ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

災いは元から断たなきゃダメ!

2016-12-06 07:29:23 | 自分史
 アルコールの正体を知らないとどんな結末を迎えるのか?
 手の振戦からアルコール依存症と診断されたのは私が45歳11ヵ月の時です。それ以来、会社にバレて失職しないようチマチマした小細工を何かと試みました。できるだけ酒から距離をおこうと、休日には西国三十三ヵ所巡礼を原則歩きで始めてもみました。一日20~40km歩く苦行を3巡以上重ねても、アルコールの魔力はビクともしませんでした。アルコールの毒性は進行性で、次々に身体を蝕み続けました。

 長年(20年?)の飲酒習慣が祟り、高血圧、糖尿病、高脂血症を次々に発症し、ついには53歳で不安定狭心症にもなってしまったのです。それでも酒を止めようとせず、アル中定番の立飲み屋通いも始まりました。いや正確に言うと、酒がどうにも止まらなかったというのが正直なところです。これらの生活習慣病の原因がアルコールなどとは思いもしなかったからでした。

 こうなったら後は一本道です。休日には公園で “朝から飲酒” が始まりました。そして、定年退職後は文字通り家で “朝から飲酒” となって、1年半で生ける屍寸前まで行ってしまったのです。辛うじて定年退職まで会社勤めを続けられたのは、生きている内に何としてでも片付けなければならない宿題を背負っていたからでした。重い宿題が生きる意欲となっていたなんて、こんな皮肉な幸運も現実にはあるのです。

 今回は、昨年の同時期に投稿した記事の再掲です。アルコール依存症の本質を知ろうとしないまま、断酒もせずにいくら取り繕うとしても無駄という実例です。


続々 飲み方が異常となった転機
 飲み方の異常というのは、“飲み出したら止まらない”といった酒量の多さも問題ですが、TPO(時と場所、場合)を弁えずに飲酒してしまうことの方が遥かに重要です。“朝酒” や “隠れ酒......


続 飲み方が異常となった転機」も是非ご参照ください。


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「酒が おいらの 人生だ」

2016-07-15 06:58:07 | 自分史
 表題の言葉は、孫の一人から贈られた “ぐい飲み” に記されている言葉です。“ぐい飲み” は湯呑み(茶碗)ぐらいの大きさで、50歳代の終わりごろに誕生日のお祝いで貰ったものです。以前はこれで焼酎のお湯割りを飲んでいました。当時、孫が私のことをどのように見ていたのか、この言葉がよく物語っていると思います。

 私は長年TVに毒されて、家族とは笑顔が溢れ仲の良いものだというイメージに囚われてきました。たとえ諍いがあっても、じきに仲直りできるハズで、後に尾を引くことはあり得ないのです。少年期の頃から、TVのCMやホームドラマの映像で繰り返し見せつけられ、眼に焼き付けられたイメージです。世の中の家族は、そんな姿が普通なのだと、身体に沁み込んでしまっていました。

 恐らく孫たちの世代でも、家族に抱くイメージは似たようなものではないかと懸念しています。現実はそんなキレイ事では済みません。かつての私などは、思惑の違いや言葉足らずの行き違いから、ともすればケンカになりやすい現実の方が間違っていると思いがちで、キレイ事のイメージの方が、あるべき本当の姿と思っていた時期もありました。そんなことを考えるにつけ、親世代が酔っ払った末に親子で修羅場を演じた現実の姿を、孫たちがどう見ていたのか気になってしまうのです。

 孫たちとは長男の息子たち二人のことで、“ぐい飲み” を贈ってくれたのは年上の孫です。孫たちが遊びに来るのは、大抵は連休のときで、連泊するのが普通でした。長男はまだ車を持っていなかったので、その都度妻が車で送り迎えをしていました。その当時、30年以上勤めたサラリーマン人生は、不本意ながら、早くも “上がり” を迎えていました。休日といえば何をすることもなしに、午前中から公園の東屋で発泡酒をチビチビやるのがすでに習慣になっていました。

 孫たちが来る日と分っていても、この楽しみは止められません。抑え気味ではありながら、孫たちと顔を合わせる頃にはかなり出来上がっていたと思います。初日の夕食は、酒が入っていてもまだ和気藹々としたものでした。長男も私同様の呑み助で、飲み出したら止まらないところもよく似ています。そのため、初日は無難に過ごせても二日目ともなると、酒が入った席特有の、つい本音(?)同士がぶつかることもありました。

 どういう経緯(いきさつ)だったのか覚えていませんが、酒を飲みながらの夕食のとき、老後の介護の話から一悶着起したことがあります。
「お前らの世話など受けたくない。そうなったら、その前に自分で始末をつける」と、私はつい口を滑らしてしまいました。息子たちに介護など頼まずに、公的介護で何とかしたいという思いを話したつもりでした。大分酒が入った長男はこれを聞くと、
「何ぃー!?」バァーンと卓を強く叩き、怒り出しました。どうやら親子の縁を切るつもりだと勘違いしたらしいのです。叩いた時の衝撃で手指を傷めたのもかまわず、怒りがどんどんエスカレートしたようで、とんでもない方向へ話が飛躍して行きました。
「孫たちとも縁を切るつもりか? それなら一人で田舎に引っ込めよ!」
特に、「田舎に引っ込め」は私の半生を全否定する言葉です。それを分っていて敢えて口にしたのです。抗っても無駄とは思いましたが、一応縁を切るつもりで言ったのではないと抗弁してみました。が、酔っ払いの爺の話などもう聞いてはくれません。
「孫たちが可哀そうだと思わないのか? 孫に謝れ!」とまったく引きません。仕方なく孫たちを別室に連れて行き、改まった顔で「おじいちゃんは、お前たちを決して見捨てたりしないから、安心して・・・」と宣言せざるを得ませんでした。事情が呑み込めない孫たちは、ただ神妙に聞いていました。

 酒席では、些細な行き違いからよく口論となります。酔ったもの同士、それぞれが性急に白黒付けたがる思考に陥り、それぞれが同じように一方的で強圧的な物言いになってしまいます。相手の言うことは曲解するばかりで、聴く耳など持たないのです。体験談でよく耳にする、アルコール依存症の家庭の姿そのものです。その後も同じように酔っ払った末の悶着があり、長男も車を持つようになったので、孫たち一行は日帰りとなりました。酒の上の無用な諍いを避けるためでもありました。

 こんなこともありました。完全退職後、連続飲酒状態になってしまい、アルコール依存症が一層進行した末期に近い頃のことです。すでに記憶が断片的でもあり、今でも多少の躊躇いがあるのですが・・・。

 その頃の私は、毎日風呂にも入らず、シーツに匂いが染みついた敷布団を敷きっぱなしで、自室に一人で引き籠っていることが多くなっていました。室内は、発泡酒の空き缶の詰まったいくつものレジ袋が散らかったままでした。まるでゴミ屋敷のような有様で、“臭いもの身知らず” を地でやっていたのです。

 襖を隔てた隣のリビングにいても、恐らく悪臭プンプンだったのだと思います。「何度注意しても聞いてくれない」、この状態に困り果てた妻は、孫たちの姿を見れば、さすがにシャキッとするのではと思いついたのでしょう。連絡を受けた長男が、孫たちを引き連れ駆けつけてくれました。孫たちが部屋に顔を見せるや、鼻をつまみ、顔をしかめて「ワッ、臭せぇーっ!」の大合唱でした。そう言われたら、さすがの私も少しは正気に戻らざるを得ません。長男の指図通り、シーツを取り換え、布団を上げ、部屋を片付け、窓を開けて部屋の空気を入れ換えました。妻の作戦は見事に当たったのです。

 下の孫は早起きです。私が引き籠りになる以前は、起きたら直ぐ私の部屋に来て、朝食までの間一緒に時間を潰していたものです。私の引き籠りを目の当たりにした後は、さすがにそれはなくなりました。酒を断ってから2年ほど経ったある日、久々に日帰りではなく泊りがけで遊びに来てくれました。私の顔つきが元に戻ったからでしょうか、朝起きたら直ぐ私の部屋に来て、以前のように朝食までの間一緒に時間を潰してくれました。下の孫にとっては普段通りにしたまでのことだったのでしょう。こんな些細なことでも、私にはありがたい励ましに思えました。

 孫たちは、私がアルコール依存症になった後で生まれました。彼らはアルコール依存症の祖父の姿しか知りません。大人しく静かに飲んでいた姿や、酔った末に父親と諍いしていた姿、酒の毒に侵された末の無様な姿、まさしく “酒がおいらの人生” そのものの姿です。「酒に飲まれたおじいちゃんは間違っている。やっぱり酒は毒だ!」と彼らが考えてくれたなら、醜態を晒した私の姿もそれなりに意味があったと思っています。

 TVで見る和気藹々の家族のイメージも、些細なことから感情的にぶつかりやすい家族の姿も、どちらも本当の家族の姿なのです。どちらか一方が正しいのではなく、その両方を具えているというのが現実です。孫たちには、この現実をバランスよく受け入れ、ありのままの事実をありのままに受け入れる現実主義者であってほしい。そう願わずにはいられません。

 今回は、かつて長男とあった諸々の諍いが思い起こされました。気掛かりなことといえば、長男がすでにアルコール依存症の境界域(精神依存)になっているのでは(?)という懸念です。

 一旦この病気になってしまったら、家族や肉親が何と言おうと聞きません。
「俺はアル中なんかじゃない。酒なんかいつでも止められる!」と虚勢を張るのが定番で、そう思い込ませるのはアルコールの仕業です。自ら進んでアルコール専門の精神科を受診し、断酒に導いてもらうことが絶対に必要です。その前に、家族から見放され、内科医からも匙を投げられることも必要条件です。それがなければ、自ら進んでアルコール専門の精神科なぞ受診しようとは思いません。せっかくアル中の生き標本を目の当たりにしてきたのですから、「断酒などチョロイものだ」などと、長男にはユメユメ思わないで欲しいものです。


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大人の条件 ― 人格の違いを弁えた人付き合い

2016-07-08 17:25:49 | 自分史
 先日、NHKの番組『プロフェショナル 仕事の流儀』で、スゴ腕の保育士の仕事ぶりを放送していました。番組の主人公は野島千恵子氏という大阪のベテラン保育士で、主役は5~3歳の幼児たちでした。野島氏の保育はユニークで、幼児たちに一から十まで指図などしません。年長組の5歳児1人と年中・年少組の幼児たち数人で構成するグループ単位で保育しています。年長の5歳児にリーダーシップを執らせ、グループ内の年中・年少組の幼児たちにまとまった行動を執らせる保育です。これこそ自分で考えさせる教育の原点ではないかというのが番組のテーマでした。

 野島氏は「人は人の中にあってこそ、人間として成長する」をモットーに、幼児たちの教育に当たっているそうです。正確な文言をメモしそびれてしまいましたが、趣旨としてはほぼ間違いありません。「人は、年長の人を見習い、自分で(行動の)好き嫌いを判断し、あるときは反発からケンカにもなる。そんなとき、自分の気持ちや考えを相手に伝えられるのは言葉でしかない。」これが幼児期にコミュニケーション能力を育もうとする野島氏の仕事の流儀です。

 リーダーシップを任せられた年長の子は、それなりに苦労を味わうようです。自分から出した提案に、いつでもすべての子が従ってくれるわけではありません。年下の子の中には、自分の意にそぐわないと、反発から暴力に訴える場合もあるようです。暴力(ケンカ)は、年下の子がいきなり年長の子を打(ぶ)ったり蹴ったりで始まるようです。言葉による宣戦布告など、そこにはありません。いきなり暴力を受けた年長の子は、びっくりして泣き出します。ケンカになったときが野島氏の出番となります。まず、暴力をふるった子に、根気よく理由を言葉で説明するよう促します。そして最後には、言葉で謝らせるところまで持って行くのです。頭から教え込むばかりが教育ではない、目からウロコの思いでした。

 暴力を受けた年長の子は、年下の相手の子が自分の意の儘にならない別の人格なのだと、否応なしに学ばざるを得ません。親子兄弟だけでいる日々なら、意識することのない他人との人間関係です。好き嫌いを判断する考え方や、行動の仕方から、それぞれに現れるのが人格です。幼児期に、人それぞれが互いに異なる人格の持ち主だと体得できることは、社会生活を送る上でとても貴重なことです。子供同士だけでやる集団の遊びが、人格の違いを体得する上で大切なことなのだと納得させられました。

 就寝時刻が過ぎていたので、番組を最後まで見ることなく眠りに就いたのですが、二重の意味で “気づき” のあった番組でした。人格の違いなどというものは、生身の他人同士が身近に付き合い、ぶつかり合ってこそ体得できるものなのです。小説や映画などからも理屈では理解できるとしても、決して体得などできるものではないのです。さらに、幼少期の私の生い立ちと、結婚生活が破綻した因縁についてまでも、大いに気付かされました。

 小学2年までの私はひどく病弱で、入退院を繰り返してばかりいました。子供同士が何人か集まって、息遣いが聞こえるぐらいの近さで共に遊んだことはあります。が、その機会はあまり多くはありませんでした。当然、子供同士それぞれの思惑がぶつかった末の、ケンカなどした思い出はありません。屋外で遊ばない分、専ら家の中で、プラモデルを作ったり、本や雑誌を読んだりして過ごしていました。小学3年以降も、こんな過ごし方にあまり変わりがなかったと思います。

 こんな生い立ちを振り返ってみると、幼少期の私には、人格の違いを学ぶ絶好の機会が不足していたのだと思い当たりました。記憶力のよい幼少期の内に、知識を丸暗記させるぐらいの押し付け教育も必要ですが、ガキ大将を頭に集団で遊ぶのも、他人同士が付き合う術を学ぶ、絶好の場として欠かせないことなのです。“鉄は熱いうちに打て” 身につけるべき教育には、受けるべき最適の時期があることに気付かされました。

 元々、別々の人格を持つ赤の他人同士が一緒になるのが結婚です。「本人(夫)は遊んでばかりのくせに、近所の買い物以外、気持ちよく一人で外出させてくれなかった」、「一人で外出したら、頻繁に連絡を入れないと機嫌が悪かった」、「実家への帰省にすら、文句タラタラだった」、「何かにつけて、頭ごなしに文句ばっかりだった」等々、結婚に破綻した女性たちからよく耳にする元夫への不満です。何かにつけ自由を束縛されていた女性たちの恨みが込められています。

 私も元夫の方々と似たり寄ったりで、程度に差はあれ “同じ穴の狢” だったと思います。相手が異なる人格の持ち主などとは気にも止めず、自由を束縛しようとする欲求は、付き合い始めて間もない男女間ではよくある傾向です。しかも、その傾向は男性の方がより強いようです。しかし、そんな傾向はそのうち失せるのが普通で、長く続くようなら精神的に未熟な証というのが世間の相場です。(もしいつまでも長く続くようなら、明らかに病的異常です。)

 彼女らの言葉で鮮やかに思い出されたことがあります。「私たち元々、真っ赤な赤の他人だったのよね!」夫婦間に隙間風が吹き始めた頃、妻から突き付けられた言葉です。さすがにハッとさせられました。妻が自分とは異なる人格の持ち主で、赤の他人などとはそれまで考えたこともなかったのです。恋愛という、美名を騙った性欲に目がくらみ、一心同体だとばかりに熱々のままに結婚。人格の異なる相手などということはウヤムヤにしたまま、日々の流れ任せに生活を共にしていたのです。恐らく上の言葉を口にする以前までは、妻も似たようなものだったのかもしれません。

 人格が異なる他人との付き合いでは、適当な距離感(間合い)を取るのが大人です。人格の違いを弁えず、適当な間合いが取れないようでは、大人としては未熟な証です。少なくとも私は、ガワ(外見)だけ大人に見えて、頭の中は幼児のままの未熟な大人だったようです。他人と適当な間合いが取れない未熟さから、自分本位の考えを修正できず、つい万事思い通りに成るものという考えに囚われていたのだと思います。そんな考えでは、世の中でうまく行くわけがありません。自分の思い通りにならないなら、その不平不満を酒で紛らわす。こんな悪循環から家庭崩壊へと辿ってしまったのだと思えてなりません。

 「いいか、結婚する相手は、自分とは異なる人格の人だということを忘れるな。」
つい最近、FBか何かで偶然目に止まった言葉です。このことを弁えていなかったばっかりに、結婚生活では苦い経験をしてしまいました。「結婚生活は生き残りを賭けた戦いだ」より、よっぽど為になる言葉です。単なる心構えではなく、まだゝゞ未熟さを残す息子への、父親からの実践的な人生訓です。

 野島氏の保育所(園)では、年が変わるごとに、それまで年下だった子がグループリーダーを引き継ぎ、異なる人格の間でリーダーシップを学ぶ伝統を繋いで行くのでしょう。赤の他人同士が、人付き合いの “いろは” を学ぶ立派な人生道場です。それと同じように、結婚を間近に控えた息子が引き継ぐべき、父親からの言葉もあっていいはずです。「(結婚する)相手は、自分とは異なる人格の人だ・・・」は、父から息子に引き継ぐに相応しい言葉です。結婚生活を長続きさせる一家の秘伝となるはずです。息子には言いそびれてしまいましたが、孫には将来、直接私の口から伝えたいと思っています。それまで長生きできればの話ですが、・・・。



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“生き残る” ― この言葉に想うこと(隠居の雑感)

2016-04-01 17:57:32 | 自分史
 “生き残る” という言葉は、年頭の挨拶でもよく出て来ました。どんな文脈だったのか忘れましたが、「生き残りを賭けて・・・」とか「生き残るために・・・」とかです。いずれも社員の士気を鼓舞するだけが目的だったように思います。状況説明をサラッと流すだけで、なぜ奮起して欲しいのかがほとんどないに等しかったように覚えています。

 檄を飛ばすなら、それなりの理由と具体的な目標があってしかるべきだと思っていました。だから、単なるスローガンか・・・とただ呆れるばかりで、大抵の人も「またか・・・」という白けた気持ちで聞いていたと思います。年頭恒例の呪文のようで、後味の悪さだけが記憶に残っています。

 “生き残る” という言葉は本来、追い詰められた際の悲壮感に溢れた言葉で、本気の覚悟と気迫がこめられるべき重い言葉のはずです。それなりの根拠と具体的な目標があってこそ説得力と迫力とが伝わってきます。要の部分が抜けていたので言葉に重みが感じられず、ええかっこしいの薄っぺらなものとしか聞こえませんでした。本気度がないと見られたら、使い方によっては「勝手にしたら・・・」とか「余計なお世話」としか受け取られかねません。

 先日の朝、目覚めの一服をしていたとき、ふと「イキノコ(生き残)・・・」という言葉が浮かんできました。「生き残りを賭けて」だったのか「生き残るため」だったのかも分かりません。結構こんなことがよくあります。どちらにせよ “生き残る” 以外の言葉はないはずなので、なぜこんな言葉が浮かんで来たのかとても不思議でした。

