新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

忘れた頃に年末の愛知旅行記を再開(その9)

2014-03-09 02:17:32 | 旅行記

「忘れた頃に年末の愛知旅行記を再開(その8)」のつづきは、お役所2連発
まず博物館2丁目の一番奥にある「東山梨郡役所」

140309_1_01

シンメトリーで威風堂々「いかにもお役所」ですが、細い柱が瀟洒な感じを与えています。
いわゆる「擬洋風建築」で、

当時の山梨県令藤村紫朗は大変開明的な人物で、地元に多くの洋風建築を建てさせている。人々はそれらを「藤村式」と呼んだが、この東山梨郡役所もその一例である。

だとか。

ところで、「郡役所」とは何でしょ…

現在も町・村の一つ上の行政区画として「郡」はありますが、「郡役所」というものを見たことも聞いたこともありません。
Wikipediaには、

現在の郡は、住所表記や、広域連合体(広域行政圏)の範囲、都道府県議会選挙区の区割などに用いられるに留まる。

と書かれています。
ところが、明治村のHPによると、昔は、

廃藩置県によって始められた地方行政をより効率的に行うため、明治11年(1878)「郡区町村編制法」が施行される。これにより、県令の任命する郡長が、県令の指示のもとで郡内の町村の行政を指導監督することになった。山梨県は施行当初4郡に分けられたが、明治13年(1880)の太政官布告により9郡に改編された。東山梨郡が誕生したのはこの時で、日下部(くさかべ)村をはじめ30の村が編入された。

だそうで、県令(現在の県知事に相当)は官選ですから、その「県令の任命する郡長が、県令の指示のもとで郡内の町村の行政を指導監督」ということは、まさしく中央集権の神経を町村にまで張り巡らせたということなのでしょう。

   

次は、ついに明治村1丁目に戻ってまいりまして、帝国ホテル中央玄関西郷從道邸と並ぶ明治村のシンボル、三重県庁舎

140309_1_02

イイですねぇ~

シンメトリーで、二階にバルコニーを張り巡らせている点で、「東山梨郡役所」とも相通ずるものがあります。
説明によれば、

間口が54mに及ぶ大きな建物で、玄関を軸に左右対称になっており、正面側には二層のベランダが廻らされている。この構成は当時の官庁建築の典型的なもので、明治9年東京大手町に建てられた内務省庁舎にならったものである。

だそうですが、それはともかく、近寄ってみると、

140309_1_03

いったいここはドコ?って感じ…

140309_1_04

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」こちらの記事もご参照方)では、外観が秋山真之(本木雅弘)正岡子規(香川照之)夏目漱石(小澤征悦)が一堂に会した「東京大学予備門」として撮影に使われたほか(下の写真のバルコニーのシーン、覚えています)、

140309_1_05

知事室第2部で使われたそうなのですが、こちらはよく判らず…

140309_1_06

それにしても立派知事室です
立派といえば、ホールも立派でした

140309_1_08 一方、玄関の真上の部屋はステキ

140309_1_07

 

アフタヌーン・ティーを楽しむのにうってつけの部屋とお見受けしました、、、、が、県庁なんだよな、ここ…

   

三重県庁舎の向かいに立っているのは、「鉄道局新橋工場」です。

140309_1_09

側面の四角四面の大きな窓と、前面のアーチ状の扉分度器のような窓との取り合わせがなかなかよろし

ちょっと不思議なのは、「鉄道局新橋工場」といいながら、ガイドブックでは「旧所在地:東京都品川区大井町 日本国有鉄道大井工場内となっていること。

建物の前に置かれていた説明板を転記しますと、

鉄道局新橋工場は東京新橋駅構内に鉄道の木工場として建てられた。この建物は、構造技術の面では鉄道寮新橋工場にならって造られたものであるが、鋳鉄柱に「東京鉄道局鋳造」の銘があり、国産鉄道建築の初期例といえる。
大正8年(1919)に大井工場に移築され第二旋盤職場として昭和41年(1966)まで使用された。

とあります。
なるほど、そういうことですか…

ちなみに、「鉄道新橋工場」明治村(4丁目)に移築されています。

140309_1_10

こちらの説明板には、

鉄道寮新橋工場は日本で初めて鉄道が走った新橋-横浜間の起点、新橋停車場に機関車修復所として建てられた。その後規模が拡張され、大正4年(1915)には大井町へ移転し、用品倉庫として昭和42年(1967)まで使用された。

だそうで鉄道新橋工場鉄道開業の年明治5年(1872)鉄道新橋工場明治22年(1889)に建てられて、共に大井工場に移築され、昭和41~42年(1966~67)まで使われていたというのですから、77~95年間も現役だったということ。旧・国鉄って、物持ちが良かったんですなぁ~

と、話を鉄道新橋工場に戻して、中に入りましょう。

中には御料車が展示されています。
まず、皇后用「5号御料車」(明治35年(1902)・新橋工場製)。

140309_1_12

えんじ色のソファと、金地の天井画(川端玉章「帰雁来燕図」)との組み合わせがゴージャスです。
ガイドブックによれば、

5号御料車は最初の皇后用御料車として製作された車輌である。全長16m余、総重量約22tの木製2軸ボギー車で、車内には帝室技芸員の橋本雅邦・川端玉章が描いた天井画、昭憲皇太后のご実家一条家の家紋の藤をあしらった布が椅子や腰張りに使用されているなど、華麗な内装がなされている。

だそうで、大正天皇のお后、貞明皇后(旧名:九条節子)はこの御料車を使われなかったということでしょうか?
もっとも、一条家の家紋:一条藤と九条家の家紋:九条藤とは微妙に異なりますが、説明文の「藤をあしらった」だけなら、どちらでもOKではあります。

御料車は、鉄道博物館(鉄博)で何度か拝見しましたが、鉄博では車両自体ガラス越しでしか見られないもので、二重のガラス越しになって、車内はよく見えないのですよ

140309_1_13

それに比べて、明治村の展示は見やすくて、大変に結構だと思います。
でも、車体を傷つけられないか、気を使うんだろうな… JR東海からの寄託品ですし…

さて、もう一両、御料車は、明治天皇用の「6号御料車」(明治43年(1910)10月・新橋工場製)です。

140309_1_11

特別企画展「御料車~知られざる美術品~」@鉄博図録によれば、明治天皇がこの御料車を使われた可能性があるのは、明治45年(1912)5月3日「演習天覧のための行幸」両国橋⇔四街道を往復された1度のみ

もっとも、

7号御料車完成後も、大正天皇が(6号御料車を)ご乗用として使用した。

そうです。なんだか一安心…

それはさておき、玉座ほかのソファの色にご注目

ただの金色にしか見えませんが、もう一度、特別企画展「御料車~知られざる美術品~」 図録によれば、

椅子の張地は、菊紋章と小葵紋に天皇のみに使われることが許されている黄櫨染という色になっている。

とな。芸が細かい
黄櫨染のことはこちらの記事をご参照くださいませ。

   

と、いうことで、ようやく「忘れた頃に年末の愛知旅行記を再開」シリーズ「明治村編」完結です

明治村には、少なくとももう一度出かけて、完全制覇せねばと思っています

つづき:2014/03/12 犬山で江戸時代にタイムスリップ(その1)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする