『ドキュメント死刑囚』、12月に読了。篠田博之著。ちくま新書。2008年8月刊。
殺して何になる。平和の象徴どころか・・・。「・・・宮崎勤死刑囚に突然、刑が執行されたのだった。・・・大臣就任後、異常といってよいほどのペースで死刑を執行している鳩山邦夫法相の意向がなければ、こんなに早い執行はなかったはずだ。/・・・朝日新聞のコラムで「死に神」と皮肉られたことに怒り、・・・こう語ったという。「死刑囚にだって人権も人格もある」「(表現は)執行された人への侮辱でもある」/この人はいったい、自分がやっていることがわかっているのだろうか。死刑囚の人権や人格を究極に否定する行為が、死刑執行ではないか。/・・・こんな対症療法的なやり方が、本当に凶悪犯罪の防止につながるのだろうか」(pp.8-9)。
小林薫被告について、「・・・恐らく彼は、家庭環境が違っていたら、あのような犯罪者にはならないですんだ人間ではないかと思う」(p.97)。これは3人に共通。特に宮崎死刑囚は「乖離家庭」だった模様。宅間守死刑囚の家庭にも問題があったようである。家庭と、倒錯した3人の心の闇。
「「法で定められた〝控訴〟という手続きすら、一殺人犯の死刑判決を受けた身は非難の対象となり、してはいけない手続きなのか」/・・・弁護士宛ての手紙・・・文面には「なんで、あんな奴弁護するんや!」「死ね!」「金もうけやから弁護するんか!」・・・」(p.167)。無茶苦茶である。小林薫被告が「小学・中学と受けたいじめとなんら変わらない・・・」。
宅間守死刑囚の悲惨な事件で、「・・・宅間の側に自分を投影して事件を受けとめた人がいるのを知って、私が驚き、認識を新たにしたのだった。/・・・弁護士に聞くと、・・・3割ぐらいは彼に共感を寄せたものもあったのだという。・・・/世間を恨み、復讐のためにあの残虐な犯罪を犯した宅間守に、自分を投影してみた人が少なからず日本社会に存在するというこの事実は、深刻に受けとめねばならない事柄だった」(p.177)。
和歌山カレー事件の林眞須美被告(p.219)、「来年こそは、死刑執行のないことを願います」。安田好弘弁護士(p.223)。
家族殺害に加担させられてしまった、北九州監禁殺人事件の緒方純子被告(p.224)。「・・・彼女を処刑することなど何の意味もないことを、最高裁は理解してほしい。/・・・鳩山法相の話などを聞いていて私が苛立つのは、その言葉に死刑という人間の生き死の決定に自分が関わることへの重たさが感じられないからだ」(p.229)。スイッチを人に押させて平気でいられる神経が理解できない。