 現在の私は悲壮な覚悟が要る心境ではありません。完全退職後でも何とか暮らせる年金があり、生活費を何とかしなければと稼ぐことに汲々しているわけではありません。「断酒を続けなきゃ・・・」とか「再飲酒したらどうしよう・・・」とかいうアルコールに囚われた強迫感も薄れ、ごく自然に飲まないで過ごす日々が順調に続いています。ですから “生き残る” という言葉に違和感を覚えたのです。そこで思い出したのが昔会社であったエピソードで、“生き残る” がよく使われていた上述の場面だったのです。

 よくよく考えてみると、よくぞここまで生き残れたものだと思うばかりです。幼児期には、よく高熱を出し、波がうねるように天井が歪んで見えたりしたものでした。高校1年生の時には、扁桃腺摘出術後の出血が止まらず、医者が対処に慌てたほどでした。壮年期の狭心症発作では、冷や汗まで出る強い狭心痛で一歩も動き出せなかったこともありました。アルコール依存症の末期には、ブラックアウトの繰り返しと失神発作でさすがに死を意識しました。命にかかわるような、身体に起きた病的異変だけでもこれぐらいあります。

 事故や災害でも肝を冷やしたことがありました。御巣鷹山に墜落した日航機に運よく乗り合わせていなかったこと、阪神大震災の地震当日に倒れて来た洋服箪笥の下敷きになったこと、自転車で走っていた最中に前輪が外れて投げ出されたこと、甲子園球場の観覧席最上段から足を踏み外して転げ落ちたこと・・・などです。

 そんな死の瀬戸際を経験したにもかかわらず、思い通りにいかないことに悲観し、身勝手にもいっそ死んでしまいたいと思ったこともありました。ですから、「生き残った」というよりも、むしろ「生き残らせてもらっている」と表現した方が、今の私の正直な胸の内なのです。

 思えば楽しみで飲んでいた酒が、いつしか美味くもないのに飲まざるを得なくなったのも、“生き残り” を賭けた仕事の重みに耐えかねたからではなかったか・・・そう思えてなりません。

 サラリーマンの勲章は高い給料を得ることです。高給を得るには昇進しなければなりません。昇進するには仕事に成功しなければなりません。無理してでも成功しなければ・・・私のプライドはそれらを求めて止まなかったのです。自分の器がどれだけのものか、薄々気付いていながら顧みようとしませんでした。

 アルコール依存症となって死の縁まで経験し、断酒を経てやっと、素面の頭でサラリーマン人生から完全に引退したのだと悟りました。もう競争すべき舞台はありません。上を目指して頑張る必要もありません。せっかくの命です。与えられた寿命が尽きるまで、もはや粗末になどするつもりはありません。粗末になどしようものならバチがあたります。

 夢の中でこんな想い出が巡っていたのでしょう。それで起きがけの頭に「イキノコ(生き残)・・・」という言葉だけが残っていたのだと思います。朝の清々しさが透き通った内省を授けてくれました。

 “生き残る” などむやみに使う言葉ではないと自戒していたつもりでしたが、二男の結婚披露宴でつい使ってしまいました。かれこれ7年前の話です。「結婚生活とはsurvival game、生き残りを賭けた戦いだと思っています。・・・」

 ともすると、若い時には恋愛と称し、実のところ性欲に駆られて結婚まで一気に突き進んでしまいがちです。元々他人同士が一緒に暮らして行くうちに、生活の流儀・作法の違いで両人の間に軋轢や葛藤が生じることはままあり得ます。それが恋愛結婚の現実です。こんなハズではなかった・・・というのが定番で、かくして性格の不一致・・・に至る話がわんさかあるわけです。

 その一方、仲人を介した見合い結婚では、両人の生まれ育った生活レベルや生活環境やを加味して仲介するのが常道です。だからこそ、生活を一緒にして生じる軋轢や葛藤を高確率でうまく避けられるだろう、というのが大方の見る見合い結婚なのです。

 二男は恋愛結婚です。お目出度い披露宴の席なのに、両家を代表してこんな白けることを諄々述べる人はいません。人生は山あり谷あり、油断のならないものです。油断したらすぐ足元を掬われるのが世の常です。

 私の思いは、若い二人と彼らの仲間にただ一言伝えたかっただけです。「結婚生活は文字通り生き残りを賭けた戦いだ」と。わざとらしく重みのある言葉を使う、ええかっこしいの会社のお偉いさんとは一味違う言葉のつもりでした。

 それでも酔っ払いの戯言だと白けた人もいたとは思うのです。が、それも世の常、仕方ありません。何とか生き残って来た自負があったればこそ話した言葉のつもりでしたが、その重みと迫力は結局のところ受け手だけが感じ取れるものだから・・・です。



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続々 飲み方が異常となった転機

2015-12-04 18:11:39 | 自分史
 飲み方の異常というのは、“飲み出したら止まらない”といった酒量の多さも問題ですが、TPO(時と場所、場合)を弁えずに飲酒してしまうことの方が遥かに重要です。“朝酒” や “隠れ酒”、通勤途中での飲酒、勤務時間中の飲酒、葬儀の式場などでの飲酒などは立派な飲み方の異常です。

 さて、本題です。一旦身に着いて習慣化した行動パターンが止むを得ない事情で変更を迫られると、ごく普通の人でも精神的に大きな動揺を来すものです。ましてや依存症であれば、そのストレスに耐えられなくなり嗜癖に没頭することになります。

 代表格のストレスの一つが病気ですが、大病と言われるものほど突然襲って来るものです。たとえ通り一遍の知識でも、肝心の部分が正確であれば、それなりに役に立ちます。が・・・、大病の底流にある根本的原因(依存症)から目を背け、生半可な心構えでいたままでは、事態をさらに悪化させかねません。私の不安定狭心症の発症と底流にあったアルコール依存症とはそんな関係にありました。

 46歳にあと半月というとき、一般病院で手の振戦を指摘され、初めてアルコール依存症と宣告されました。それにもかかわらず、肝心のアルコール依存症とアルコール毒性については、深く調べようとはしませんでした。他人の目に触れやすい手の振戦だけが気掛かりで、それをどのようにして繕うかが懸案でした。とにかく休日を無為に過ごして酒浸りになり、ひいては身を持ち崩すことにならないようにとだけ考えました。崩壊してしまった家庭を再建したい願いもあって、西国三十三ヵ所観音巡礼を始めることにしたのです。

 西国三十三ヵ所観音霊場の寺々は関西2府4県と岐阜県に散らばり、四国八十八ヵ所遍路とほぼ同距離の行程を誇ります。ともかく無為な時間を酒以外のことで潰すことが第一の目的ですから、最寄りの鉄道の駅から寺までの往復をひたすら歩くことにし、札所の順番通り巡ることに決めました。行きやすい近場や有名な寺院を優先するのではなく、札所の順番通りに巡ると決めたのは、手抜きをやりかねない気まぐれを警戒したのです。

 健診で高血圧と糖尿病を指摘され、49歳のときから通院治療を始めました。当時の空腹時血糖値は150~170 mg/dL程度で、HbA1cは6.8~7.0%ぐらいだったでしょうか。「これぐらいがちょうど冠動脈などの太い血管がやられやすい(状態)のよねぇ・・・」と医者からは脅かされ、会社の年配社員からも「糖尿病は “がん” と宣告されたも同然やで・・・」と憐みを掛けられたものです。そのうちに高脂血症(脂質異常症)も顕在化し、喫煙も合わせて “死の四重奏” の完成となりました。降圧薬と高脂血症治療薬を使用し始めましたが、糖尿病については食事療法だけとし、血糖降下薬を使わずに経過観察することになりました。

 それからというもの、血糖値を少しでも下げようと、泥縄式に生活パターンを変えることにしました。週日には通勤区間の内、電車を利用するしかない区間以外の片道20分+30分=50分の距離を往復歩くようにし、自宅ではビールを止めてカロリー半分・アルコール度数半分(?)の発泡酒に変えました。

 ちょうどその頃、行きつけの居酒屋 “旬香” が廃業となり、会社が引けてからの居場所がなくなってしまいました。私の方は職種が代わったことから定時に帰宅可能となっていたのですが、会社帰りに一杯ナシのままでは帰れません。仕方なく新しい店を当てずっぽうで探したのですが、気に入った店がなかなか見つかりませんでした。しかも、飛び込みの一見さんでは長居もできません。それで外で飲む酒も焼酎のソーダ割り2~3杯だけで切り上げるようになりました。

 休日に続けていた西国三十三ヵ所巡礼についても少し工夫してみました。4巡目の4番札所からは、寺から寺へとツギハギしながら徒歩だけで繋ぐように変えたのです。それで巡礼の日には一日20~30 kmの歩きが普通になり、40 km余の長い距離でも歩けるようになりました。中継点の繋ぎ方が意外に煩わしいことから、さすがに毎週とはいかずに飛び飛びの挙行となりましたが・・・。

 京都の西山に西国三十三ヵ所巡礼20番札所の善峰寺があります。52歳の年の11月に4巡目の善峰寺詣でをしました。京都市内を眺望できる山の中腹にあり、這うように幹・枝を拡げる天然記念物の遊龍松や、春の桜、秋の紅葉が有名です。最寄りのJR向日町駅から歩いて8 km余の善峰寺へ向かい、さらに寺の裏山の急勾配の道を登って、山上の尾根伝いの道にまで行ってみました。この登りはキツく、さすがに体力の衰えを痛感しました。

 20番札所の善峰寺から山越えを経て、亀岡にある21番札所の穴太寺へと続く徒歩行の巡礼ルートは、古地図に残っているだけの難所(?)の一つでもあります。次回は山上の尾根伝いの道近くまでタクシーで行って、そこから穴太寺~亀岡駅までのルートを歩くと決めてはいました。全行程はおよそ20 km余の十分こなせる山道と踏んではみたものの、どこを起点にタクシーを利用すれば経済的かが分からず、それを口実に決行には至らないまま年を越していました。体力の衰えを自覚し、不案内な山道の単独行に内心不安を覚えていたのです。已む無く巡礼は中断としましたが、それでも休日には長時間の散歩を欠かしませんでした。

