「いったいいつの話だ?の京都旅行記(その11)」のつづきは、琵琶湖疎水記念館の訪問記です。
東北で生まれ育った私にとって琵琶湖疎水は、安積疎水とともに、「そんな水路があるらしい」程度の認識でしたが、京都で生まれ育った人たちは、きっと「郷土史」で勉強したことでしょう。
「京都市三大事業」というものがあるそうで、この碑によると、
第2疎水
水道
市電の走る幹線道路
の「同時建設」とな。
第2疎水はあっても、琵琶湖疎水がありませんな。
琵琶湖疎水は、その「開通を転機に東京遷都後の沈滞からよみがえった」といいますから、まさしく別格の扱いです。
きっと、京都市内の小学生たちが社会科見学でこの琵琶湖疎水記念館にやってきて、京都府知事として琵琶湖疎水の建設に尽力した北垣国道さんとか、担当の土木技師・田邊朔郎さんとかのことを勉強しているのでしょう。
リンク先をご覧の方はおわかりでしょうけれど、琵琶湖疎水記念館は京都市上水道局の広報施設で、館内の展示が 撮影禁止なのは残念ですが、入場無料デス
また、館外なら撮影(だと思う…
)。
こんな水車(ペルトン式水車)とか、
こんな発電機(スタンレー式発電機)とか、
はたまた、ただの古い材木にしか見えないこんなの(大津閘門の木)とか、
産業遺産好きの私としては、盛り上がりっぱなしです
さて、琵琶湖疎水は、1881年(明治14年)に北垣知事が構想し、1885年に着工
して、1890年に完成
した、琵琶湖の水を京都に引くための水路です。
何の先入観もなく想像すれば、飲み水を琵琶湖から引くために造ったものだと思いがち(私だけ?)ですが、
疎水の水力で新しい工場を興し、舟で物資の行き来を盛んにしようという計画
だったのだとか(琵琶湖疎水記念館のリーフレットより)。
ですから、日本最初の事業用水力発電所
「蹴上発電所」(下の写真は第2疎水と共に1902年に完成した第2期発電所)とか、
下流の舟溜まりにいる舟を上流に引き上げるインクラインとか、
と、セットなんですな。
私は、この日この時まで知りませんでした
とっくに滋賀と京都との物流はトラック輸送に置き換わってしまったわけで、インクラインは「廃線」ですが、いいです、この眺め…
話を琵琶湖疎水記念館に戻しますと、工事技師を務めた田邊朔郎さんの話が凄かった…。
なにせ田邊さんときたら、1861年に生まれ、卒業論文に琵琶湖の疎水計画を取り上げて1883年に工部大学校(東京大学工学部の前身)を卒業したと思ったら、直ちに京都府御用掛として採用されて、琵琶湖疎水工事の工事技師ですぞ
つまり、大学を出たばかりの若者が、こんな大プロジェクトの責任者に任命されて、その仕事を成し遂げたというわけです。
任命する方も任命する方なら、プロジェクトを任されて、それを実現してしまう方も…デス
なんという時代だったのでしょうかねぇ~
思いを現代に呼び戻すと沈鬱な気分になりつつも、幕末~明治初期の日本人のDNAを、現代の日本人も受け継いでいるはずではないか、やりようによっては何とかなるのではないか、と思った次第です。
つづき:2011/05/21 いったいいつの話だ?の京都旅行記(その13)