新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

犬山で江戸時代にタイムスリップ(その3)

2014-03-19 22:30:50 | 旅行記

「犬山で江戸時代にタイムスリップ(その2)」で、二つの「三井八郎右衛門邸」のことを書きました。

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如庵があったという「麻布今井町」と、上に載せた(江戸東京たてもの園に移築されている)「三井八郎右衛門邸」があった「麻布笄町」とは、全然違う場所でした

また、如庵の来歴について、

昭和12年(1937)から5年の歳月をかけ(麻布今井町の三井邸から)大磯の三井家別荘移築され、昭和26年(1951)に国宝に再指定されました。

と紹介しました。
この記事を書いたときは、漠然と、麻布今井町の三井邸と麻布笄町の三井邸とはどういう関係なのだろうかと思っていました。
だんだん気になりだして調べてみると、三井広報委員会サイトにこんな記述を見つけました

現在、「江戸東京たてもの園」に収蔵されている三井八郎右衞門邸は、源流をたどると北家第10代当主・三井高棟(たかみね)が東京市麻布区今井町(現・港区六本木2丁目)に構えた邸宅にさかのぼる。明治36年(1903)から約5年の月日をかけて竣工に至ったこの大邸宅は“今井町邸”と呼ばれ、大豪邸として名を馳せた。敷地面積は約1万3500坪におよび、周辺の役宅まで含めると1万6000坪を超える。邸内には能舞台や庭園、テニスコートなどが設けられ、後に国宝となる茶室「如庵」も移築された。

そして、

しかし、時代の栄華を極めた大邸宅も、第二次世界大戦の戦禍を免れることはできなかった。昭和20年(1945)5月、大空襲に見舞われた今井町邸は、土蔵の一部を残して焼け落ちてしまう疎開に間に合わなかった美術品や書類も、この時に大部分が失われてしまった。

戦後、GHQの占領施策によって三井財閥は解体を余儀なくされる。焼け落ちた今井町邸の再建に至ったのは昭和27年(1952)のことで、八郎右衞門邸は今井町から麻布笄町(現・港区西麻布3丁目)に移された

とあります
つまり、三井高棟さんが、如庵「5年の歳月をかけて」大磯の三井家別荘に移築(=疎開)しなければ、如庵今井町邸ともども戦災で失われていた可能性が極めて高いということ…

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如庵はこんなドラマチック(スリリング)な経歴をお持ちだったんですなぁ…

400年以上も前の建物が、現代に伝えられているというのは、必然ではないということを痛感いたしました。
また、古美術品を所有することの責任の重さというものも…。
単に、「好きとか「買えるだけの金を持っているだけではその資格がないのだろうなと思います。

コメント
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