「忘れた頃に年末の愛知旅行記を再開(その5)」のつづきです。
なかなか先に進まなくて、このシリーズのタイトルにもう一つ「忘れた頃に」をつけなければならないのではないかと思うほど…
気を取り直して、引き続き、明治村3丁目からお送りします。
「長崎居留地二十五番館」の隣には、いかにも別荘風というかヒュッテ風の建物が立っています。
この建物は、
現在の西宮市甲東園に明治44年(1911)、大阪の商人芝川又右衛門の別荘として建てられた。設計者は当時京都工等工芸学校図案科主任で、後に京都帝国大学建築学科の創設者となる武田五一である。
という「芝川又右衛門邸」。
芝川又右衛門さんという方は(私は初耳)、
芝川又右衛門は先代が大阪伏見町に唐物商(輸入業)「百足【むかで】屋」を開業し、三井八郎右衛門・住友吉左衛門などとともに明治13年(1881)の日本持丸長者鑑【かがみ】に、名を連ねた豪商
の一人である。
だそうですが、今ひとつピンときません。
そこで、「芝川又右衛門」で検索すると、「芝川ビル」のHPに行き着きました。(芝川ビルといえば、2011年10月に「THE TOUR OF MISIA JAPAN SOUL
QUEST」で大阪遠征したとき(記事はこちら)、日曜の夜で閑散
とした淀屋橋界隈でその印象的な佇まいを拝見しましたっけ…)
芝川ビルのHPを引用しますと、
芝川家は又四郎(二代目芝川又右衛門さんの次男)の曽祖父にあたる芝川新助が唐物商(欧米品の輸入業)を興し、商売は大いに盛んでしたが、又四郎の祖父・芝川又平(初代・又右衛門。又平は隠居後の名前)は、変動に満ちた近代社会の危険性をいちはやく感じ取り、リスクの高い唐物商を廃業、大阪の千島、千歳、加賀屋の三新田を購入し、土地経営というより確実な資産運用に転じます。
とのこと。
さらに検索すると、千島土地㈱という会社に行き当たりました。
この会社こそ、初代又右衛門さんが「土地経営というより確実な資産運用に転じ」た不動産会社
と、この社名、どこかで聞き覚えがある… と思ったら、あのラバーダックの大阪での勧進元でした
なるほど、大阪地盤の不動産業だから私に馴染みがなかったわけですな…
一方、「芝川又右衛門邸」の設計者、武田五一先生の作品は、去年のゴールデンウィークの関西旅行の際、京都・清水寺近くで「五龍閣」を拝見いたしました(記事はこちら)。
「五龍閣」の説明には、
近代建築に和風を融合させた武田の傑作のひとつである
とあったわけですが、この「芝川又右衛門邸」も、一見洋風ながら、
完全に和風です
おもしろいなぁ~
明治村の説明によれば、
芝川家の記録には、明治44年に完成した建物を見た家族の「畳がリノリームになっただけで、まるで洋館らしいところはない」という言葉が遺されている。外壁は杉皮張、1階ホールは聚楽壁に網代と葦簾を市松状に用いた天井が用いられ、2階の座敷には暖炉が設けられるなど、全体として和の中に洋があしらわれた意匠であったが、関東大震災後の昭和2年に、隣接地に和館を増築する際、耐火を意識し、外壁はスパニッシュ風な壁に変更された。
だそうです。
「阪神間モダニズム」という言葉があります。
Wikipediaによれば、
阪神間モダニズムとは、1900年代から1930年代にかけて、六甲山系と海に囲まれた理想的な地形を有する阪神間(兵庫県神戸市中央区・灘区・東灘区、芦屋市、西宮市、宝塚市、伊丹市、尼崎市、三田市、川西市)を中心とする地域にはぐくまれた、近代的な芸術・文化・生活様式とその時代状況を指す。
というもので、当時、日本経済の中心地だった大阪と東洋一の貿易港だった神戸、二大都市を繋ぐ阪神間は、
まず明治期に、阪神の豪商の豪壮な邸宅が、住吉村(現神戸市東灘区)地域に陸続と建築されていく。この開発が契機となり、大正期には、実業家のほか当時の新興階級であった大卒のインテリサラリーマン層、すなわち無産中流階級の住宅地として発展した。文化的、経済的な環境が整ったことから芸術家や文化人などが多く移り住む。それにともない、別荘地であった六甲山上および緑豊かな市街地となった山麓に、ブルジョワと呼ばれる富裕層を対象に、様々な文化・教育・社交場としてのホテル・娯楽施設が造られ、大リゾート地が形成された。こうして、西洋文化の影響を受けた生活を楽しむ独自の生活様式が育まれたのである。
とあります。
この「芝川又右衛門邸」は、まさに「阪神間モダニズム」を代表する建物の一つだったようです。
「3丁目」最後の建物は、「北里研究所本館・医学館」。
その名前のとおり、「日本の細菌学の先駆者北里柴三郎が大正4年(1915)芝白金三光町に建てた研究所の本館である。」
説明板には、
この建物は博士自身が学んだ研究所にならい、ドイツバロック風を基調としている。
とありまして、その「(北里)博士自身が学んだ研究所」、コッホ研究所はこんな外観だったようです。
う~む、似ています
「北里研究所本館・医学館」はコッホ研究所を質素にした感じ…
中に入ると、研究室は、大きな机にガス栓と洗い場が付属していて、私は中学校の理科室を思い出しました。(文系なので、ここまで遡る)
ちなみに、私、数年前まで「北里」は「きたざと」と読むものだとばかり思っていましたが、ただしくは、「きたさと(Kitasato)」です。
ふ~、ようやく「3丁目」はお終いです。
「3丁目」には幸田露伴住宅「蝸牛庵」や茶室「亦楽庵」や西園寺公望別邸「坐漁荘」なんかもありましたが、西園寺公望別邸「坐漁荘」は修理中でしたし(もう終わっているハズ)、時間
が残り少なくなってきていました
ので、それらを観ることなく「2丁目」へと向かったのでした。
つづき:2014/03/07 忘れた頃に年末の愛知旅行記を再開(その7)