遊びの中、子どもが大事な問いを出し、大人が「共に意味付け」をしてくれるのを待っている。前回の翻訳箇所で、エリクソンはそういうことも教えてくれていましたね。
今日は、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、幼児後期の部分の第4段落です。それでは翻訳します。
「悪い子という感じ」は、分別の段階のテーマに含むべきだ、という人がいるかもしれません。しかしながら、悪者は、その定義から言って、良心によって動かされることはありません。というのも、まさにこの、良心に動かされない、との理由のために、悪者は公然とさらし者にしなくてはならないからです。悪者をさらし者にしようとする人は、悪者を恥じ入らせて、証拠が挙がったことに自供を取ろうとします。その証拠が挙がった自供によって、悪者を法的に有罪にできるかもしれませんが、だからといって、その悪者にされた人が、本当に自分に責任があり、個人的にも「自分は悪かった」と感じるところまで持っていくことはとてもできません。本当に自分は悪いと感じるのは、逃げようと思っても逃げられない、自責の念から生じるものです。自責の念から逃げられないので、実際犯してましった悪事を空想する暇さえないのです。あるいは、内緒で悪事を働いていたとしても、人に知られてしまったかもしれないと思ったり、人に知られてしまったら、人から罰を受けるかもしれない、と思ったりしてしまうのです。事実、心の中の「僕(私)は悪い子なんだ」という逃げられない感じを子どもが遊びの中に表現することを契機に、筋立ての要素が初めて個人の生育歴の中に登場します。しかし、一人遊びのどこに、そんなやり取りがあるのか、と問う人がいるかもしれませんね。私どもが示している例は、非常に特殊な場から取ってきたものでして、連想を呼び起こしやすい点から、私どもが選んだおもちゃを使って、守りのある場で、子どもの想像力を調べるために仕組んだ一つの心理検査です。しかし、子どもは日常生活の中で、自然のおもちゃでも、人が作ったおもちゃでも、手に入るおもちゃの世界を使って、筋立ての要素を示すやり取りを必ずやるはずです。そのおもちゃの世界は、伝統的なものでも、その場限りのものでも、その子どもが自分の意図を表現することに手を貸してくれるのです。
これで、幼児後期の第4段落の翻訳が終了です。
「僕(私)は悪い子という感じ」が、日常生活の礼拝の,筋立ての要素が遊びの中に最初に登場する時のテーマになる、これも不思議なことではないですか。この場合、自責の念があるところが重大です。自分で自分を責めるのです。これも意識してそうするのではなく、無意識にそうすることが多く、より深刻です。その場合、この後でエリクソンが教えてくれますが、自分で無い自分を演じているのに、そのことにさえ気付かないことが始まります。だからこそ、子どもは遊びの中で、ホントの自分、ありのままの自分が生きていけるように、遊びの中でやり直しをしているのだろうと考えられます。
今日はここまで。