新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

「かはごえ」は素敵な街でした(寺&教会編)

2011-02-27 07:21:38 | タウンウオッチング

『かはごえ』は素敵な街でした(大正浪漫編)」、そして2月14日の記事「『二引』が二連発(その1)」のつづきです。
そうだそうだ、この日、自宅から川越に向けてクルマを走らせたとき、富士山がきれいに見えたのでしたっけ。せっかくですので載せておきます。

110227_1_1

   

さて、蔵造りの町並み(一番街)から喜多院を目指して歩いて行くと、喜多院の手前にあるのが成田山川越別院です。

110227_1_3

広く開放的な境内が気持ちいい
この成田山川越別院は、その名のとおり、千葉の成田山の別院です。
川越市が設置した案内板の一部を転記しますと、

成田山川越別院は、川越別院成田山本行(ほんぎょう)院と称し、いつの頃からか「久保町のお不動様」とも呼ばれるようになった。
本尊は不動明王で、内外の諸難や汚れを焼き払い、人々を守るといわれ、願をかける時などに奉納する絵馬のため、境内には絵馬堂も建立されている。
当寺は、江戸時代も末の嘉永六年(1853)、ペリーが黒船を率いて浦賀に来航した年に、下総の国新宿(にいじゅく)(現葛飾区)の石川照温が、廃寺となっていた本行院を成田山新勝寺の別院として再興したのが始まりといわれている。

また、川越別院のHPに書かれている縁起からも一部を引用しますと、

ここ川越の地に不動明王を安置して師を住せしめんと、10数人の有力な地元の世話人達が廃寺となっていた川越久保町の本行院を再興すべく川越城主松平大和守に願い出て、その許可を得ました。
そして嘉永六年本行院の復興とともに成田山貫首照輪上人が御本尊不動明王のご分霊を開眼し照温師に授与せられこれが成田山川越別院の起源となりました。
成田山本行院と公称するようになったのは、明治10年からで、従来の本行院の建物等一切を本山の管理に移し、本行院は本山の最初の別院となりました。
これが、全国成田山別院の魁であり、初代の住職は照輪上人で、歴代の本山貫首を兼務住職として迎えております。

かなり下卑たっつうか畏れ多いことに、お寺を会社に例えると、

江戸時代末期、川越にあった廃屋、かつては由緒ある商家(本行院)だったものの、後継者がいないためにあれる一方。これじゃ見栄えが悪いし、治安上も好ましくない。ということで、地元の自治会役員たちが県知事川越藩主 松平典則公?)に掛け合って再建・再興の許可をもらった。
住民は、大手フランチャイズチェーン成田山新勝寺)から役員石川照温師)を派遣してもらい、フランチャイジーとして再興した。
その後、チェーン本部成田山新勝寺)に吸収合併されて川越支社川越別院)となり、代々、支社長住職)は本部のCEO成田山貫首)が兼務している。

といった感じでしょうか?

   

喜多院のことは「『二引』が二連発(その1)」でも書きましたので、さらっと…。

江戸城から移築した客殿・書院・庫裏の奥にある庭園は、江戸城紅葉山の庭園を再現したものだそうで、広さはさほどないものの、かなりステキな庭園でした。
写真はございません。ぜひ、お出かけの上、ご体験くださいませ。

下の写真は「庫裏」です。

110227_1_4_3

現在はほとんど残っていない江戸時代初期の江戸城の遺構が、川越に移設されていたことで400年の時を超えて存在し続けている…。しかも、移設のきっかけは寛永15年(1638年)の川越大火だったなんて…。感慨深いです…

こちらの喜多院山門は、寛永15年の川越大火を生き延びた数少ない建物です。

110227_1_5

質素で、なかなかよろしいデス

   

喜多院の近隣(神仏分離前は同じ領域内)には仙波東照宮日枝神社があります。
私は、「ふ~ん、、東照宮とか日枝神社とか、徳川系にはありがちの組み合わせだ…」とさして気にとめず、足を向けることもなく無視していました。
ところが、この記事用に調べると、どちらもかなり由緒ある神社だと判ってちょっと落ち込みました

仙波東照宮は、徳川・東照大権現・家康公の遺骸が、駿府・久能山から日光に移葬される際、4日間この地に留め置かれ、天海僧正を導師として法要を執り行ったという由緒正しい場所だそうな

伊達家がおべっかのように建てた仙台東照宮(学生の頃、近所に住んでいました)とは「正統性」の度合いが違う
下の写真は約4年前、久しぶりに訪れた仙台東照宮です。

110227_1_6

また、日枝神社にしても、江戸の氏神様:日枝神社の「本家」がこちらでした
東京の日枝神社のHPによれば、

当社は武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として江戸氏が山王宮を祀り、さらに文明十年(1478)太田道灌公が江戸の地を相して築城するにあたり、鎮護の神として川越山王社を勧請し、神威赫赫として江戸の町の繁栄の礎を築きました。
やがて天正十八年(1590)徳川家康公が江戸に移封され、江戸城を居城とするに至って「城内鎮守の社」「徳川歴朝の産神」として、又江戸市民からは「江戸郷の総氏神」「江戸の産神」として崇敬されました。
二代秀忠の時の江戸城大改造の際、城内紅葉山より新たに社地を江戸城外に定め、社殿を新築して遷祀されました。

だそうです。

う~む…、予習と復習って、ホント、大事ですなぁ~

   

喜多院の境内で、かなり根性を持った木を見つけました。

110227_1_7

柵の鉄棒に絡みつき、飲み込もうとしています
このまま数年経つと、杭が引っこ抜かれそうですぞ
その様子を見たい気がする反面、怖い気もします…

   

喜多院を後にした私、ちょっと豪華にうなぎの昼食を摂り、クルマを停めてある川越市役所を目指しました。

途中で、かなり趣のある教会を見かけました。

110227_1_8

大正10年(1921年)竣工の日本聖公会川越キリスト教会です。

礎石がこれまたいい

110227_1_9

いかにも「手積み」した感じが大変よろしいと思います。
東京駅丸の内駅舎の精緻華麗・丁寧な煉瓦の積み方(もちろん手積み)も素晴らしいと思う私ですが、これはこれで良いです

というわけで、たった3時間ながら、楽しみました、川越

私の家からは40分ほどで行けますし、また遠くない時期に出かけてみようと思っています。

【追記】書き忘れたことがありました

2月13日の川越探訪では、川越城趾には行きませんでした。
というのも、「川越城本丸御殿は閉館中」という掲示を何カ所かで目にしたためです。
どうして閉館中なのか、判らないまま帰ってきました。

そして、このブログを書くべく小江戸川越観光協会のHPを見ると、

110227_1_9a_2

ですと 

出かける前に見た時には気づきませんでしたゾ っつうか、保存修理工事が行われていたことすら知りませんでした… ホント、準備不足です… (保存修理工事についてはこちらをご参照ください)

そして、川越市立博物館の「利用案内」によりますと、

※竣工を記念し、平成23年3月31日(木)まで本丸御殿の入館料が
 無料になります!! ぜひお越しください。
 ただし、3月28日(月)は休館ですので、ご注意ください。

だそうな

もっとも、3月26日(土)の午後2時に公開が再開されて、入館料無料は3月31日(木)までのたった4日半だけだし、もともと入館料は

一般100円 学生(高・大)50円 中学生以下無料

ですから、さして大きな話ではないかもしれません。
逆に、じっくり見学するのにはこの時期を避けた方が良いかもしれません。ご参考まで。

(2011/02/27 09:00 & 09:18)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする