エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

一番大事にされた経験~「秋葉原事件」と赤塚不二夫

2013-04-14 03:40:45 | エリクソンの発達臨床心理
 前回は、日本人の体制順応主義(conformism コンフォーミズム)が、遊ぶ時期である幼児後期の病理であることに触れました。自分の考えを率直に話し、自分の考えに基づいて行動する、という、民主主義社会では至極当然の思考行動様式が、日本では「悪い子という感じ」に結びつき、色眼鏡で見られがちであることが、はっきりしましたね。
 今回は、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、幼児後期の部分の第10段落です。幼児後期の最後の段落です。それでは翻訳します。





 ところが、筋立てを作る儀式化の要素は、人間のまさに芝居をする能力によって、人間の生活の中に登場するのですが、独特でどこにでもある形の儀式主義、すなわち、「他人のなりすまし」も人間の中に確立します。「他人のなりすまし」とは、現実と歴史の舞台で、生気のない生真面目さをもって、自分自身にとっても他の人々にとっても非常に危険な問題で、役割を演じます。この“ある「立場」のなりすまし”によって、それだけ才能もあるし人を楽しませる意味で、意識して芝居をする人のことを言うのではありません。それならば、舞台の中央で、あるいは、端で、時には場末で、名もなく、人間が自分自身を経験する上で必要なことは明らかです。赤ちゃんの頃、私どもが見てきたとおり、芽生えてきた<私>が、他者から集中的に世話をされる中で、このように一番大事にされることを経験します。この<私>が、子どもの頃の遊びの中で新しくされて、青年期のアイデンティティを我が物にしようとする闘いの中で他者と共有され、晩年になってからは自分自身のあらゆる立場によって肯定されます。自我理想は、他罰的な超自我とは異なり、自ら選択した自主性を良しと認めますし、理想的な簒奪やユートピアを体現するように思われる人々で、しかも、その代りに、他者の自主性も良しと認める力のある人々を(両親から政治家まで)理想化します。ところが、「自分は偉い」と思うことは、いわゆる「偉い人」を崇拝することと合わせて、どこまでも人のものを奪い取ることに道を開きます。これによって説明されるのは、人が信ずべき本物を追い求めて自分の不足を埋め合わせようとする努力は、自分の自発性と他者からの恵み、他者との競争と自己犠牲を真に統合することを必ず意味する、ということです。しかしながら、「『信ずべき本物』なんかないんだよ」と言われ続けると、子どもたちは(青年たちも)恥知らずの悪役を強迫的に引き受けざるを得ないのです。恥知らずの悪役の方が、名前のない役どころやひどくお定まりな役回りを引き受けるよりもましなのです。





 これで、幼児後期の部分の翻訳は終了です。いかがでしたでしょうか?
 ここで大事なことは「信ずべき本物(authenticity)」です。今日はそのことを考えてみたいと思います。
 赤ちゃんの時に芽生えた<私>が、幼児後期以降に演じる役割が、「信ずべき本物」ではなく、ありきたりのものである時、エリクソンが言う「恥知らずの悪役」を演じざるを得なくなる。これは衝撃的なことではないですか?すぐに思い出すのが、「秋葉原事件」や「酒鬼薔薇事件」でしょう。この事件は、当時様々な議論を巻き起こしました。しかし、人間関係が希薄になった日本の社会への警告と受け取った人はいましたが、今日エリクソンが教えてくれたように、「年中か年長の子どものころから、「『信ずべき本物』なんかないんだよ」と言われ続けているからですよ」と教えてくれた人を、私は知りません。
 この点で参考になるのは、唐突に思われるかもしれませんが、赤塚不二夫さんです。単なる「アル中」(差別用語だったら訂正します)と考える人もきっとおられると思います。なぜ参考になるのでしょうか? それは、赤塚不二夫さんが「本物の漫画家」になりたくて、手塚治虫さんのところに教えを乞いに行った時の話です。そのとき、手塚治虫さんは赤塚不二夫さんに対して「一流の映画を観て、一流の音楽を聴いて、一流の舞台を見なさい」と教えてくれたということです。それで赤塚さんはレコード屋さんに行って、「一流の音楽ってどういうものですか?」と訊いたら、「それなら、クラシックでしょう」ということになって、モーツアルトか何かを勧められたそうです。その後、赤塚不二夫さんはその教えを忠実に守ったのでした。
 この手塚治虫さんの教え「一流の映画を観て、一流の音楽を聴いて、一流の舞台を見なさい」。これこそ、「信ずべき本物」でしょう。小さいころからそういうものに触れる、それが大事です。
 しかしそれだけではありません。子どもにとって、もう一つ大事な「信ずべき本物」とは、温もりのある人間関係でしょう。その最初が、今日のところにも出てきた、「他者から集中的に世話をされる」関係でしょう。幼児前期以降は、他のことよりも子どもの気持ちに寄り添うことを大事にしてくれる、寛容な保育士や教員との関係がそれに続きます。これが何よりも子ともにとって「信ずべき本物」になることでしょう。
 その「信ずべき本物」の関係にある親、保育士、教員などと、「一流のもの」を「共に見る」こと、それが何よりも大事なことを、今日エリクソンは教えてくれている、と私は考えます。
 本日ここまで。
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