 53歳の夏、何の前触れもなく突然不安定狭心症に見舞われました。朝の出勤時、歩き始めて2~3分もすると、胸焼けのようなジワーッとした灼熱感を胸元から左肩にかけて連日感じたのです。左鎖骨の少し下、胸の奥から湧き出るような感覚でした。もしや狭心症(?)と思って主治医に相談したところ、すぐに運動負荷心電図検査を受けることになりました。負荷半ばの運動量でしかないのに心電図上に明らかな虚血性ST偏位が出たそうです。

 豊富な治療実績を誇る循環器科ということで尼崎の県立病院を紹介され、初診のその日に急遽入院となりました。心臓カテーテルによる造影検査の結果、右冠動脈狭窄による不安定狭心症の診断が下されました。右冠動脈は99%の狭窄で、ほとんど詰まりかけだったそうです。左冠動脈にも軽度の狭窄がみられたそうですが、保険治療の適応ではなく経過観察とされました。私の場合、“死の四重奏” の必然的帰結が狭心症だったのです。

 その後は一本道で、2日置いて心臓カテーテルによるPCI施術を受け、右冠動脈にステントを留置してもらいました。PCI施術を受けた翌々日には退院できました。

 退院後大事を取って1週間ほど会社を休みました。通勤時間を外した時間帯に、リハビリを兼ねて大阪・梅田の駅から会社の近くまで歩くことを毎日の日課としました。一日中家の中にじっとしていることが耐えられなかったのです。暇つぶしのリハビリ中に新しい道順を探し出す楽しみも見出しました。その道順探しの散歩で思わぬ成果が得られました。梅田の東はずれ西天満の一画で、ある立飲み屋を見つけることが出来たのです。

 “大安” というその店は、18人ほどが立てばカウンターが一杯になる広さのところへ22~23人がひしめき合うのが普通で、刺身や焼き物、煮物、揚げ物、すべてを揃えた居酒屋風の店でした。普通、串カツか焼き鳥、他に板ワサ、タコ酢、乾きモノがせいぜいなのに、このようにフルキャストな品を値頃で供してくれる店は珍しく、滅多にないことです。殊に新鮮な旬の魚が特徴で、私の嗜好にピッタリの店でした。新しい居場所がやっと見つかったと思いました。

 それからというもの、毎日定時に会社が引けると即 “大安” へと参上、こちらの方もほぼ定時に到着ということになりました。店の常連さんともすぐに打ち解けることができ、私の定位置も自然に決まりました。店で知り合った常連の “飲み友達” と、仕事をまったく離れて世間話に興ずる小一時間が無上の楽しみとなり、週日の新行動パターンがこれで目出度く確定したのです。

 狭心症は仕事で担当していた領域でしたから、一通りの知識はありました。それでステント留置部位の再狭窄が起こり得ることも知っていました。しかも左冠動脈にも狭窄があるので、狭心症は何時どこで再発するか分かりません。巡礼中の山道で再発でもしたら、通り合わせた周りの人々に迷惑がかかります。もはや山道の登りは無理筋で、それが伴う巡礼は断念せざるを得ませんでした。

 休日の行動パターンの芯になっていた巡礼が出来なくなり、休日をどう過ごすべきか分からなくなりました。巡礼がすでに生き甲斐になっていたのだと思います。単に、酒なしで時間を潰すのが目的の一手段にすぎなかったのですが、いつの間にか手段が目的そのものにすり替わっていたようなのです。アルコール依存症者によくある思考パターンです。

 已む無く朝から近くの公園に行き、公園内の東屋で一人発泡酒を飲むのが休日の新行動パターンとなりました。ロング缶1本飲み始めたら止まりません。チビチビと長時間にわたり、ひたすら飲み続けることになったのです。朝から始まる連続飲酒パターン、その雛形の完成でした。もうこうなったら後戻り不能です。 “朝酒” は世間がイメージするアル中の特徴にピッタリです。飲み方が異常となった転機の三番手は、“朝酒の開始” でした。

 普通、病名を宣告されたら可能な限り調べようとするのが病人の常です。アルコール依存症と宣告されていたにもかかわらず、手の振戦の原因となりうる病名が他にないかだけは調べはしましたが、本質からは目を背けていました。恐らく詳しく知るのが怖かったのだと思います。“否認の病” と言われるだけあって、この病気の厄介なところは否認です。認めたくなかったのです。

 エネルギー代謝を乱す元凶(黒幕)がアルコールだなんて、10数年前の当時あまり知られていなかったような・・・。血圧の上昇、血糖値の上昇、中性脂肪の上昇、これらは飲酒習慣からのアルコールがもたらす毒性変化です。時間を持て余していたのは所謂 “空白の時間” で、アルコール依存症者が苦手とする典型的症状の一つです。これらのことは、今でこそネットで簡単に調べることができますが、10数年前の当時も容易に調べることが出来たのでしょうか(?)・・・分かりません。よく知らないままズルズル過ごしていたのです。

 振り返ってみると、巡礼行を始めた47~48歳頃からすでに “空白の時間” に手こずっていたとも思われます。休日の朝から飲酒は、定年で完全退職する61歳まで続きました。飲み方が異常となった四番手の転機は完全退職でした。完全退職後は週日すべてが休日となります。週日が完全休日化したらどうなるか? その結末については本ブログの「私の底着き体験・断酒の原点」をご参照下さい。


「私の底着き体験・断酒の原点」はこちらをどうぞ。



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続 飲み方が異常となった転機

2015-11-13 18:29:03 | 自分史
 飲み方の異常というのは、“飲み出したら止まらない”といった酒量の多さも問題ですが、TPO(時と場所、場合)を弁えずに飲酒してしまうことの方が遥かに重要です。“隠れ酒”や、“朝酒”(朝から飲酒)、通勤途中での飲酒、勤務時間中の飲酒、葬儀の式場などでの飲酒などは立派な飲み方の異常です。このような人は、飲まずにはいられない状態=アルコール依存症になっているのです。

 会社勤めの現役サラリーマン時代、30歳代後半から40歳代始めまで文字通り眼の回るような多忙な日々を送りました。出張も多く、県庁所在地で訪れなかった場所が水戸市と山口市、鳥取市だけ、これが私の密かな自慢です。(この3都市には治験先となる大病院がなかっただけの話なのですが・・・。)もちろん、47都道府県で行ったことのない所はありません。出張も内勤業務も、とにかく無茶苦茶になりながらこなしました。

 以前、飲み方が異常になった一番手の転機は、定番となった出張帰りの電車内での即ビールだったとお話ししました。今回は内勤業務での残業にまつわる話です。

 臨床開発というのは、患者の治験データを集積し、それらを基に “医薬品のたまご” =治験薬を正式に医薬品として国に承認してもらう仕事です。

 臨床開発チームが担う内勤業務の主体は、治験で得られた膨大な患者データを点検・解析し、審査資料としてまとめる作業です。早めの商品化を急かされている担当者は否応なしに残業にまで追い捲られてしまいます。このような内勤作業は3~4週間集中して続き、開発段階も後半に入ると年に6~7回もあるのです。今回はこの頃の話です。

 最初の頃は、8:00PMぐらいまでは食事ナシで頑張っていました。しばらくすると夜食を摂ってから再び仕事をしようと、出前を頼むようになりました。・・・が、食欲を満たされた後で気持ちを切り換え、改めてさぁもう一度仕事に集中とはなりません。何を今更と気合が入らず、作業効率も悪いので大抵はそのまま帰宅となってしまいました。他のプロジェクトチームも似たり寄ったりでした。よほど切羽詰まらないと食事を済ませた後の残業は続けられるものではありません。

 そのような状況下でチームに合流してきたのが課長補佐のA君でした。A君は中途半端な出前の夜食に飽き足らなかったのだと思います。「やれるところまで仕事をしてから、ちゃんとした食事に行きましょう」と提案してきました。どうせ帰宅しても一杯飲んで寝るだけです。この誘惑には勝てませんでした。

 それからというもの、およそ9:00~10:00PMまで頑張って仕事し、チーム全員で会社近くの居酒屋へ繰り出すようになりました。居酒屋ですから当然酒も入ります。10~20分で済む出前の食事のように簡単にとはいかないのです。仕事で昂ぶった神経に空きっ腹ですから、酒が入るともうイケません。快い酔いが回り、そのため終わるのは大体11:00PM前後で、下手をすると1:00AMぐらいになることもありました。

 初めの頃こそ全員そろっていましたが、一人抜け二人抜け・・・、いつの間にか4人だけがお決まりの顔ぶれとなりました。バブル期終盤の頃でしたので、帰宅は大抵タクシーというパターンでした。 

 臨床開発の仕事は、出張と内勤が入り交じり五月雨式に年中続く仕事です。出張帰りの定番に加え、内勤でも仕事の帰りにお店で酒を飲むことが新定番となりました。

 外でどれだけ飲んだとしても、またたとえ深夜に帰宅しても、家で必ずビールが欠かせませんでした。昂ぶった気持ちに一息つきたいだけなのですが、お茶だけで済ますことができなかったのです。“飲まずには家に帰れない”、今となっては異常ともみえる習慣飲酒は、このように何の変哲もないキッカケから癖となり、しっかり身体に染みついてしまいました。

