日本の裁判所の厳罰主義は、多くの日本人がエリクソンの言う「恥」を深め、強めていることを反映していると言えるでしょう、と言いました。これに対しては、反論する方もおられるのではないでしょうか? 「犯罪被害者の気持ちを考えて見なさい」「自分が犯罪被害者ではないから、そんなのんきなことが言えるのだ」などなど。しかし、それは日本の現状しか知らないから、そのような反論が出やすいのだろうと思います。たとえば、ノルウェーの司法制度、なかんずく、刑務所政策を知ると、いいでしょう。「独房」がまるでホテルの個室のようであるし、殺人で服役中の人でも、刑務所の外に外泊できる。そんな政策を哲学的・実践的に支えているオスロ大学教授のニルス・クリスティ先生の本やインタヴューは、私どもの視点を広げるのに、役立つことでしょう。NHKの番組「未来への提言『犯罪学者 ニルス・クリスティ ~囚人にやさしい国からの報告~』」をオンデマンドで視聴するか、龍谷大学矯正・保護センターでの基調講演(http://www.ustream.tv/recorded/17744291)をインターネットで視聴してください。あるいは、翻訳『人が人を裁くとき―裁判員のための修復的司法入門』を読んでいただけたらと、思います。
さて、それでは、Toys and ReasonsのRitualization in Everyday Lifeから、幼児前期の第5段落の翻訳です。
一生を通じて、善と悪、浄と不浄の境界線を日常的に確立することは、大人の世界における裁判所の儀式において頂点に達するのですが、すべての儀式に当てはまる判断基準を満たすことにもなります。すなわち、意義深い秩序、細部と全体の流れに対する行き届いた儀礼的な配慮、参加者それぞれの現実と行為そのものの現実とを超越した象徴的な意味、関係者すべて(告白する被告人も含む[ことを願う])をお互いに元気にさせる働き、絶対的に欠くことができないという感じが、儀式であることの判断基準です。というのも、分別の要素もまた、人間が系統発生上適応するために、本来備わっている側面であったから、ということばかりではなく、人間が個体発生的に発達するために、ひとりびとりに本来備わっている側面でもあるからなのです。
今回も短いですが、第5段落の翻訳が完了です。
文章は短いのですが、意識の上では儀式から離れていると感じている多くの日本人にとって、分かりにくい個所ではないでしょうか? 特に、儀式の判断基準として記されている具体的部分などは、どうでしょうか?
ここで、より具体的に実感を持って理解していただくために、具体例を日本の日常生活からひとつ、考えてみたいと思います。小学校などで行われている、子どもが職員室に入る時の「儀式」です。
職員室に入る時の「儀式」。自分の教室に入る時のように走って入ってはいけません。ドアの前で立ち止まって、呼吸を整えます。ドアに手をかけてゆっくりとドアを開けます。目の前に職員室の全貌が現れます。でもジロジロと見てはいけません。「失礼します」と言いながら、頭を下げます。そして、「○年○組の○○です」と言って、自分の所属と名前をはっきりとさせます。それから、「○○先生に、○○です」と要件をはっきり伝えます。そうすると、おもむろに職員室にいる誰かが応答して、その先生が職員室にいれば、晴れて職員室に入室の運びとなりなす。
ここには、意義深いかはともかくとして、歴然とした秩序があります。しかも、セリフが細部まで決まっている上に、セリフ全体の順序にも一定の流れがあり、セリフの言い方には独特のトーンがあります。子どもが優等生か問題児かに関係なく、同じセリフを言わなくてはなりませんし、「失礼します」等のセリフやこのひとつひとつの行為そのものには、「聖域」としての職員室や学校の秩序を順守するというような象徴的な意味があると言えるでしょう。この儀式には、その関係者すべてを元気にする力はないと考えられますが、それでも、職員室に入る時には「絶対欠かすことができない、という感じ」は、今も残っています。
このように具体的に考えるときに、分別と儀式の何たるかが分かってくるのだろうと思います。
さて、それでは、Toys and ReasonsのRitualization in Everyday Lifeから、幼児前期の第5段落の翻訳です。
一生を通じて、善と悪、浄と不浄の境界線を日常的に確立することは、大人の世界における裁判所の儀式において頂点に達するのですが、すべての儀式に当てはまる判断基準を満たすことにもなります。すなわち、意義深い秩序、細部と全体の流れに対する行き届いた儀礼的な配慮、参加者それぞれの現実と行為そのものの現実とを超越した象徴的な意味、関係者すべて(告白する被告人も含む[ことを願う])をお互いに元気にさせる働き、絶対的に欠くことができないという感じが、儀式であることの判断基準です。というのも、分別の要素もまた、人間が系統発生上適応するために、本来備わっている側面であったから、ということばかりではなく、人間が個体発生的に発達するために、ひとりびとりに本来備わっている側面でもあるからなのです。
今回も短いですが、第5段落の翻訳が完了です。
文章は短いのですが、意識の上では儀式から離れていると感じている多くの日本人にとって、分かりにくい個所ではないでしょうか? 特に、儀式の判断基準として記されている具体的部分などは、どうでしょうか?
ここで、より具体的に実感を持って理解していただくために、具体例を日本の日常生活からひとつ、考えてみたいと思います。小学校などで行われている、子どもが職員室に入る時の「儀式」です。
職員室に入る時の「儀式」。自分の教室に入る時のように走って入ってはいけません。ドアの前で立ち止まって、呼吸を整えます。ドアに手をかけてゆっくりとドアを開けます。目の前に職員室の全貌が現れます。でもジロジロと見てはいけません。「失礼します」と言いながら、頭を下げます。そして、「○年○組の○○です」と言って、自分の所属と名前をはっきりとさせます。それから、「○○先生に、○○です」と要件をはっきり伝えます。そうすると、おもむろに職員室にいる誰かが応答して、その先生が職員室にいれば、晴れて職員室に入室の運びとなりなす。
ここには、意義深いかはともかくとして、歴然とした秩序があります。しかも、セリフが細部まで決まっている上に、セリフ全体の順序にも一定の流れがあり、セリフの言い方には独特のトーンがあります。子どもが優等生か問題児かに関係なく、同じセリフを言わなくてはなりませんし、「失礼します」等のセリフやこのひとつひとつの行為そのものには、「聖域」としての職員室や学校の秩序を順守するというような象徴的な意味があると言えるでしょう。この儀式には、その関係者すべてを元気にする力はないと考えられますが、それでも、職員室に入る時には「絶対欠かすことができない、という感じ」は、今も残っています。
このように具体的に考えるときに、分別と儀式の何たるかが分かってくるのだろうと思います。