“認知のゆがみ” が露わになるのが性格です。性格は、無理に変えようとしてもなかなか変えられるものではありません。ところが行動なら、ほんの少し向きを変えることで容易く変えられます。それを繰り返せば、無理をしなくても自然に思考パターンが変わり、性格も変わってくれるのではないでしょうか。
最近、そう思えるようになりました。行動することで外の世界がありのままに見えてきた ― 断酒10ヵ月後から私に起きた変化について続けます。
先ず毎日の行動、歩くという通院のための行動で起きた変化です。
以前は、道を歩いていてもさほど気にしなかったゴミ、特に吸い殻のポイ捨てがやたら目障りに思えてきました。見て見ぬふりもできず、つい素手でゴミ拾いを始めることになりました。それがまんまと癖になり、今ではトング(火バサミ)と軍手の出立ちでゴミ拾いをするのが日課のようになっています。
ゴミと付き合っていると世相の色々が見えてきます。持ち運びを便利にした商品包装の発達(ポイ捨てを煽るように見えてしまいます)、ドリンク類の流行り廃り、季節特有の落とし物、・・・そして何よりも人の本性が見えてきました。初めの頃は、ポイ捨てした人物像に無性に腹が立ってばかりでした。公共心の欠片もない無神経さや未熟な幼稚性、悪事を隠そうとする姑息さ、病的とも思える癖、・・・。
ところがそのうちにゴミとの向き合い方が変わって来ました。
先ず思い知らされたのが、ゴミそのものの見方です。当たり前のことですが、道に落ちているゴミは私の思い通りには動いてくれないのです。こちらから一々ゴミに出向かなければなりません。そんなゴミとのお付き合いで、イラチな私にも堪え性が出来てきたようです。
次いで思い知らされたのが、ポイ捨てする人の一掃など私1人ではできっこないことです。
人は生きている限りゴミを出します。誰でも出すゴミですが、ポイ捨てするのはその人の性格次第です。自分の性格にさえてこずっているのに、他人の性格などなかなか直せることではありません。それを正せるのは周りの環境と教育如何です。ゴミ拾いをすれば環境と教育に多少なりとも貢献することになります。
これらを通じ次第にゴミをありのままのゴミ、つまり単なる不要物と見做せるようになったようです。イヌの糞の始末はしょっちゅうで、あってはならない人糞にもたまに出くわします。その始末を何度も繰り返すうちに、つまらないプライドがいともアッサリ砕けてしまいました。
糞も単なる不要物です。不潔で汚らしいと散々刷り込まれてきた物だけに、変な先入観が即座に拒絶反応を誘うようです。この拒絶反応こそ “認知のゆがみ” のなせる技です。バキュームカーの屎尿処理業に再就職し、飲まない生き方を順調に続けている同病の方がいるそうです。そんな話を聞いて、「さもありなん」と私は妙に納得したものでした。
ゴミ拾いはささやかながらも立派な社会奉仕です。しかも、持病の糖尿病にも運動療法として打って付けと期待以上の展開になりました。断酒直前のほぼ引き籠もり状態からすれば、これらの展開がいかに “瓢箪から駒” なのかおわかりいただけると思います。実際にやってみなければ決して体得できなかったことと喜んでいます。これも心にゆとりが出て来た証でしょうか。
行動の向きをほんのちょっと変えさえすれば、自然に展開は大きく変わります。
たとえば散歩するにしても、トング(火バサミ)とレジ袋を持ってさえいれば道のゴミ拾いに繋がります。少し歩いてみようとさえすれば、遠回りのバスで15分掛かる最寄りの駅でも、近道なら歩いて30分で行けるかもしれません。夜更かしせずに早く寝れば、早起きのスッキリした頭で書き物が予想外に捗るものです。
ほんの少し行動を変えてみただけなのに、その巾は大きく変わります。どう変わるかはやってみてのお楽しみ、やってみなければわかりません。「動き出さなきゃ何も始まらない」これは私の実感です。 (この項まだつづく)
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最近、そう思えるようになりました。行動することで外の世界がありのままに見えてきた ― 断酒10ヵ月後から私に起きた変化について続けます。
先ず毎日の行動、歩くという通院のための行動で起きた変化です。
以前は、道を歩いていてもさほど気にしなかったゴミ、特に吸い殻のポイ捨てがやたら目障りに思えてきました。見て見ぬふりもできず、つい素手でゴミ拾いを始めることになりました。それがまんまと癖になり、今ではトング(火バサミ)と軍手の出立ちでゴミ拾いをするのが日課のようになっています。
ゴミと付き合っていると世相の色々が見えてきます。持ち運びを便利にした商品包装の発達(ポイ捨てを煽るように見えてしまいます)、ドリンク類の流行り廃り、季節特有の落とし物、・・・そして何よりも人の本性が見えてきました。初めの頃は、ポイ捨てした人物像に無性に腹が立ってばかりでした。公共心の欠片もない無神経さや未熟な幼稚性、悪事を隠そうとする姑息さ、病的とも思える癖、・・・。
ところがそのうちにゴミとの向き合い方が変わって来ました。
先ず思い知らされたのが、ゴミそのものの見方です。当たり前のことですが、道に落ちているゴミは私の思い通りには動いてくれないのです。こちらから一々ゴミに出向かなければなりません。そんなゴミとのお付き合いで、イラチな私にも堪え性が出来てきたようです。
次いで思い知らされたのが、ポイ捨てする人の一掃など私1人ではできっこないことです。
人は生きている限りゴミを出します。誰でも出すゴミですが、ポイ捨てするのはその人の性格次第です。自分の性格にさえてこずっているのに、他人の性格などなかなか直せることではありません。それを正せるのは周りの環境と教育如何です。ゴミ拾いをすれば環境と教育に多少なりとも貢献することになります。
これらを通じ次第にゴミをありのままのゴミ、つまり単なる不要物と見做せるようになったようです。イヌの糞の始末はしょっちゅうで、あってはならない人糞にもたまに出くわします。その始末を何度も繰り返すうちに、つまらないプライドがいともアッサリ砕けてしまいました。
糞も単なる不要物です。不潔で汚らしいと散々刷り込まれてきた物だけに、変な先入観が即座に拒絶反応を誘うようです。この拒絶反応こそ “認知のゆがみ” のなせる技です。バキュームカーの屎尿処理業に再就職し、飲まない生き方を順調に続けている同病の方がいるそうです。そんな話を聞いて、「さもありなん」と私は妙に納得したものでした。
ゴミ拾いはささやかながらも立派な社会奉仕です。しかも、持病の糖尿病にも運動療法として打って付けと期待以上の展開になりました。断酒直前のほぼ引き籠もり状態からすれば、これらの展開がいかに “瓢箪から駒” なのかおわかりいただけると思います。実際にやってみなければ決して体得できなかったことと喜んでいます。これも心にゆとりが出て来た証でしょうか。
行動の向きをほんのちょっと変えさえすれば、自然に展開は大きく変わります。
たとえば散歩するにしても、トング(火バサミ)とレジ袋を持ってさえいれば道のゴミ拾いに繋がります。少し歩いてみようとさえすれば、遠回りのバスで15分掛かる最寄りの駅でも、近道なら歩いて30分で行けるかもしれません。夜更かしせずに早く寝れば、早起きのスッキリした頭で書き物が予想外に捗るものです。
ほんの少し行動を変えてみただけなのに、その巾は大きく変わります。どう変わるかはやってみてのお楽しみ、やってみなければわかりません。「動き出さなきゃ何も始まらない」これは私の実感です。 (この項まだつづく)
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