かなり中途半端だった「忘れた頃に年末の愛知旅行記を再開(その7)」のつづきです。
まず、「その7」で外観を紹介した「東松家住宅」(重要文化財)の内部。
通りに面した入口を入ると、すぐ右に「ミセ」があります。
東松家は「明治20年代後半までは油屋を生業とし、その後昭和の初めまで堀川貯蓄銀行を営んでいた」のだそうな。
堀川貯蓄銀行のことには、後ほどもう一度触れるとして、東松家住宅の左側1/3を、3階吹抜の「通り土間」が貫いています。
通り土間の右側に、「ミセ」のほか、家族の生活の場が連なっているんですが、
外光
が入って、まるでアーケード街のようです。
そして、一番奥にある台所も、
開放感たっぷりで、夏の炊事では熱気がこもらなくて快適そうです。
この通り土間と「ミセ」・座敷の配置は、秋田市の「旧金子家住宅」(記事はこちら)でも見られましたっけ…
ところで、東松家が営んだという堀川貯蓄銀行
、昭和3年(1928)9月に川崎貯蓄銀行
に買収されています。昭和金融恐慌の余波なのでしょうか?
それはともかく、堀川貯蓄銀行を吸収した川崎貯蓄銀行
はの系譜を覗く
とこんな具合です。
明治14年(1881)年に茨城で設立された東海貯蓄銀行(旧・東海銀行
とは無関係)が明治32年(1899)に改称(この時点で川崎財閥の資本
が入った、当初から川崎系だったのか不明
)
昭和11年(1936)9月、川崎第百銀行(同年11月、第百銀行
と改称)に吸収合併
昭和18(1943)年4月、第百銀行は三菱銀行
に吸収合併
1996年4月、三菱銀行は東京銀行
と合併して東京三菱銀行
に改称
2006年1月、東京三菱銀行はUFJ銀行
と合併して三菱東京UFJ銀行
に改称して現在に至る
と、まるでトーナメント戦のようです。
上に「(東海貯蓄銀行は)旧・東海銀行とは無関係」と書いたのですが、UFJ銀行は三和銀行
と東海銀行
が合併してできた銀行ですから、時を経て、三菱東京UFJ銀行
の下に東海貯蓄銀行
と東海銀行
がくっついたわけですな
ところで、川崎第百銀行は、昭和2年9月に第百銀行と合併した際に川崎銀行から改称した銀行なのですが、その川崎銀行本店(のごく一部
)が明治村5丁目に移築・保存されています。
ガイドブックから転載しますと、
と、ホントにごく一部が移築されたことが判ります。
もっとまともな移築・保存できなかったものかと思いますが、もしかすると、この建物(矢部又吉・設計)が昭和期に竣工したひよっこだからなのかも…
そういえば、川崎銀行千葉支店の建物は、千葉市美術館
・中央区役所の建物の1&2階に保存されていましたっけ
そして、旧・川崎銀行千葉支店は、さや堂ホールとして現役・活躍中の由。
まことに御同慶の限りであります
ところで、川崎銀行川崎支店ってのはあったのだろうか…
随分昔のこと、京成佐倉駅前にさくら銀行佐倉支店(現・三井住友銀行佐倉支店)があるのを目撃
して目が点
になりましたっけ…
かなぁ~り話が逸れたところで明治村2丁目に戻ります。
ちょっとそういう風には見えませんが、こちらも元・銀行です。
安田銀行会津支店です。
説明によれば、「当初は既存の土蔵造(どぞうづくり)の建物を借りて営業していたが、明治40年(1907)この建物が新店舗として落成した」のだそうで、銀行として建てられたものとはねぇ~
安田銀行会津支店の所在地は「会津若松市大町」だそうで、現在のみずほ銀行会津支店(会津若松市中央)とは別の場所(近所)にあったようです。
もっとも、昔の町割は、通りを挟む両側が同じ町名であるケースが多いですから、もしかすると同じ場所かもしれません。
さて、安田銀行会津支店の内部はこうなっていました。
「明治体験処 ハイカラ衣装館」として、記念撮影用に衣装
を貸し出してくれるサービス拠点になっていました。
それはさておき、外観と違って、内部は銀行っぽい
次は学校です。
こちらの「駅だ」と言われればそう思ってしまいそう
な洋風の建物は、「もとは大阪市北区大工町の堀川尋常小学校にあったが、昭和4年(1929)同校の校舎が新築されるに際し、南河内郡千早赤阪村の小学校に移築された」という「千早赤阪小学校講堂」で、1階が体操場、2階が講堂になっています。
上の写真で、2階の右側の部分が出っぱっているのがお判りかと思いますが、これは「天皇皇后両陛下のご真影と呼ばれる写真、教育勅語を写した勅語謄本が収められていた」奉安殿の部分だそうです。
残念ながら、「現在と創健時の建築法規が異なるため、千早赤阪小学校2階の公開は行っておりません」デス
「建築法規」の違いは、建物の移築にも影響を及ぼしていて、この千早赤阪小学校の場合、
明治村への移築に際し、建物の高さが木造建築の法定限度を超えるため、建物四隅の壁体の中に鉄骨を埋め込んで、補強した。
だそうな。
いろいろと大変です…
そういえば、Wikipediaに、
1987年に建築基準法が改正・施行されるまでは、準防火地域において木造3階建ての建築は禁止されていた。主要都市の市街地は殆どが準防火または防火地域のため、木造3階建ては郊外の防火無指定地域においてのみ僅かな棟数が建てられていた。
とあるとおり、かつて、まちなかで木造3階建てを見ることはほとんどありませんでした。
でも、「東松家住宅」は木造3階建てです。
説明によれば、
江戸時代にはいかに富裕でも武家以外のものが三階建ての建物を造ることは許されず、慶応3年(1867)に なってはじめて京都、東京でこの禁令が解かれ、以後順次全国で認められるようになった。しかし、大正8年に市街地建築物法により木造高層住宅が禁止されたので、3階建以上の木造住宅はわずか50年ほどの間しか造られなかった。
だそうで、やはり「東松家住宅」は貴重な建物なんですねぇ
もう1棟の学校は、
第四高等学校物理化学教室です。
こちらの記事で紹介した明治村4丁目の和風で質実剛健さが伝わる「第四高等学校武術道場『無声堂』」とはちがって、白塗りの下見板張りの壁面と大きな窓がアメリカンで軽やかです(屋根は瓦葺き
)。
中に入ると、廊下の天井が高い
というのも、階段教室があるからで、
試しに座席についてみました。
う~む、この眺め、学生の頃を思い出すなぁ~
ちなみに、第四高等学校物理化学教室は、
もとはH型の大規模な建物であったが、明治村では中央部分だけを移築・保存している。
だそうです。
この建物に入ると、二人のレリーフが飾られています。
その下に置かれた説明板によると、
明治村は 東京工業大学教授で建築家の谷口吉郎氏の発想に基づいて
名古屋鉄道株式会社社長の土川元夫氏の決意によって 誕生した。
永く、その功績を讃えるため 彫刻家菊池一雄氏の手になる 両氏の肖像を
共に机を並べた、この校舎に掲げる。
昭和57年4月
だそうな。
そうか、加賀藩の藩校明倫堂に端を発して現在の金沢大学へと繋がる第四高等学校OBお二人が明治村生みの親だったんですか。
それにしても粋な計らいだと思います。
ところで、「建築家の谷口吉郎氏」は、東京国立近代美術館や飛鳥資料館
のほか、東京国立博物館(東博)東洋館
などの設計を手がけられています。
ご子息の谷口吉生氏は、いまや美術館建築の第一人者(だと思う)で、東博法隆寺宝物館も氏の作品です。
そうそう、建て替えのため長らく「不在」だった(ホント、長かった…)京都国立博物館の平常展示館は、いよいよ今年9月13日に「平成知新館」として開館予定(設計:谷口吉生)のようです(下の写真は昨年のゴールデンウィークの時の「平成知新館」)。
明治村生みの親の実のご子息が「平成知新館」を設計するなんて、まさしく「温故知新」だなぁと思うのであります。
つづき:2014/03/09 忘れた頃に年末の愛知旅行記を再開(その9)