都知事選翌日のツルシカズヒコさんのブログ(http://www.kureyan.com/diary-kureyan/8022.html)。
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【http://www.kureyan.com/diary-kureyan/8022.html】
都知事選 2011-04-10
午後、コウとふたりで東大原小学校へ。
都知事選の投票をする。
石原でも東国原でも
ドクター中松でも渡辺美樹でもない候補者に投票した。
たぶん、コウもそうだと思う
その候補者に期待したのではなく、
あまりに候補者の面子が貧弱すぎて頭に来ているのである。
投票締め切りの夜8時直後に石原の当確の情報が流れ、
どうしようもない無力感に襲われる。
しかし、生きていかねばならぬ。
闘いだな〜、生きるって。
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20時ちょうどに当確速報。全くなすすべもない、といったところか。しかし、彼が4回も選ばれるのですから、滑稽な話です。
共同通信によると、何方かが「一方で4選実現の要因については、小説家としての人気や、果敢な実行力を備えているためだと指摘した」(http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp1-20110411-759523.html)そうです。御笑いです。 実行力の方向性! 非実在青少年など唱えられる作家センセの感性!!
石原慎太郎氏は、エネルギーを「「(福島原発と同じ量だ。日本の電気消費の形はおかしい。)必要ないものに使っている」と指摘」しつつ吠えた(http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp3-20110411-759622.html)そうだ。素晴らしい。正論、賛成。でっ、これまでの都知事としての3期を振り返ってみてどうなんでしょう。税金やその他のことについては、「必要ないものに使ったりしてない」ですよね? 都政に御自分の時間を無駄なくお使いになっていますよね?
これまでの3期を反面教師に、180度反対のことをやられればよい訳ですから、4期目の都政に期待しています。「東京に原発を」という発想から、反面教師として真逆に、原発を全廃する方向に転換されれば、喝さいを浴びることができるはずです。そういった方向にこそ、都民の皆さんが期待する石原都知事の「実行力」を発揮してほしいものです。五輪とか銀行とか教育とか、頓珍漢な(確信的)差別発言・行動なでに「実行力」を発揮されたりしないようにしてもらいたいものです。パンダ以下の働きとまで揶揄されたのですから。そういえば、祝日にはちゃんと実行されていますでしょうか?
それでは、いつも引用させていただいている澤藤統一郎氏の記事の最終回を引用。都民の民主主義感覚とは、都民の民度は? これは最善の選択たっだのでしょうか、それとも最悪の選択だったのか?
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【http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110410.html】
石原慎太郎「震災は天罰」発言
弁護士 澤藤統一郎
民主主義とは何だろう
(2011年4月10日)
先日学生時代の同級会があり、気のおけない昔の仲間と楽しいひとときを過ごした。その圧倒的多数が都立高の出身者。彼らが高校生の時代には、「都立の自由」が横溢していた。都立の出身ではない私などにはまぶしいような、自由のエピソードの数々に、羨望の念を禁じ得なかったものだ。
ところが今、事情は様変わりである。「都立の自由」は、教育行政によって根こそぎ奪われた。かつての自由の土壌は、管理主義の放射能に汚染されている。放射線の線源は「震災は天罰」と言ったあの知事。事態はその2期目からのことである。
2003年4月、この知事は308万票を得て再選された。その直後から、都の教育行政は暴走を始めた。都の教育委員は知事の「お友だち」で固められた。本来、「人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有する」(地教行法4条)者から選ばれるはずの委員が、およそ人格高潔とは言い難く、右翼的識見で凝り固まった人物で占められた。
同年6月、教育庁内に「卒業式・入学式対策本部」が設置され、その年の10月23日、悪名高い「10・23通達」発出にいたった。各校で工夫を凝らしたこれまでの個性的な卒業式は全面禁止となり、式の主役は生徒ではなく「日の丸・君が代」となった。以来、全校長が全教職員に、文書による「起立・斉唱」の職務命令を手交するという異常事態が続いている。
「日の丸・君が代」の浸透度は、学校の自由度のメルクマールである。文科省の調査では、1998年度入学式における都立校の「国歌斉唱実施率」は3.4%に過ぎない。もちろん、起立・斉唱の強制などはありえない。その以前、60~70年代の都立校出身者は、高校生活で「日の丸・君が代」のカケラと出会うこともなかったであろう。
