ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その1)アルコールとの馴れ初め―プロローグ

2014-10-06 20:56:15 | 自分史
酒と煙草はカッコイイ大人の男のシンボルだった。

 生まれ育った東北・岩手の農村では酒が当たり前のもてなしで、寄り合いの場合に漬物と一升瓶の酒が出るというのはごく普通のことでした。郵便局員などが保険の集金に来たときなど、文字どおりのアカの他人へ応対する場合のみお茶が出たのです。

 小学校に上がる前に、そのような寄り合いで父に勧められ酒を初めて口にしました。アルコール特有の刺激を舌と食道に感じ、脳ミソが真綿で包まれたようなモワーッとした感覚を覚えています。少しハシャイダぐらいで、ひどく酔っ払うことはなかったと記憶しています。顔が赤くなるのではなく、あまり変わらない体質だったようです。

 虚弱体質だったこともあり、小学校の中学年ころから養命酒を勧められ常用するようになりました。1~2年ぐらい続いたでしょうか。それを見た周りの大人たちは、将来辛い洋酒を好むようになるだろうと言っていました。

 ビールは中学生の時に初めて飲みました。独特の苦みに閉口したことを覚えています。それでも、度々ビールを口にするようになってからは抵抗なく飲めるようになっていきました。大学受験を控えていた高校生のころには、受験勉強に疲れた深夜、部屋の隣の台所にあった梅酒をコップに1/3ほどくすね、隠れて飲むことが時にありました。頭が解放されるような感覚が快く感じられました。当然勉強はそこまで、寝酒ですね。

 大学浪人1年目の時に急行列車で上京する際、座席が向い合せになった老女がビールを飲んでいる自分をみて、「酒を飲める人は偉くなれるよ」と言ってくれたことがありました。人付き合いにあまり苦労しないだろうという意味だったのでしょう。悪い気はしませんでした。私は上昇志向が強かったため、この言葉はむしろ心地良いものでした。田舎出の立身出世ですからね。自分に都合の良い言葉だったら、簡単に頭に刷り込まれてしまうのが私の若いころからの性癖です。

 洋酒のCMも影響したかもしれません。サントリーのウイスキーのCMでは開高 健、山口 瞳ら(?)がそれぞれ単独で出演していたように思います。瓶から氷の入ったグラスにウイスキーが注がれる音。煙草を燻らせ、グラスのウイスキーを一口飲む。グラスの中の氷が音を立てた。文化人というのはこういうカッコいい寛ぎの時間を持つものだと、これも頭に刷り込まれてしまいました。

 大学浪人1年目の入試が近づいたころ、予備校の寄宿舎の勉強机の書棚には、受験参考書とともにウイスキーとブランデーの瓶を並べて悦に入っていました。あのカッコイイ文化人の真似です。タバコも浪人仲間につられ吸い始めていました。初めの内は頭にクラッと来て、煙を口からフーッと吹き出す。それが良かったんですねぇ。銘柄はハイライトでした。この年、速いテンポながらどこか感傷的な『悲しき天使』(メリー・ホプキンス)が大ヒットしました。好きでしたね。

 高い合格確率圏内にあったことを良いことに、目前の入試という現実から眼を背け逃げていたんです。気の緩みとその後ろめたさから、入試直前にはえもいわれぬ不安と緊張感が募っていました。その挙句に入試前夜、一睡もできなかったのが祟り、敢無く討死でした。自分の受験番号が載っていない合格発表を見た帰り道、寄宿舎近くの海に一人で行ってみました。晴れた日なのに夜のように暗く、冷たい風の強い早春の浜辺でした。

 予備校の寄宿舎仲間は全員が合格しましたが、自分が合格するのにはもう一年要しました。

 19歳の二浪の時には寄宿舎を出てアパート住まいを始めました。寄宿舎で働いていた同い年の娘と初めて関係を持ち、週末にちょくちょく自室で会うようになってしまいました。彼女は高校を中退し、親元から離れて寄宿舎の賄い係りをしていました。寄宿舎の食堂で彼女に目をつけ、そのうち彼女と目が合って気持ちが伝わるようになっていたのです。入試に失敗してから二人の距離が一気に縮まりました。それで寄宿舎を出た方が便利と思ったのです。

 二人とも心に傷を負い居場所がないところが共通していました。心に傷手を負っていながらも、身体の方は溢れんばかりの若さですから、あとは推して知るべしです。初めての若い女性の肉体に耽溺してしました。互いに傷口を舐め合うように夢中で何回も求め、何回も果てました。

 こんな具合ですから、資金調達の必要からアルバイトも時々しなければなりませんでした。またもや大学受験という現実からから眼を逸らせ、不安にまかせてただ逃げ出したかったのに違いありません。眼前の重いストレスを紛らわすため、傷手を負った心のShelterを性に求める私の依存癖の始まりでした。

 自分一人だけが浪人という不安定な身分に相当焦っていました。酒もときどき自室で飲んで気持ちを紛らわしていました。飲みながら遣る瀬なさに泣いてしまったこともあります。お金がなかったこともあり深酒はナシです。それだけは自重していました。この年の重大事件、三島由紀夫の割腹自殺事件の時も、予備校でではなく自室にいてニュースで知りました。

 そんなふうに本業であるべき受験勉強に集中するでもなく、ただただ不安定な生活を送っていました。それでも、志望コース別成績順位と偏差値が決まる試験日には、定期的にシッカリ予備校に通いました。公開模試もあったので試験は頻繁に行われていました。蓄積があったので基礎科目の成績はほとんど落ちることなく、高い確率の合格圏内にはどうにか留まっていました。

 入試直前の3ヵ月間、友人と一緒に選択科目を合宿勉強しやっと合格することができました。その友人は前年すでに合格し在学中でしたが、どうしても医学部に進学したくて在籍したまま再受験に挑戦したのです。私を激励することが真の目的だったのかもしれません。

 合宿中、勉強の息抜きに公園でブランコを漕ぐことに嵌り、それが日課みたいになりました。坐ったままブランコを思いっきり漕いで勢いをつけ、そのまま飛び出して危険防止用の囲いの柵を飛び越えるという遊びもしました。成功したら合格、験を担ぐみたいなものです。危険この上ない行為です。だからこそ、二人とも必死だったと思います。間もなく、二人とも難なく成功できるようになったのですが、試験に合格したのは私だけでした。浪人中に受験勉強を死にもの狂いでやったのはこの合宿中だけだったような気がします。もちろん、合宿中は酒も女もナシでした。

 これが私の幼年~青年期の飲酒体験です。アルコール依存症へのプロローグです。このようなウォームアップ期間があったので、成人して飲酒する際は全く躊躇もしないし、危ないイッキ飲みもしませんでした。


アルコール依存症へ辿った道筋(その2)につづく


『悲しき天使』(メリー・ホプキンス 1968)はこちら

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