 以上が、飲み方が異常となった二番手の転機です。健診で脂肪肝を指摘され、そのため受診した一般病院で振戦を指摘されて、初めてアルコール依存症と診断されたのが45歳11ヵ月の時です。

 今回ご紹介した残業後の居酒屋通いのエピソードは40歳8ヵ月頃から始まったものです。これが転機となって、アルコール依存症者に定番の家庭崩壊へと、一気に坂道を転げ落ちることになったのです。

このようにアルコール依存症となる温床はどこにでも転がっているようです。この当時、依存症気質とでもいうべき自分の性格にはっきりと気付いてさえいれば、あるいは、作業効率の悪い残業の限界を “ありのままに受け止め” さえすれば、出前をとらずに残業を切り上げて、真っ直ぐ帰宅することも私には決断できたはずなのです。

 ほんのちょっと頭を捻りさえしていれば、・・・。私にとっては数少ないチャンスだった、そう思えて仕方ありません。今頃になって気付いても、“後の祭り” であることに変わりないのですが・・・。



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飲み方が異常となった転機

2015-10-23 19:17:14 | 自分史
 「三つ子の魂 百まで」「雀百まで踊り忘れぬ」 幼いころの性格は歳をとっても変わらない。よく知られた譬えです。
 「なぜ、酒が必要だったか?」この問いを辿ると、幼年期に抱いた“負い目”を大人になっても“引け目”として知らずに引き摺っていたことに思い当たりました。虚弱体質だったことが幼年期の私の負い目でした。それがどうしたものか見事に飲酒習慣へと繋がってしまったようなのです。無論、“風が吹けば桶屋が儲かる”式の込み入った話ではありません。それにしても、昔の人が残した言葉は苦い経験に裏打ちされた言葉だと、心底サスガだと感心します。


 アルコール依存症専門クリニックで行われる教育プログラムの一つにテーマミーティングがあります。プログラムの冒頭にテーマが提示され、患者各人が心当たりのある思い出を順に発言します。発言者以外の者は質問も、意見も、感想も、コメントすること一切が許されず、ただひたすら聞き役に徹します。自助会でのルールと同じです。

 自助会AAなら、最初に司会を務めるメンバーがテーマに沿った自分の体験談を提示することから始まりますが、専門クリニックでは相談員と呼ばれるソーシャルワーカーがヒントをいくつか挙げて始まります。テーマはいつも具体的な質問形式です。ブッツケ本番の、3~4分の短い語りとなるのが普通です。短い時間ですが、私などは内容に脈絡がなくなることも間々あります。気持ちが入り過ぎてのことか、断酒後に特有の記憶障害の所為か・・・。

 ある日のテーマが冒頭に示した「なぜ、酒が必要だったか?」でした。この類の問いに対し、私は現役時代の日帰り出張で定番であった、あるエピソードを話すことにしていました。飲酒が習慣化した根っこにある一番手の理由が、出張帰りの定番であったこのクセだと考えていたからです。

 定番のクセとは、帰りの電車の車中ではお決まりの、座席に着くなり即ビールとなっていたことです。自分の話す番になると、「仕事(新薬の臨床開発)の件で医師と面談し、何とか無難に済ますことができた。ほっとしたものの、昂ぶったままの神経を鎮めるため、止むに止まれず飲んだ。・・・」このように答えていました。

 なぜ、医師との面談にこれほどの昂ぶりを感じたのか? 元を辿ると、幼少期に虚弱だった体質と、受験競争時代の偏差値至上主義が大いに影響していることに思い至りました。

 慢性扁桃腺炎だったことは大きくなって後で判ったことですが、幼年期から扁桃腺が弱く発熱を繰り返していました。風邪を引きやすく、しょっちゅうこじらせては肺炎となり、入退院の繰り返しから小学1~2年は学校を全休、3年になっても病欠がちでした。ちょっと無理をしたら直ぐに熱が上がり、体温計の水銀が42℃の上限まで行ったことが何度もあります。それで外での遊びを控え、室(屋)内でひとり本や雑誌を読んでいることが多かったのです。

 必然的に、大勢の子供と一緒に外で遊ぶ機会が極端に少なく、同年代の子との社交(?)に疎い環境で育ちました。会話能力を鍛える機会が決定的に不足し、引っ込み思案な子供になっていました。

 久々に遊びに加わっても、話題に付いていけないのです。そんな会話の際、物語に書いてあったセリフしか浮かんで来ないこともあり、どこかズレた話し方をしてしまったことがよくありました。変に唐突で理屈っぽいのです。堅苦しくぎこちない話し方に気付き、会話中に固まってしまったこともありました。

 日本人の話す英会話が、ネイティブには候文(そうろうぶん)のような“書きことば”に聞こえるとよく言われるそうです。それと同様の違和感があるのではないかと、今でも臨機応変の機転のなさを引け目に思っています。病弱で遊び仲間とオシャベリを交わした経験の乏しいことが祟って、大人になっても相変わらずの会話下手です。それを引け目として引き摺ってきました。現役当時も今も、依然として過去のコンプレックスに囚われたままなのです。

 もうひとつ後生大事に引き摺っている過去があります。

 先日、幼稚園児の孫の運動会を見に行きました。跳び箱演技では、4~6段の跳び箱でも難なく飛べる子もいれば、尻込みしてしまい1段でも飛べない子もいて、中には上体だけ前のめりになって顔からゆっくりマットの上に崩れ落ちる子さえいました。跳び箱の直前で気持ちが引け、身体自体がブレーキになっているのです。その跳び箱演技を見ていて思い出したのです。(大げさに聞こえるかもしれませんが、)予断を持ったがゆえの思い切りの悪さ、新薬の臨床開発をしていた現役時代の私の姿がそこに見えました。

 偏差値の格差を、そのまま人の能力の差とみる。この考えが身に染み着いていたのが受験時代です。医師とみるや、かつて圧倒的に偏差値で差をつけられ、足元にも及ばない存在だった過去に引け目を感じていました。仕事で面談相手の医師を前にして、この人も高い偏差値だったのだろうという思いが拭いきれず、その幻影に怖気づいていたのです。

 面談相手は単に医師という職業人なのです。これまで生きてきた背景は異なっても、新しい薬を開発しようとする土俵は同じです。過去のゴチャゴチャしたことに予断をもたずに、お互い職業人として率直に話し合える接点を見出せれば良いだけなのですが・・・。そんなトラウマを抱えて医師と面談していました。

 担当するプロジェクトが基礎研究段階にあったため、刺激の少ない内勤業務ばかりで出張などほとんどない一時期が5年間ほどありました。それが一転して30歳代半ばに、新薬プロジェクトの専任リーダーとなって、医師との面談が主の外勤業務へと一変したのです。医師と具体的に治験絡みの話をするのは実に久し振りのことでした。

 開発リーダーの職責は重く、常に突撃隊長としての緊張を強いられます。凄まじいばかりの重圧と緊張感は、やった者にしか分からないだろうと思います。

 治験を受けてくれる医療機関を開拓するのが仕事ですから、面談相手は必然的に初対面の医師ばかりとなります。アシスタント時代にも医師と単独で面談したことが数多くありました。しかし、上司の面談の場に同席し、その後を引き継ぐ形で面談したわけで、その頃の気楽な面談経験と開発リーダーとして臨む面談とは比べものになりません。
  
 誰であろうと初対面の相手には緊張が付き物です。そこに幼年期から続く会話下手の意識に加え、高い偏差値を誇っていた医師に対するコンプレックスがさらに加わって、面談時の神経の昂ぶりは予想以上のものでした。

 出張時の移動中は目付け役のいない単独行動が基本です。無難に面談を済ませ、緊張から解放されても、まだ神経が昂ぶったままでした。目付け役がいないことをいいことに、帰りの車中では即ビールが定番となってしまいました。そのまま直帰のときは、まだ陽が高い時間だろろうが一向に躊躇しませんでした。

 場数を多く踏むということは実に面白いものです。度胸もつけば、悪癖もつく。初対面の相手が大物医師でも、緊張感が薄れて面談を無難にこなせるようになった一方で、出張帰りの車中での定番はそのままに残りました。

 一旦身に着いたものはクセになり容易に習慣化します。自宅でビール大瓶1本の晩酌で済ませていたところに、出張帰りの習慣が当たり前のように付け加わりました。こうなると自宅での晩酌も、ビール大瓶1本では済まなくなります。1本が2本になり・・・。結局、晩酌の量は大幅に増え、それが新定番となったのです。

 以上が、“習慣飲酒”が悪化してアルコール依存症へ一本道となった一番手のキッカケでした。

 振り返ってみると、出張帰りの定番を引き継き、仕事がらみでの同様のキッカケが4番手まで後に控えていたわけです。想像通り耐性が立派に成立し、現役を終える頃には半端な飲み方では済まないツワモノの呑み助になっていました。

 トラウマを引き摺ってばかりでは仕事になりません。当時、私の採った対策をお話ししておきます。

 医師との面談では独特の間合いが不可欠です。前の機会から時間が空いた場合には、面談前にその勘を取り戻しておくことがとても大切です。リーダーとなってまもなく、気軽に相談できそうなベテラン医師を見出し、用事を作っては頻繁に訪ねて親しくなるように努めました。

 そのベテラン医師は会社から歩いてでも行ける病院の勤務医でした。その内、世間話に毛の生えたような用事であっても、快く付き合ってもらえるまでになりました。初対面の大物医師との面談前には、リハーサル代わりにこのベテラン医師を必ず訪ねるようにしました。そのお蔭で初対面の大物医師にも無難に臨めるようになったのです。

 難しい選択を迫られる問題の場合には、他に中堅医師2人にも相談に乗ってもらい、意見を聞くようにしていました。つまり、いつでも相談に乗ってもらえる医師を常に3人確保していたものです。


