前回は、エディプスコンプレックスが登場しました。
今日のところは、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、幼児後期の部分の第8段落と第9段落です。それでは翻訳です。
遊ぶ時期を特色付ける精神病理、遊ぶ時期から生じる神経症はどのようなものでしょうか? 自分の頭で考えることを抑圧し、自ら進んで行動を起こすのは止めておこうとするのは、まさに、「僕(私)は悪い子という感じ」が強すぎるからなのです。この病が、ハムレットの中に示されているのは、偶然ではありません。ハムレットは、言葉のあらゆる意味で“役者”の悲劇です。ハムレットは父親が殺され、父親の王位と母を奪われたことに対して復讐したいという気持ちを抑えて(エディプス期の未解決な葛藤によって抑えて)、“劇中劇、の中で狂った振りをして恥を晒していますが、劇中劇の中で劇中劇によって、自分の破滅の青写真を示しています。しかし、この破滅は、いっそう悪いことからの救いにもなっていると思われます。つまり、“腐った”冨と権力のただ中でいつも退屈している、あの退屈さからの救いであり、また、「男からも女からも」快楽を得る、あの不快感と、そうできない、あの無力感からの救いです。この喜びを得ても不快で、実際は喜びを得られないことが、筋立てを作る要素を抑え込み、悲劇を否定することを特色付けるものなのです。
大人になって、筋立てを作る要素を厳かに表現する特別な仕掛けは“舞台”です。特にこの舞台において、人間の葛藤が投影されるのは、枠が決められている時空の中です。この枠付けされた時空とは、時を超えて普遍的な感情のカタルシスを役者と観客とが体験できるくらいの、代表的な形式と最高に濃縮されたリアリティがあるものなのです。本物の演劇とは、上手に上演されれば、私どもを骨の髄まで揺さぶることができます。私どもは、演劇が「単なるお芝居」であるとは分かっていても、時空が劇的に濃縮されているので、耐えられないくらい個人的なのに、不思議なくらい共有されている、何か強烈なリアリティを経験することになります。
これで幼児後期の部分の第8段落と第9段落の翻訳は完了です。
この部分も、日本の現状を考える時、示唆に富んでいると考えます。つまり、日本人は一般的に言って、「長いものには巻かれろ」「泣く子と地頭には勝てない」と言われるように、体制順応主義(conformism コンフォーミズム)が支配的です。換言すれば、「世間が神様」ですが、「バレなければいい」という感じです。自分の考えを殺して、自分の利益に役立つ限り、組織や体制に従順であるかのように装いつつ、「外では悪さをする」こともある姿勢、と言い換えてもいいでしょう。そういう心的態度が日本人には一般的ではないでしょうか?
そのようにして、退屈だけれども、安定した生活を手に入れている場合が多いと言えます。しかし、社会情勢が厳しくなった昨今、自分の考えを押し殺し、目立った自主的行動などしていないのに、生活の安定も社会的な地位(「冨と権力」)もなかなか得られないケースも増えています。
今日エリクソンが教えていることのひとつは、自分の考えを抑え込んで、自分の考えに従って行動できないのは、「自分は悪い子という感じ」が強すぎることから生じている、ということでしょう。実際どうでしょうか? 自分の考えを押し殺した生き方は、自分の考えを出すことは「悪い」、「目立ってはいけない」という感じに基づいていないでしょうか? そんなことをしても、「世間から非難されるだけだ」、「そんなことをしたら、結局は損だ」などなど…。しかし、それでは、「喜びが得られない」し、儀式化に従って、自分も近くの人も育つことができない生き方なのです。
今日はここまで。
今日のところは、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、幼児後期の部分の第8段落と第9段落です。それでは翻訳です。
遊ぶ時期を特色付ける精神病理、遊ぶ時期から生じる神経症はどのようなものでしょうか? 自分の頭で考えることを抑圧し、自ら進んで行動を起こすのは止めておこうとするのは、まさに、「僕(私)は悪い子という感じ」が強すぎるからなのです。この病が、ハムレットの中に示されているのは、偶然ではありません。ハムレットは、言葉のあらゆる意味で“役者”の悲劇です。ハムレットは父親が殺され、父親の王位と母を奪われたことに対して復讐したいという気持ちを抑えて(エディプス期の未解決な葛藤によって抑えて)、“劇中劇、の中で狂った振りをして恥を晒していますが、劇中劇の中で劇中劇によって、自分の破滅の青写真を示しています。しかし、この破滅は、いっそう悪いことからの救いにもなっていると思われます。つまり、“腐った”冨と権力のただ中でいつも退屈している、あの退屈さからの救いであり、また、「男からも女からも」快楽を得る、あの不快感と、そうできない、あの無力感からの救いです。この喜びを得ても不快で、実際は喜びを得られないことが、筋立てを作る要素を抑え込み、悲劇を否定することを特色付けるものなのです。
大人になって、筋立てを作る要素を厳かに表現する特別な仕掛けは“舞台”です。特にこの舞台において、人間の葛藤が投影されるのは、枠が決められている時空の中です。この枠付けされた時空とは、時を超えて普遍的な感情のカタルシスを役者と観客とが体験できるくらいの、代表的な形式と最高に濃縮されたリアリティがあるものなのです。本物の演劇とは、上手に上演されれば、私どもを骨の髄まで揺さぶることができます。私どもは、演劇が「単なるお芝居」であるとは分かっていても、時空が劇的に濃縮されているので、耐えられないくらい個人的なのに、不思議なくらい共有されている、何か強烈なリアリティを経験することになります。
これで幼児後期の部分の第8段落と第9段落の翻訳は完了です。
この部分も、日本の現状を考える時、示唆に富んでいると考えます。つまり、日本人は一般的に言って、「長いものには巻かれろ」「泣く子と地頭には勝てない」と言われるように、体制順応主義(conformism コンフォーミズム)が支配的です。換言すれば、「世間が神様」ですが、「バレなければいい」という感じです。自分の考えを殺して、自分の利益に役立つ限り、組織や体制に従順であるかのように装いつつ、「外では悪さをする」こともある姿勢、と言い換えてもいいでしょう。そういう心的態度が日本人には一般的ではないでしょうか?
そのようにして、退屈だけれども、安定した生活を手に入れている場合が多いと言えます。しかし、社会情勢が厳しくなった昨今、自分の考えを押し殺し、目立った自主的行動などしていないのに、生活の安定も社会的な地位(「冨と権力」)もなかなか得られないケースも増えています。
今日エリクソンが教えていることのひとつは、自分の考えを抑え込んで、自分の考えに従って行動できないのは、「自分は悪い子という感じ」が強すぎることから生じている、ということでしょう。実際どうでしょうか? 自分の考えを押し殺した生き方は、自分の考えを出すことは「悪い」、「目立ってはいけない」という感じに基づいていないでしょうか? そんなことをしても、「世間から非難されるだけだ」、「そんなことをしたら、結局は損だ」などなど…。しかし、それでは、「喜びが得られない」し、儀式化に従って、自分も近くの人も育つことができない生き方なのです。
今日はここまで。