今、「日の丸・君が代」実施率は100%。かつて行われていた、「憲法19条によって起立しない自由も保障されます」という、出席者への「内心の自由」についてのアナウンスも禁止された。日の丸の貼り方、参加者の椅子の並べ方までこまごまとした指示がなされる。そして、起立斉唱の職務命令違反者には、過酷な懲戒処分である。昔々の話ではない。どこかの独裁国の話しではない。日本の首都の公立校の現在進行の事態なのだ。
この異常事態は、知事の308万票獲得から始まっており、都民の意思によるものとの擬制が可能である。謂わば、民主主義がもたらした異常事態なのだ。民主主義は衆愚政治と紙一重である。ファシズムもナチズムも、熱狂的な大衆の支持によって成立した。天皇制の侵略戦争も国民の支持あればこその側面を否定しがたい。今、またナショナリズム鼓吹者を都民が支持し、この知事が教育現場で「日の丸・君が代」を強制している。放射線被害にも似た危険このうえない事態である。
民主主義が正常に作動しないとき、司法は「人権」侵害を救済する立場から、これに歯止めをかけなければならない。10・23通達関連の訴訟は18件に及ぶ。提訴者数の合計は延べ726名(都立校702名、小中校24名)である。
先陣を切った訴訟が、懲戒処分前に提訴した「予防訴訟」(原告数402名)である。2006年9月21日にみごとな一審全面勝訴の違憲判決(難波判決)となり、知事をはじめとする都庁内右翼の心胆を寒からしめた。「日の丸・君が代」強制を違憲・違法という根拠は、憲法19条(「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない」)、憲法20条(「信教の自由の保障」)、教育基本法10条(「行政による教育内容に対する不当な支配の禁止」)である。
しかし、この流れは10・23通達以前の事件である、「ピアノ伴奏強制拒否訴訟」最高裁判決(2007年2月27日)によって断ち切られた。君が代のピアノ伴奏強制を合憲としたこの最高裁(第3小法廷)判決は、オーソドックスな憲法論からは極めて評判が悪い。「ロースクールの学生がこんな答案を書けば、到底合格点をやれない」という憲法学者もいるほどの代物。ところが、その後の下級審判決は、ピアノ判決のコピペ同然の言い回しで、教員側の請求を棄却するようになった。今度は当方が切歯扼腕する事態。
長い暗闇を抜けて、本年3月10日、東京高等裁判所第2民事部が168名の懲戒処分を全部取り消すという勇気ある判決を言い渡した。震災前日のことであり、あの知事が4選出馬の正式表明に先立つプレゼントでもあった。
周知のとおり、現実の司法は行政に甘い。行政裁量の範囲を極端にまで寛く認める。行政に対しての批判に過度に臆病であるというべきであろう。しかし、東京都の「日の丸・君が代」強制は、その大甘の裁判所から見ても見過ごせない。少なくとも、良心的な裁判官は、これを断罪している。知事と教育委員会、その事務局である教育庁は猛省すべきである。
都は、敗訴判決を不服として、上告(受理申立)をした。10・通達関連の訴訟については、これで6件が最高裁に係属している。最高裁判決で確定した訴訟は、まだ一件もない。憲法訴訟として、そして教育訴訟として、その成り行きが注目される。
とは言え、「震災は天罰」と言った知事の乱暴さは、「日の丸・君が代」強制をして恥じない乱暴さと結びついている。人権感覚欠如のしからしむるところなのだ。このような人物を4期も知事に据え置いた都民の民意を理解しがたい。いったい、民主主義とは何なのだ。
【http://www.news-pj.net/comment/2011/sawafuji-20110411.html】
再び、民主主義とは何なのだろう
(2011年4月11日)
私は、1971年4月に弁護士となった。実務法律家としてちょうど40年の職業生活を送ったことになる。この間の私の幸運は、日本国憲法とともに過ごしたことである。人権・平和・民主主義を謳った実定憲法を武器に職業生活を送ることができたことは、なんという僥倖。
しかし、私の不運は日本国憲法の理念に忠実ならざる司法とともに過ごしたことにある。憲法に輝く基本的人権も、恒久平和も、民主主義も、法廷や判決では急に色褪せてしまうのだ。何という不幸。
裁判所が、毅然と 「日の丸・君が代」 強制を許さずとする明確な判決を言い渡すのなら、石原教育行政の出番はない。裁判所に、「歌や旗よりも子どもが大切」、「国家ではなく人権こそが根源的価値」という教科書の第1ページの理解があれば、そもそも行政が憲法を蹂躙する暴挙を犯すことはないのだ。
もうひとつ、右翼の知事に出番を提供したのは都民である。震災は天罰と言ってのけ、思想差別を敢行するこの右翼的人物に知事の座を与えたのは都民である。恐るべきは石原個人ではなく、敢えて石原に権力を与えた都民の意思であり、日本の民主主義の成熟度と言わねばならない。
それにしても石原4選である。東京都の人権と教育は、あと4年もの間危殆に瀕し続けねばならない。「人権や憲法に刃を突きつける民主主義とは、いったい何なのだ」と問い続けなければならない。問い続けつつも、他にこれと替わり得る制度がない以上、絶望することも、あきらめることも許されない。心ある人々とともに、東京都の反憲法状態を糾弾し続け、都民に訴え続ける以外にはない。
そのような決意を自分に言い聞かせて、しばし擱筆する。
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