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父と息子の絆、Y染色体

2015-07-10 18:28:05 | 自分史
 アルコール依存症の自助会で体験談を聞いていると、年少の頃から男性の場合は父親との間に、女性の場合は母親との間に、それぞれ葛藤があって、それが長く尾を引いている(根に持っている)例が多いようです。
 暴力、叱責、ネグレクトなど虐待を受け、それに対する反感や嫉妬、劣等感が本人の心に深く根を下ろしているようなのです。
 私がアルコール依存症でありながら、人生を投げ出さずに何とか定年退職まで持ち堪えられたのは、息子を支えようと懸命に努めを果たした父の背中を見て来たからだと思っています。



 私の郷里の岩手では、西側を奥羽山脈が南北に連なっています。その中央部のやや南よりに牛形山という標高1340mの山があります。お椀を被せたような形の山で、頂上がお椀の糸底部分のように出っ張っていて出ベソに似ていることから、地元の山好きの人の間では “出ベソ山” と呼んだりもしています。

 奥羽山脈の奥まったところ、夏油川の渓流沿いに夏季限定の夏油(げとう)温泉があり、夏油三山といわれる牛形山や経塚山、駒ケ岳(駒形山)の登山口になっています。この温泉は、白い色をした源泉の湧く露天風呂で、神経痛によく効くというので湯治で有名です。

 お湯が熱いことでも有名で、ピリピリと肌を刺激するところがあり、お湯を一層熱く感じさせるのです。普通、5分も浸かっていることはできません。浴槽を囲む洗い場で、客は対岸の切り立った崖の山肌と渓流を眺めつつ、虻(アブ)の襲来に抗いながら、思い思いに寛いだ時を過ごします。坐骨神経痛に悩まされていた父がたまに湯治に行っていました。

 阪神・淡路大震災があった年の夏、久々に息子二人を連れて帰省しました。長男は高校3年、二男は中学2年でした。

 その3年前に私たち夫婦の間に離婚問題が勃発。私のアルコール問題と、仕事に忙殺され家庭を顧みないことなどが複雑に絡んでの出来事でした。父親の私が一人で別居となり、母親の妻が一時とんでもない身勝手な行動をとるなど、平穏な家庭が一転しててんでんバラバラになってしまいました。そんな両親の無様な姿を息子たちは目の当たりにしていたのです。

 多感な年頃だった長男は、仲が良い両親とばかり思っていただけに人間不信に陥ったようです。これを契機に茶髪で荒んだ尖がり眼の愚連(グレ)た姿となり、完全に落ちこぼれてしまいました。彼なりに心に空洞を抱えてしまったのかもしれません。

 二男の方はそんな兄をみて反面教師としていたようです。健気にも、とくに変わった様子を見せませんでした。“他人の振り見て我が振り直す”、二番目の特権です。

 長男を真面(まとも)にしなければ・・・、乗り気じゃなかった長男をその一心で連れ出しました。息子たちに、祖父である父と私、男ばかりで一緒の時間を持たせようと夏油温泉を予約したのです。
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 その24年前、2年間の(受験)浪人生活を経て晴れて大学に入学できた年、お盆休みに夏油温泉に行ったことがありました。一行は私と父、次姉、次姉の長男(甥)の4人でした。

 東京でゴタゴタがあって私はウンザリしていました。大学入学を期に自分の居場所を手に入れた私と、浪人2年目から関係を続けていた半同棲の彼女との間に隙間風が吹き、別れ話が拗れて刃傷沙汰寸前だったのです。

 相手の娘は大分前から家を飛び出してしまって居場所がなく、彼女にとっての居場所は私と半同棲を続けることのようでした。帰省を口実に東京から逃げ出し、少し間を置きたかったのです。

 その時は夏油温泉に1週間ほど逗留したでしょうか。その間、温泉に浸かることと食事をすること、あとは昼寝だけしかやることがありません。暇で暇で飽きてしまい、散歩がてら試しに牛形山への登山道を登ってみることにしました。

 道標によると山頂まで2時間半とあり、そう遠い距離ではありません。宿に備え付けのサンダル履きのまま、一人で登って行きました。

 登山道の7合目?(標高750m)ぐらいでしょうか、ダケカンバやクマザサなどが生い茂る灌木の林が途切れ、ススキなどの草地にたどり着きました。その草地は所々にハイマツが生えているぐらいの結構な急勾配で、ガレ場となった地滑り跡は30度以上の傾斜がありそうでした。登山道がアヤフヤなガレ場は足場が悪く、サンダル履きでは足を滑らせる恐れがありました。そんなわけで先に進むのを諦め、已む無く取って返しました。

 温泉の宿に帰ってこの話をしたところ、やはり暇に飽き飽きしていたのか皆で登ろうということになりました。サンダル履きでも行けるのなら小さい子供連れでも大丈夫という空気でした。このとき甥はまだ4歳でした。私はキャラバン・シューズで、父は甚平姿にゴム底の作業靴だったと思います。

 難所のガレ場までたどり着くと、私が先陣を切ってガレ場を渡る(横切る)ことにしました。危なければ中止して引き返せばよいぐらいに軽く考えていました。急な斜面は足を滑らすと遥か下まで滑落してしまいます。

 いざ数歩踏み出してみると、さすがに怖くなって腰が引け、最早引き返すことさえ儘なりません。とにかく先に進むしかなく、次の足場を探すのに必死でした。渡りきって後を振り返ると、すでに父が甥と手を繋いで何の雑作もなく余裕で渡っているのです。渡りきって甥を私に預けると、今度は次姉を手助けしていました。

 難所を過ぎると1時間ほどで頂上に着くことが出来ました。頂上では夏空の下、夥しい数の赤トンボが飛んでいました。この日の父の姿はとても頼もしく見えたものです。

 ガレ場での父の頼もしい姿と対で思い出されるのが父の出稼ぎのことです。

 実家は農家で、耕作地として1.2ヘクタアール(ha)ほどの水田と30アール(a)ほどの畑しかなく、御多分に漏れず現金収入不足の家計状況でした。農業全体が高度経済成長(時代)から取り残されていたのです。

 私が小学5年の頃から晩秋~早春の農閑期に父は出稼ぎに出るようになりました。私には土方仕事と言っていましたが、地質を調べるボーリングの仕事でした。その内、農繁期に限って農作業をし、一年の大半が出稼ぎとなっていきました。

 どれほどの収入だったのか分かりませんが、多くても私への仕送り分ぐらいでしかなかったと思います。浪人一年目当時の大卒の初任給が3万円程度の時代です。父は同程度の金額を毎月仕送りのため稼いでくれていたのです。安物タバコのタバコ代と食費以外の出費を控え、好きな酒も極力抑えていたようです。家では普段、夕食前にコップ一杯のお酒で満足していました。

 息子のためと、ひたすら働く父の生き様とガレ場での頼もしい姿を見て、東京に戻ったら潔く彼女との関係を断ち切ろうと心に決めました。
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 愚連(グレ)て落ちこぼれになっている長男を何とかしなければ・・・、離婚騒動→別居を契機にバラバラとなった家族を立て直さなければ・・・、困り果てた先に思い出したのが父の頼もしかった姿でした。

 24年前の牛形山登山でガレ場を渡ったときのことが蘇ってきたのです。その時、父に会いたいと心底思っていた私自身がありました。母の無理筋の我儘から一時的に避難させるため自宅に父を同居させた折、忙しさを言い訳に何も構ってやれなかった罪滅ぼしの意味合いも当然ありました。

 夏油温泉に着いた当日、温泉に浸かった後の寛いだ夕食時に、息子たちに父のことを語りました。
「初めて話すけど、じいさんは再婚で、別れた先妻との間に娘が二人いるんだそうだ。つまり、父さん(私のこと)には姉があと二人、別にいるということだ。」
「どこに住んでいるか分っているの?」
「・・・関西に住んでいるらしい。案外、ご近所かもしれない。だから、じいさんにとって男の子供は父さん一人、俺はじいさんのたった一人の息子なんだよ。」父が入婿で先妻の間に娘が二人いることから話し始めました。

 次いで、実家は農業だけでは学費を賄い切れない経済状況だったこと、たった一人の息子のために出稼ぎをしてまで大卒初任給相当の学費を仕送りしてくれたことなどを続けました。
「Y染色体にある遺伝子は、男だけが父親から受け継ぐ遺伝子だということは知っているよね? じいさんのY染色体遺伝子を受け継いでいるのはここにいる男だけ、父さん以外には孫のお前たち兄弟だけなんだよ。大変貴重な存在ということだ。」

 祖父である父について、息子たちに対しこれほどまでに詳しく語ったことは初めてでした。父はただ相槌を打つだけでした。酒が入っていたので息子たちがどう反応したかよく覚えていません。そして、牛形山登山の思い出を話し、翌日登ることになったのです。高齢の父は留守番役としました。

 翌朝は小雨模様でした。案の定、長男は出掛けるのを渋りました。ここで諦めては目論見が台無しになると思い、必ず後に付いて来ると見越して、二男とふたりだけで登山を強行することにしました。長男が付いて来ず、雨脚が酷くなったら引き返せばよい、そのつもりでした。

 宿の裏にある登山道は急傾斜の杉林から始まり、直ぐにブナ林に囲まれた尾根伝いの道となります。案の定、杉林が切れブナ林が始まる辺りで長男が追い着いてきました。

 急勾配の道は結構続きました。夢で何度も見た道は、木々の木漏れ日がまだら模様に道に映え、緩やかな勾配の風情でした。が・・・、記憶というものは甘いものだと思い知らされました。写真ではたとえ急勾配の斜面であっても、あたかも平地のようにしか写りません。夢の中の道も写真と同じでした。急勾配の道ばかり連続するのに息切れし、途中で何度も立ち止まりました。

