ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

父と息子の絆、Y染色体

2015-07-10 18:28:05 | 自分史
 アルコール依存症の自助会で体験談を聞いていると、年少の頃から男性の場合は父親との間に、女性の場合は母親との間に、それぞれ葛藤があって、それが長く尾を引いている(根に持っている)例が多いようです。
 暴力、叱責、ネグレクトなど虐待を受け、それに対する反感や嫉妬、劣等感が本人の心に深く根を下ろしているようなのです。
 私がアルコール依存症でありながら、人生を投げ出さずに何とか定年退職まで持ち堪えられたのは、息子を支えようと懸命に努めを果たした父の背中を見て来たからだと思っています。



 私の郷里の岩手では、西側を奥羽山脈が南北に連なっています。その中央部のやや南よりに牛形山という標高1340mの山があります。お椀を被せたような形の山で、頂上がお椀の糸底部分のように出っ張っていて出ベソに似ていることから、地元の山好きの人の間では “出ベソ山” と呼んだりもしています。

 奥羽山脈の奥まったところ、夏油川の渓流沿いに夏季限定の夏油(げとう)温泉があり、夏油三山といわれる牛形山や経塚山、駒ケ岳(駒形山)の登山口になっています。この温泉は、白い色をした源泉の湧く露天風呂で、神経痛によく効くというので湯治で有名です。

 お湯が熱いことでも有名で、ピリピリと肌を刺激するところがあり、お湯を一層熱く感じさせるのです。普通、5分も浸かっていることはできません。浴槽を囲む洗い場で、客は対岸の切り立った崖の山肌と渓流を眺めつつ、虻(アブ)の襲来に抗いながら、思い思いに寛いだ時を過ごします。坐骨神経痛に悩まされていた父がたまに湯治に行っていました。

 阪神・淡路大震災があった年の夏、久々に息子二人を連れて帰省しました。長男は高校3年、二男は中学2年でした。

 その3年前に私たち夫婦の間に離婚問題が勃発。私のアルコール問題と、仕事に忙殺され家庭を顧みないことなどが複雑に絡んでの出来事でした。父親の私が一人で別居となり、母親の妻が一時とんでもない身勝手な行動をとるなど、平穏な家庭が一転しててんでんバラバラになってしまいました。そんな両親の無様な姿を息子たちは目の当たりにしていたのです。

 多感な年頃だった長男は、仲が良い両親とばかり思っていただけに人間不信に陥ったようです。これを契機に茶髪で荒んだ尖がり眼の愚連(グレ)た姿となり、完全に落ちこぼれてしまいました。彼なりに心に空洞を抱えてしまったのかもしれません。

 二男の方はそんな兄をみて反面教師としていたようです。健気にも、とくに変わった様子を見せませんでした。“他人の振り見て我が振り直す”、二番目の特権です。

 長男を真面(まとも)にしなければ・・・、乗り気じゃなかった長男をその一心で連れ出しました。息子たちに、祖父である父と私、男ばかりで一緒の時間を持たせようと夏油温泉を予約したのです。
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 その24年前、2年間の(受験)浪人生活を経て晴れて大学に入学できた年、お盆休みに夏油温泉に行ったことがありました。一行は私と父、次姉、次姉の長男(甥)の4人でした。

 東京でゴタゴタがあって私はウンザリしていました。大学入学を期に自分の居場所を手に入れた私と、浪人2年目から関係を続けていた半同棲の彼女との間に隙間風が吹き、別れ話が拗れて刃傷沙汰寸前だったのです。

 相手の娘は大分前から家を飛び出してしまって居場所がなく、彼女にとっての居場所は私と半同棲を続けることのようでした。帰省を口実に東京から逃げ出し、少し間を置きたかったのです。

 その時は夏油温泉に1週間ほど逗留したでしょうか。その間、温泉に浸かることと食事をすること、あとは昼寝だけしかやることがありません。暇で暇で飽きてしまい、散歩がてら試しに牛形山への登山道を登ってみることにしました。

