エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

自分が分裂する始まり、あらゆる心の病と戦争のはじめ

2013-04-02 03:29:34 | エリクソンの発達臨床心理

 「悪い良心」は、子どもに対して、心の狭い裁判官のように、日々「ダメ」を連発して、厳しく関わると、子どもの心に芽生えることを、エリクソンは教えてくれていました。しかし、本来の「是認と否認の儀式化」は、寛容に大らかに関わることを予定しているのです。実際大人がそうするときに、子どもは自律性を身に着けていきます。

 今日は幼児前期の第3段落目(Toys and Reasons, p94の下から8行目から)の翻訳です。





 発達の礼拝の2番目の要素が、最初の赤ちゃんの時の発達段階と違うのは、正しい選択をするはずの、かつてない自由な意志があるはずだ、という前提を強調する点に主としてあります。最初の赤ちゃんの時の発達の舞台での礼拝では、何かまずいことを避けることは、両親の責任でした。しかし、この第2の舞台では、子ども自身が「自分を見張る」ように躾けられます。この目標のために、両親と他の年長者達は、自分らの子どもを、「あなた(と自分たち大人達)が気を付けないと、あんな子になっちゃうよ」という時の「あんな子」(あるいは、その子ども自身のメンツ)と比べることになります。このようにして、子どもは、自分について2つの対立するイメージを作り出すのです。ここのところが「否定的なアイデンティティ」の生育歴上の源です。そして、この「否定的なアイデンティティ」こそが、「人間を上下2つに分けるウソ」を支えるイメージの本質です。なぜなら、「否定的なアイデンティティ」は、人が実際そうであるとは思えないすべて、あるいは、実際そう見えるとは思えないすべて、しかも、自分はそうなるかもしれないと感じている存在を具体的に示しているからです。それに実際、俗っぽい言葉には、野獣や低級な人種を示す露骨なイメージや呼び名があり、自分自身の仲間に受け容れてもらいたければ、決して真似をしてはならない存在を示しています。もちろん、その恐ろしい特性の背後には、両親自身がそうなりたいとかつて誘惑され、だからこそ、自分の子どももそうなるのではないかと二重に心配するイメージが、隠れていることが多いです。それで、そのイメージは、その子どもがそうならないように、心得ておかなくてはならない潜在的な特性なのです。あの、自分に対する疑いと表には出てこない恥が、「あぁはなりなくない」と、自分を排除する必要性と結びつく時、人の心の中に、避けがたく抑圧された激しい怒りが生まれます。この避けがたく抑圧された激しい怒りによって、結局、人間は、自分のことを責めたてる上に立つ者に対して反抗したり、他者を正義感に駆られて非難したりすることになります。私がこのことを暗く描くのは、ここのところに、自分が分裂する生育歴上の始まりがあるばかりではなく、人類が分裂する生育歴上の源もあるからなのです。自分に対する耐え難い偏見こそが、多くの人が強迫性障害やうつ病になる土台にあるのです。他方、自分と異なる人々に対する不合理な偏見を持ち、近代兵器で武装することは、お互いに、ウソに基づいて仮想された敵を滅ぼしあうことに至かもしれません。≪本物の一つの人類≫になるための瀬戸際に、私どもは立っているのだろうと思います。これらのことすべては、しかしながら、言葉やその響きが道徳的な雰囲気を分かち合うことに本当に呼応しているのか(しかも、その道徳的雰囲気は、その子どもが理解でき、経験できなくてはならない)を識別する、道徳的な心の眼を生み出す、新たな≪日常生活の礼拝≫に日々関わることが、いかに必要なことなのかということを、強く訴えています。






 これで第3段落の翻訳は終了です。最後の一文が長く、しかも、重要なことが分かるので、翻訳し辛かったです。
 非常に感性の鋭い感じがとても大事なことが、最後の文章からわかります。なぜなら、言葉とその響きに、道徳的な雰囲気を共有する感じがあり、しかも、子どもたちにとって、分かりやすく経験しやすいものでもあり、さらには、それを識別する鋭い心の眼を育むような礼拝が望まれているからです。本当にそういうものを、日々礼拝を子どもたちに提供できるように、人間の心と自分の心をよくよく観察し、エリクソンからも学び続け、自分自身を成長させたいと思います。

 本日はこれまで。


コメント
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