 ブナ林がダケカンバやクマザサに変わる頃、雨脚が強くなって雨傘では堪えきれなくなり、道も泥濘るんで足元も覚束なくなりました。それで仕方なく引き返すことにしたのです。ガレ場までは残り10~20分ぐらいの距離だったと思います。

 登りの途中、道脇で雨に打たれながら大の方の用足しをしたことや、下りで足を滑らせ転んで泥だらけになったことなど、シャレにもならないこともありました。

 結局、三人一緒の登山はちょっと無理筋の中途半端なままで終わりました。それでも私にとっては懐かしい良い思い出として残っています。

 息子二人は、今ではそれぞれが二人の息子の父親となっています。今から20年前、私たちが強行した雨中の親子登山が息子たちにとってどんな思い出として残っているのか、そのことは彼らの息子(私の孫)たちが父親と今後どんな体験を共有するかを見ていれば分かるのかもしれません。

 帰省から帰った後、長男の尖った眼つきは元に戻りました。その後、長男とは二人で大台ケ原や那智の滝に一緒に行く機会もありました。少なくとも信頼感は深まったと思いますが、私への金銭的依存をも深める結果となったのは皮肉でした。

 私は図らずも、離婚騒動の修羅場やアルコール依存症になった無様な姿を息子たちに間近に見せてきました。範を示すべき父親としては褒められたことではないでしょう。これらのことが息子たちの人生にどんな影を落としたのか、気になるのは仕方ありません。私としては精一杯立て直しに努めてきたつもりです。恐らく、そんな私の姿も息子たちは見ていたことと思います。

 自分の意志で酒を飲まないままで我慢できる、普通なら出来て当たり前のことが出来ない病がアルコール依存症です。定年退職を期に頑張る気持ちが完全に挫けてしまい、酒浸りとなってしまいました。父はコップ一杯のお酒で満足できたのに、息子の私はそれを見倣うことができなかったのです。

 断酒継続に成功し飲まないでいることが自然となった今は、父の遺伝子を受け継いでいる息子たちを信じて、静かに見守って行こうと思っています。私の父、彼らの祖父は愚直なまでに律儀で、忍耐強く、そして節酒のできる鷹揚な男だったのです。


夏油温泉についてはこちらをご覧ください。


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アルコール依存症へ辿った道筋(その35)エピローグ

2015-07-03 17:45:49 | 自分史
 「死の四重奏」を実感するのにさほど時間はかかりませんでした。

 53歳の夏、何の前触れもなく突然不安定狭心症に見舞われました。朝の出勤時、歩き始めて2~3分もすると、胸焼けのようなジワーッとした灼熱感を胸から左肩にかけて連日感じたのです。左鎖骨の少し下、胸の奥から湧き出るような感覚でした。もしかしてと思って主治医に相談したところ、すぐに運動負荷心電図検査を受けることになりました。負荷半ばの運動量でしかないのに、心電図上に明らかな虚血性ST偏位が見られました。

 豊富な治療実績を誇る循環器科ということで尼崎の県立病院を紹介され、初診のその日に急遽入院となりました。心臓カテーテルによる造影検査の結果、右冠動脈狭窄による不安定狭心症の診断が下されました。その後は一本道で、2日置いて心臓カテーテルによるPCI施術を受け、右冠動脈にステントを留置してもらいました。左冠動脈にも狭窄があったそうですが、75%未満の狭窄でしかないので治療(保険?)の適応外で経過観察となったのでした。

 製薬業界ではあるジンクスが真しやかに語られています。臨床開発の担当責任者は決まって担当化合物の適応症の病気に罹るというものです。Ca拮抗薬Pは高血圧と狭心症を適応症としていましたから、まさにドンピシャリでした。執行猶予付き死刑宣告が現実味を帯び、いよいよ生きているのはただ余生を送っているのに過ぎないという心境になりました。

 会社は残業など全くなしで定時に帰宅でき、週日には毎日立飲み屋に寄るのが唯一の楽しみとなりました。

 糖尿病のため少しでもカロリーを消費しようと、会社から梅田まで片道30分の道程を歩いて往復していたのですが、帰り道の途中、梅田寄りの西天満で絶好の立飲み屋 “大安” を見つけたのです。マグロの赤身の刺身が値頃で、他にも肴を豊富に揃えていました。

 以前通っていた居酒屋 “旬香” が潰れてしまい、居場所を失っていた私にとって恰好の居場所となりました。立ち寄る時刻も午後5時45分~6時と毎日一定で、店内での立ち位置も毎日同じ場所でした。アルコール依存症に特有の習慣的行動そのものです。

 狭心症は、心臓に何時爆発してもおかしくない爆弾を抱えているようなものです。山道を登るのは自殺行為そのものです。山登りの多い西国三十三ヵ所観音巡礼は4巡目に入っていました。4番札所の槙尾寺から20番札所の善峰寺までは順番に寺から寺へ徒歩行で繋いでいましたが、狭心症の発症で巡礼を続けるのは無理と断念しました。休日にすることがなくなり、近くにある公園の東屋で一人朝からビールが始まりました。

 立飲み屋通いと朝から飲酒。アルコール依存症の典型的な行動パターンの完成です。

 50歳以降、私に起こった主な出来事を下表にお示ししました。まだまだ死んではダメと戒めてくれていた “つっかえ棒” が、一本また一本と外される心地でした。その都度、心に空洞の広がりを感じていました。次第に “生きていることが、もうどうでもよいこと” と思えるようにもなりました。そして完全退職した後は、もはや役目を終えて務めを果たした気分になりました。実のところ、半分以上人生を投げ出した気分だったのです。

 それでも今もちゃんと生きています。よくぞ生き残らせてもらえたものだと我ながら不思議に思えて仕方ありません。


***********************************************************************************
  50歳 ○ Ca拮抗薬Pの指示事項回答提出
       家庭血圧による評価結果です。
  52歳 ○ Ca拮抗薬Pの承認申請取下げ
       かつて臨床開発責任者として心血を注いだ分、子供を亡くした気分。
      ○ 次長を任命される。
       昇進の望みが絶えました。制度変更で52歳から昇給額半額と決定。
      ○ Ca拮抗薬Pの特許期間満了
       商品化の可能性が完全に断たれました。
  53歳 ○ 不安定狭心症発症
       病変は左右冠動脈にあり。右冠動脈にはPCIでステント留置し、左冠動脈に
       ついては病変残るも治療の適応外のため経過観察となりました。
       同意書に署名時、振戦。
  54歳 ○ 臨床開発部門の教育担当へ異動
       体のよい窓際族で、完全に臨床開発の戦力外となりました。
  55歳 ○ 制度変更で55歳が昇給停止年齢と決定
  58歳 ○ 役職退任
       この頃から早寝・早起きが習慣化し、歩行速度が極端に低下。読書が苦痛で
       拷問と思うようになりました。
      ○ 住宅ローン完済 
       48歳時から低金利ローンへ組み替えて繰上げ返済を実行した結果です。
      ○ 二男結婚
  59歳 ○ 墓地取得
  60歳 ○ 定年退職
       エルダー社員と称する日給月給の契約社員として会社に残留。
  61歳 ○ 不安定狭心症再発
       左冠動脈にPCIでステント留置、同意書に署名時に振戦。
      ○ 完全退職
       朝から連続飲酒始まる。
***********************************************************************************
 私の半生を語るキー・ワードは上昇志向と依存性向だと思っています。これらは共に御しがたい動力エンジンで、片(かた)や空回り、此方(こなた)暴走をしばしば引き起こしたものでした。上昇志向が空回りして、嫉妬先をお門違いの先輩社員へ向けたこともありました。

 さらに追加すると、慢心と “おもしろくない” という気持ちでしょうか。普段、慢心は隠れているのですが、順風漫歩のときに限って顔を出し足を引っ張るのが常でした。“おもしろくない”  についてはお察しいただけると思います。自分の思い通りにならなくなると、大体お酒が定番となりました。

 私は元来プライドだけが高く、臆病で物臭(ものぐさ)の男です。そんな男が上昇志向に背中を押され、柄にもなく活発に動き回ったのです。その結果、様々な問題を呼び込むことになり、否応なしにそれらに向き合うハメとになりました。

 自分の思い通りにならないと “おもしろくなく” なり、それを紛らわそうとした飲酒が視野を狭め、一層思い込みを強くしたのだと思います。強い依存性向が習慣的飲酒となり、それが問題の複雑化や、仕事上の重大な判断ミスといった悪循環を招いたのです。

 新薬開発にとって用法設定は生命線の一つですが、思い込みからその用法設定の試験デザインを設計ミスしたことが先ず挙げられます。さらに旧GCP査察対策でもいくつかの重大ミスが重なりました。認識不足の上に集中力を欠いて時間配分を間違ったこと、それが原因で時間切れから心電図の点検ができなかったことなどです。

 試験デザインの設計ミスが申請取下げに至った根本原因ですし、認識不足による時間配分ミスが審査をほぼ1年間遅らせたのです。

 これらがアルコールの所為だったことは明らかです。挙句の果てに味わったのが筆舌しがたい艱難辛苦の連続で、さすがにこれで燃え尽きてしまったのだと思います。

 現役当時は、思い通りにコトが進まず、ツイテナイとばかり嘆いていました。 が、素面になって振り返ってみると、決して不運のせいばかりではなかったのです。その責めの大半はアルコールに溺れた自分にあった、今ではこのように考えられるようになりました。