 道標によると山頂まで2時間半とあり、そう遠い距離ではありません。宿に備え付けのサンダル履きのまま、一人で登って行きました。

 登山道の7合目?(標高750m)ぐらいでしょうか、ダケカンバやクマザサなどが生い茂る灌木の林が途切れ、ススキなどの草地にたどり着きました。その草地は所々にハイマツが生えているぐらいの結構な急勾配で、ガレ場となった地滑り跡は30度以上の傾斜がありそうでした。登山道がアヤフヤなガレ場は足場が悪く、サンダル履きでは足を滑らせる恐れがありました。そんなわけで先に進むのを諦め、已む無く取って返しました。

 温泉の宿に帰ってこの話をしたところ、やはり暇に飽き飽きしていたのか皆で登ろうということになりました。サンダル履きでも行けるのなら小さい子供連れでも大丈夫という空気でした。このとき甥はまだ4歳でした。私はキャラバン・シューズで、父は甚平姿にゴム底の作業靴だったと思います。

 難所のガレ場までたどり着くと、私が先陣を切ってガレ場を渡る(横切る)ことにしました。危なければ中止して引き返せばよいぐらいに軽く考えていました。急な斜面は足を滑らすと遥か下まで滑落してしまいます。

 いざ数歩踏み出してみると、さすがに怖くなって腰が引け、最早引き返すことさえ儘なりません。とにかく先に進むしかなく、次の足場を探すのに必死でした。渡りきって後を振り返ると、すでに父が甥と手を繋いで何の雑作もなく余裕で渡っているのです。渡りきって甥を私に預けると、今度は次姉を手助けしていました。

 難所を過ぎると1時間ほどで頂上に着くことが出来ました。頂上では夏空の下、夥しい数の赤トンボが飛んでいました。この日の父の姿はとても頼もしく見えたものです。

 ガレ場での父の頼もしい姿と対で思い出されるのが父の出稼ぎのことです。

 実家は農家で、耕作地として1.2ヘクタアール(ha)ほどの水田と30アール(a)ほどの畑しかなく、御多分に漏れず現金収入不足の家計状況でした。農業全体が高度経済成長(時代)から取り残されていたのです。

 私が小学5年の頃から晩秋~早春の農閑期に父は出稼ぎに出るようになりました。私には土方仕事と言っていましたが、地質を調べるボーリングの仕事でした。その内、農繁期に限って農作業をし、一年の大半が出稼ぎとなっていきました。

 どれほどの収入だったのか分かりませんが、多くても私への仕送り分ぐらいでしかなかったと思います。浪人一年目当時の大卒の初任給が3万円程度の時代です。父は同程度の金額を毎月仕送りのため稼いでくれていたのです。安物タバコのタバコ代と食費以外の出費を控え、好きな酒も極力抑えていたようです。家では普段、夕食前にコップ一杯のお酒で満足していました。

 息子のためと、ひたすら働く父の生き様とガレ場での頼もしい姿を見て、東京に戻ったら潔く彼女との関係を断ち切ろうと心に決めました。
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 愚連(グレ)て落ちこぼれになっている長男を何とかしなければ・・・、離婚騒動→別居を契機にバラバラとなった家族を立て直さなければ・・・、困り果てた先に思い出したのが父の頼もしかった姿でした。

 24年前の牛形山登山でガレ場を渡ったときのことが蘇ってきたのです。その時、父に会いたいと心底思っていた私自身がありました。母の無理筋の我儘から一時的に避難させるため自宅に父を同居させた折、忙しさを言い訳に何も構ってやれなかった罪滅ぼしの意味合いも当然ありました。

 夏油温泉に着いた当日、温泉に浸かった後の寛いだ夕食時に、息子たちに父のことを語りました。
「初めて話すけど、じいさんは再婚で、別れた先妻との間に娘が二人いるんだそうだ。つまり、父さん(私のこと)には姉があと二人、別にいるということだ。」
「どこに住んでいるか分っているの?」
「・・・関西に住んでいるらしい。案外、ご近所かもしれない。だから、じいさんにとって男の子供は父さん一人、俺はじいさんのたった一人の息子なんだよ。」父が入婿で先妻の間に娘が二人いることから話し始めました。

