全例調査データ捏造事件の騒動からすでに5年半が経っていました。特別専任プロジェクトを組んだ市販後使用全例調査は依然として続いていました。「絶対に諦めるな」という社長の信念と、使用患者が細々ながら続いていたことで、承認取り消しを申請できずにいたのです。このことがあってか、当時N先輩の歩く傲慢の影が大分薄れてきていました。

 専務のK氏の常任監査役への降格も決まり、N先輩の異動から少し経っての異動となりました。この10年来因縁深い上司だった二人が更迭されたのです。

 何のことはない、臨床開発業務の分業化は臨床開発部門の一大組織改造案を具体化するその第一歩だったのです。

 実は、Yoさんの進言を入れて臨床開発部門を前線部隊と後方支援部隊に大きく二つに分けることが決まっていたようなのです。Yoさんの思惑通りになり、後方支援部隊トップへのレールが敷かれたものと思います。

 Yoさんが実際に後方支援部隊のトップとなったのはそれから約1年後のことになります。CRO業者のように、他社の業務をこの後方支援部隊に請け負わせようと、まさか本気でYoさんが目論んでいるとは思いもしませんでした。

 国立大学を舞台としたデータ捏造・改竄事件の横槍で課せられた旧GCP信頼性調査結果報告書の提出と同時期に、新薬調査会の2回目の指示事項回答も提出しました。

 この2回目の指示事項回答についてのヒアリングを受けた際、新Ca拮抗薬Pが水に難溶であることから、1日1回服用への懸念が当局から出されたというメモが手帳に残っています。薬の物性からすると長時間にわたって効力が持続するはずがないというニュアンスだったと思います。

 「えっ、今頃になって何を言い出すの・・・」とムッとしたことだけしか覚えていません。呆れるほど淡泊な質問をしただけで単細胞そのままの反応です。
 「どういうことですか?」
 「まぁ、別に・・・今言った通りのことです。」

 用法の妥当性に関する見過ごせない疑念のはずです。当然、この時すかさずその真意をもっと確かめておけば良かったのです。今になって思えば“逃がした魚は大きい”、結局のところ後の祭りとなりました。いつものことながら肝腎のときになると、決まって意識がポッと飛んでしまい、念押しをコロッと忘れてしまうのです。

 この回答提出から2ヵ月後、3回目の新薬調査会指示事項が出て来ました。

 3回目の指示事項のハイライトはグレープフルーツ・ジュースとの飲み合わせ(交互作用)の問題についてでした。これには基礎研究データで回答したのですが、2ヵ月後の4回目の新薬調査会指示事項では遂に、交互作用について治験を実施し、ヒトのデータを提出せよとの要求になりました。

 当時、新Ca拮抗薬Pと同系統の降圧薬はグレープフルーツ・ジュースと一緒に飲むと、作用が強く出ると知られるようになっていました。今ではグレープフルーツ・ジュースの薬剤交互作用としてよく知られています。ホテルでの朝食時に、降圧薬をグレープフルーツ・ジュースで飲んだところ、頭痛が酷かったという報告が発端でした。薬物代謝酵素の研究が進んだことによる時代が要請した指示事項です。

 「えっ、またぁ治験?新GCPでやるのは面倒なのに・・・本当に面倒臭い」、これが本音でした。新たに追加治験を実施しなければならなくなった、この指示事項が禁酒を破らせた引き金でした。

 会社として初めての新GCPに則した治験です。臨床開発部門の最優先課題として治験実施計画書の作成から治験総括報告書の作成終了まで、すべて新GCP遵守で実施することになりました。私は新人MWとして、PL(治験責任者:以前のPM)代行も兼ねて会社初の新GCP治験の立ち上げに取り組みました。

 新GCPでは治験実施計画書の見出しの付け方を始めとして、その構成や盛込むべき内容まで詳細に規定しています。その規定を具体化したお手本がない状況では、いまいちピンと来ませんでした。

 同じ内容を治験実施計画書のあっちの章にもこっち章にも重複記載してしまう破目になりました。これに懲りてテンプレート(雛形)作りが新部署の初仕事になったのですが・・・。関係する全部署が集まって何度も試行錯誤の議論を重ね、治験実施計画書の最終案作成には2ヵ月ほどかかりました。従前なら2週間でも十分お釣りが来るところです。臨床開発部門挙げて最優先で進めたのですが、結局ナンダカンダで指示事項回答提出まで5ヵ月を要しました。

 これが真酷劇(?)の序章でした。後に大問題となった1日1回服用の妥当性を照会してきた指示事項は、この4回目の新薬調査会審議ではまだ出て来ていません。この時期、当局内では大きな変化が進行中だったのです。


 飲み屋でソファに座っているときに、初めて突然意識を失って床に崩れ落ちたのはこの頃のことと思います。

 追加治験の実施が決まってしまい、その憂さ晴らしにハシゴ酒の末に行きつけのスナックに入ったときでした。再飲酒した勢いで、かつて部下だったM君が一緒でした。M君がトイレに立ったまでは覚えていますが、気が付くと床に倒れていたのです。怪我はなく、辺りにグラスの破片が散らばっていました。私としてはチョット飲み過ぎの失態だったぐらいの感覚でした。

 これが定年退職後の連続飲酒で何度も経験することになる一過性の失神・顔面転倒の最初の出来事でした。請求書の額は高かったそうです。M君が会社の交際費で落としてくれました。


アルコール依存症へ辿った道筋(その25)につづく



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