 この連載シリーズ『アルコール依存症へ辿った道筋』は “なぜ?” を介した当時の私自身との対話です。第二の人生を送るためには、“酒が一番” のそれまでの生き方を一旦断ち切ることが不可欠で、そのためには “底着き” と断酒を経ることが避けられなかったのだと思います。この過程を経て初めて再生(reset)に踏み出すことができ、再び生きる意欲を取り戻すことができたのです。これが過去との対話によって得られた実に大きな大きな収穫でした。

 数少ないささやかな成功体験と、その何十倍もの艱難辛苦。成功体験は物質的財産となって私の第二の人生を支えてくれ、艱難辛苦は精神的な知恵となって現在の私を支えてくれています。これが今の私の実感です。

 振り返ってみると、この連載シリーズで綴った事柄は私の記憶に鮮明に残っているものばかりです。私の半生に起こった重大事件ばかりと言い換えてもよさそうです。一般的には、青春時代が人生で最も劇的で変化に富んだ時代とするようです。私にとって「波瀾万丈」という言葉がピッタリの時代は、大学受験前後の一時期と、30歳代半ばから50歳代初めまでの時期だったと思えてなりません。まさしく生き残りを賭けた真剣勝負の時代でした。それだけに私の最も輝いていた時代だったのです。


「アルコール依存症へ辿った道筋」シリーズはこれでお終いです。長い間連載にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。今後は思いつくままに、随筆を続けます。引き続きお付き合いください。



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アルコール依存症へ辿った道筋(その34)サラリーマン人生の終着駅

2015-06-26 20:20:38 | 自分史
 アル中(アルコール依存症)といえば手が震える振戦。離脱症状の代名詞ともいえる振戦がバレた決定的な場面が他にもありました。

 別居状態が解消された年の夏、狭心症の治験で代表世話人になっていただいた大物医師が定年退職し、退職記念パーティーに招待されたときのことです。製薬各社の治験の世話人を引き受けた大物ですから、主だった医師やら製薬会社社員やら、関係者が大勢集まっていました。

 会場はホテルの宴会場で、午後6時に受け付けが始まったので、さっそく記帳することにしました。サインペンを持ち、いざ署名しようとすると、ヤバイことに手が震えていました。それでも何とか記帳を済ませましたが、ふと後ろを振り返ると、いつの間にか私の後ろに会社の後輩社員たちが並んでいたのです。会社の連中に、震える手で記帳した直後の文字を見られてしまいました。一目で振戦であることがバレバレでした。

 このとき以降も、公の場面で振戦に当惑させられ、冷や汗だらけとなった場面が何回かありました。

 社内会議で皆が注視している中、マウスポインターが手の震えで定まらず、PCのPower Pointファイルを開けるのに難渋したことがありました。こんなときには緊張で手が汗ばみ、一層マウスが滑ります。必死の2回目でタマタマ上手く的に当たり、辛うじて難を逃れることができました。

 他にも銀行窓口の行員の目の前で、振戦のため全く字が書けなくなり、やむなく行員に代筆してもらったりもしました。その度ごとにどうにか切り抜けて来たのですが、ただ単に幸運だっただけです。

 お分かりのように、ここでお話したのは皆人前での場面です。他人に見られていると意識し出すと、緊張で余計に手の震えが酷くなります。それが刷り込まれてしまって、断酒後の今でも、人前で署名する場面になると妙に身構えてしまいます。まさしく条件反射ですね。

 そして遂に、年1回の人間ドックの点検で、とうとう高血圧と糖尿病が見つかってしまいました。今ならアルコールによる障害とはっきり分かるのですが、当時は「ついに俺も、成人病に罹ってしまったか」という感慨だけでした。

 それでTS部が消滅した翌年から、高血圧と糖尿病のため定期通院を始めることになったのです。降圧薬は、因縁深い例のCa拮抗薬Nにして貰い、糖尿病の方はまだ血糖降下薬を使うほどではないと、食事療法だけの経過観察となりました。

 会社で年配の同僚に「とうとう糖尿病になってしまった」と話したら、
「あんたなぁ、それは “がん” と同じで死刑宣告を受けたも同然やでぇ!」と言われてしまいました。これには黙って苦笑いするしかありませんでした。

 しばらくして総コレステロールも280 mg/dLぐらいまで上昇し、脂質異常症としても薬物治療開始となりました。喫煙習慣と合わせて愈々 “死の四重奏” の完成です。

 米国のFramingham研究という疫学調査によって、高血圧、糖尿病、脂質異常症の合併に喫煙習慣が加わると、心筋梗塞や脳卒中などの心血管合併症が急増し、死亡率が飛躍的に上昇することが知られていました。それで、これらの4つを併せ持っていることを “死の四重奏” と呼びます。49歳にして死が現実味を増しました。でも不思議なことに、肝機能については問題となるレベルには至っていませんでした。

 この年の夏、久々に帰郷した時のことです。「どちらさんでしたっけ?」79歳になった父親が私の顔を見るなり最初に言った言葉です。9年前一時父親を自宅に引き取った時、ほとんど構ってやれなかったことを思い出し、そのことへの当て付けで出た皮肉かと思いました。側で長姉が “痴呆” の進んだ結果だと教えてくれました。

 オムツなしでは過ごせない状態だとは聞いていましたが、聞きしに勝る “痴呆” の実態を知りました。自分の死は “痴呆” の末か、はたまた脳卒中か、それとも心筋梗塞による突然死か、老いという実態を前にして暗澹たる気分になりました。

 それから3年後の52歳のとき、次長に任ぜられました。Ca拮抗薬Pが申請取下げとなった翌月のことです。次長というのは課長職級の “上がり” の役職で、もはや昇進のない名誉職です。同時にこの年には就業規則の制度変更があり、52歳以上の昇給額が52歳未満の年齢層の半額に抑えられることにもなりました。

 これで昇進ばかりでなく、昇給の楽しみもなくなってしまいました。私のサラリーマン人生は終着駅に着いてしまったのです。

 当時の会社の慣例では、申請取下げとなった品目の臨床開発責任者の処遇は更迭・左遷でした。Ca拮抗薬Pの場合も、審査が異常に長引いていたことから、何が原因で拗れたのか、誰がその責任者だったのかが検証されていたと後で知りました。問題となった血圧日内変動試験では、当時の責任者が私の前任者であったことから、私には直接の責任を問えなかったのだと検証担当者から聞きました。前社長から検証を命じられたこの担当者は、私と同期入社で、意味ありげに笑いながらコッソリ教えてくれたのです。

 首の薄皮一枚だけ、辛うじて繋がっていました。次長に任じられたのも、会社としては温情のつもりだったのかもしれません。Ca拮抗薬Pと同じように、申請取下げとなった4成分の責任者は全員、すでに左遷か子会社に放逐されていました。

 成功に対する報奨はゆっくり後出しし、失敗に対する処分は即刻実施。会社とは非情なものです。

 会社などの組織は、システムに基づいて業務が遂行されるのが筋です。その中で失敗が起きてしまった場合、組織としてシステムの何が問題だったのかをまず検証すべきで、誰が原因だったのか個人を責任追及するのはその後であるべきです。誰がではなく、何が原因だったのかを究明しなければ、問題の再発を防ぐことは出来ません。会社の臨床開発業務については、教育システムがお粗末だったことが、失敗事例に共通していた最大の原因だったと私は考えています。

 あのとき教育しておいてくれたなら、と今でも思うことがあります。ここでは重要なポイントを3つ挙げておきます。いずれも臨床開発に欠かせないノウ・ハウで、これらがなかったばかりに悔やんでも悔やみきれない思いが強いのです。

 ● 当局が比較試験を重視する理由
   優劣は比べれば誰の目にも一目瞭然。情報公開が必須という政治的意味
   合いも含まれていること。
 ● 対照薬を選定するときの諸々の留意点
   申請後の審査過程でも通用する対照薬を選定すること。薬効を実証する
   目的での対照薬か? それとも特長を引き出す目的での対照薬か?            
   審査過程で拗れた問題への回答にはイチかバチかの一発勝負に賭ける
   ケモノ道もアリ。常識に囚われてはダメ。
 ● 盲検化の方法
   外観に施す常識的な “薬剤の盲検化” ばかりでなく、データの測定
   ~ 解析段階で行う “データの盲検化・匿名化” もあり得ること。


 この3点だけではきかないのですが、当時は会社として承認取得が6成分だけと、臨床開発の経験が乏しかったことを考えると仕方がないことかもしれません。これら3点についてさえ、成書からでは中々読み取れるものではありません。これらの知識をこなれた言葉で教えて貰えていたなら、余計なストレスを受けずにすみ、狭い “ケモノ道” も気楽に発想できていたのかもしれません。生き残るための知恵を こなれた言葉で伝授すること、それが教育だと私は考えています。

 以上のように、健康面ではアルコール依存症ばかりか、49歳で “死の四重奏” まで抱え込むことになりました。その後の会社勤めでは、Ca拮抗薬Pの承認申請取下げや、昇進・昇給の道が閉ざされ、52歳にして早くもサラリーマン人生の終着駅に到着してしまいました。会社では、最早窓際族としての余生しか残っていないように思えました。これらのどれをとっても将来は悲観的で、老後の明るい展望など一向に見えませんでした。まさしく執行猶予付き死刑宣告を受けたも同然でした。

 辛うじて私に課せられ、まだ宿題として残っていた問題は、二男の結婚、住宅ローンの完済、地元での墓地の取得ぐらいで、他には何も思い付きませんでした。現在から見ても、当時は暗澹たる状況だったことに違いないのですが、ここまで落ち込んだのはアルコール性うつ症状が進行し、加勢していたのだと思わずにはいられません。


アルコール依存症へ辿った道筋(その35)につづく



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