 次いで、実家は農業だけでは学費を賄い切れない経済状況だったこと、たった一人の息子のために出稼ぎをしてまで大卒初任給相当の学費を仕送りしてくれたことなどを続けました。
「Y染色体にある遺伝子は、男だけが父親から受け継ぐ遺伝子だということは知っているよね? じいさんのY染色体遺伝子を受け継いでいるのはここにいる男だけ、父さん以外には孫のお前たち兄弟だけなんだよ。大変貴重な存在ということだ。」

 祖父である父について、息子たちに対しこれほどまでに詳しく語ったことは初めてでした。父はただ相槌を打つだけでした。酒が入っていたので息子たちがどう反応したかよく覚えていません。そして、牛形山登山の思い出を話し、翌日登ることになったのです。高齢の父は留守番役としました。

 翌朝は小雨模様でした。案の定、長男は出掛けるのを渋りました。ここで諦めては目論見が台無しになると思い、必ず後に付いて来ると見越して、二男とふたりだけで登山を強行することにしました。長男が付いて来ず、雨脚が酷くなったら引き返せばよい、そのつもりでした。

 宿の裏にある登山道は急傾斜の杉林から始まり、直ぐにブナ林に囲まれた尾根伝いの道となります。案の定、杉林が切れブナ林が始まる辺りで長男が追い着いてきました。

 急勾配の道は結構続きました。夢で何度も見た道は、木々の木漏れ日がまだら模様に道に映え、緩やかな勾配の風情でした。が・・・、記憶というものは甘いものだと思い知らされました。写真ではたとえ急勾配の斜面であっても、あたかも平地のようにしか写りません。夢の中の道も写真と同じでした。急勾配の道ばかり連続するのに息切れし、途中で何度も立ち止まりました。

 ブナ林がダケカンバやクマザサに変わる頃、雨脚が強くなって雨傘では堪えきれなくなり、道も泥濘るんで足元も覚束なくなりました。それで仕方なく引き返すことにしたのです。ガレ場までは残り10~20分ぐらいの距離だったと思います。

 登りの途中、道脇で雨に打たれながら大の方の用足しをしたことや、下りで足を滑らせ転んで泥だらけになったことなど、シャレにもならないこともありました。

 結局、三人一緒の登山はちょっと無理筋の中途半端なままで終わりました。それでも私にとっては懐かしい良い思い出として残っています。

 息子二人は、今ではそれぞれが二人の息子の父親となっています。今から20年前、私たちが強行した雨中の親子登山が息子たちにとってどんな思い出として残っているのか、そのことは彼らの息子(私の孫)たちが父親と今後どんな体験を共有するかを見ていれば分かるのかもしれません。

 帰省から帰った後、長男の尖った眼つきは元に戻りました。その後、長男とは二人で大台ケ原や那智の滝に一緒に行く機会もありました。少なくとも信頼感は深まったと思いますが、私への金銭的依存をも深める結果となったのは皮肉でした。

 私は図らずも、離婚騒動の修羅場やアルコール依存症になった無様な姿を息子たちに間近に見せてきました。範を示すべき父親としては褒められたことではないでしょう。これらのことが息子たちの人生にどんな影を落としたのか、気になるのは仕方ありません。私としては精一杯立て直しに努めてきたつもりです。恐らく、そんな私の姿も息子たちは見ていたことと思います。

 自分の意志で酒を飲まないままで我慢できる、普通なら出来て当たり前のことが出来ない病がアルコール依存症です。定年退職を期に頑張る気持ちが完全に挫けてしまい、酒浸りとなってしまいました。父はコップ一杯のお酒で満足できたのに、息子の私はそれを見倣うことができなかったのです。

 断酒継続に成功し飲まないでいることが自然となった今は、父の遺伝子を受け継いでいる息子たちを信じて、静かに見守って行こうと思っています。私の父、彼らの祖父は愚直なまでに律儀で、忍耐強く、そして節酒のできる鷹揚な男だったのです。


夏油温泉についてはこちらをご覧ください。


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