目が覚めると一面の雪景色か?と思ったら、みぞれ模様で、積雪は皆無…
ちょいとあてが外れました。
そんなわけで、2月7日の「歴博は歴史のテーマパーク、、、かもしれない(その1)」のつづきです。

明治初期の日本の重要な輸出品は生糸と茶でした。一時期、その生糸をしのぐ輸出金額を誇ったのは「蚕卵紙(さんらんし)」なるもの。初めてこの言葉を聞いたときは、まったくイメージがわきませんでしたが、2年前の暮れに見物してきた北海道開拓の村で、その「蚕卵紙」とやらの現物を観たり、その作り方を勉強することができました。
開拓の村では寒さでデジカメ
の電池の持ちが低下
する中、たっぷりと写真を撮ったはずなのですが、「旧田村家北誠館蚕種製造所」の写真が一枚もありません
なぜなのでしょうか。
「蚕卵紙」は、国立歴史民俗博物館(歴博)にも展示されていました(右の写真)。
和紙の上に枠を置き、その中にカイコガを放して、和紙に卵を産みつけさせたもの。
歴博に展示されていたものはタテ30cmほどの楕円形にびっしりと卵がついたものでしたが、開拓の村で観たものは、カイコガ1匹ごとに区画が分かれていて、1枚の台紙に20~30ほどの卵の群れがきれいに並んでいるものだった記憶があります。
さて、生糸と聞いて連想するのは「あゝ野麦峠」の世界です。
貧農の娘が給料の前借り金を実家に残して、製糸工場でこき使われるというお話。
歴博にこんな展示
がありました。

製糸工女の契約書です。雇用契約書(右半分)と給金前借りの借用書(左半分)が一枚になっているのですよ。
借用書
の文面を抜き書きしてみましょう。
カタカナをひらがなにして、句点・句読点を追加しました。
前書の金圓は自分共要用に付、右工女貴殿工場へ大正 年中製糸工女として雇傭契約を為し、其の工賃前借として正に領収仕候処確実也。然る上は貴殿製絲工場御規定に則り支給せられるる工賃を以て順次御支払致し、其年閉業の時迄に皆済可仕候。万一弁済義務者別紙契約事項および本契約に違背して工賃の支給を受くることを得ざる場合には、何時にても御請求次第、年一割五分の利息相添え皆済可仕。且つ工女は右約定年内他に工女雇傭契約又は本契約履行を妨ぐ可き何ら故障無きことを確証し、尚今後為さざることを誓約致候。
何らかの理由で、工賃がもらえない状態になれば、直ちに年利15%の利息と共に残債を全額返済することになっています。
ちなみに、現在の利息制限法では、上限金利を
元本が10万円未満の場合 - 年20%
元本が10万円以上100万円未満の場合 - 年18%
元本が100万円以上の場合 - 年15%
に定めていますから、年利15%は、そんなべらぼうなものではありません。
とはいえ、自分の娘の給料を前借りせざるを得なかった親が、すぐにお金を準備できるとは思えません。
もうひとつ目を惹いたのは、こちらのパネル展示でした。

まず、パネルの右下をご覧ください。
岡谷製糸会社での「工女が中途で『帰国』した理由」の第1位は「逃走」です。1918年3月~1920年11月の約2年半で137人も逃げた
逃げたところで、会社から娘の給料を前借りしている親が快く迎え入れてくれるはずもなく、いったいどこへ流れていったのでしょうか
また、パネルの左上の「工女の一日」も厳しい…
朝の4時半から夜の7時半までの就業時間(食事・休憩を除いて14時間20分
)で、定休日が月2日、その他、祝日(年3日)、盆・正月、新旧繭の入れ替え時期の7日以内の休日だというのですから、現代の常識からはかけ離れた世界です。
上に載せた契約書によれば、給料は日額で5~80銭とありますが、年間100円以上稼げば「100円工女
」として工女たちあこがれの存在だったそうですから、年間稼働日からすれば、「日額80円」なんて「一応、規定としては存在する」程度のものなのでしょう。
ところで、群馬県富岡市に旧富岡製糸場があります。

2年前にクルマ
を飛ばして見学してきました。
驚いたのは繰糸場(繭を煮て、糸を紡ぐ工程)の内部の明るさ
でした。

自然の採光だけでこんなに明るいなんて(撮影したのは3月末の14時ちょいと前)、製糸工場のイメージが覆る気がします。
それもそもはず、富岡製糸場は「あゝ野麦峠」の舞台となった製糸会社とは性格がだいぶ違います。西洋の進んだ機械式製糸を日本に移植することと、製糸工女を指導・育成する人たちの訓練する施設だったのですから、いわば「製糸業のトップガン」とも言える場所だったわけですな。

話を歴博に戻します。
苦役を象徴するものといえば、何をおいてもこちらでしょう。
北海道の開墾や鉄道敷設には囚人が酷使されたことは知っていましたが、左の写真のような鉄球を「囚人脱走者にみせしめにつけた」とは…
こんな鉄球を囚人につけるなんて、ドリフのコントだけかと思っていましたヨ
ところで、この「鉄球(現物)」の収蔵先が「丸瀬布町 いこいの森資料館」だなんて、冗談ですか
ここでご注意。丸瀬布町は、2005年10月に生田原町・遠軽町・白滝村と合併して、北海道紋別郡遠軽町になっています。
また、「いこいの森資料館」も「丸瀬布森林公園いこいの森 郷土資料館」に名称変更した模様です。

重い話ついでに、実際に持ってみたら、ホントに重かったこちら。

日露戦争直後(1905年:明治38年)から太平洋戦争まで40年近くにわたって日本軍の主力軽火器だった「三八式歩兵銃」(本物)です。
10cmほど持ち上げられるようになっていて、実際に持ってみました。さすがに3.95kgあるというだけあって、ずっしりとした重さです。
物理的な重さだけでなく、しっかりと「菊のご紋」が刻印されていて、兵士にとっては「天皇陛下からお預かりしている銃」ということで精神的にも重かったに違いありません。
下の写真は「三八式」の後継「九九式小銃」の「菊のご紋」です(ガラスケースに私が亡霊のように映り込んでる…
)。

ということで、時節柄、ヘヴィな話が多くなってしまいました。
次回は、猥雑さとバイタリティと懐かしさあふれる展示を「第5展示室(近代)」と「第6展示室(現代)」からご紹介します。