前回は、教育の目的を確認し、学校が形式主義に陥った時の、重大な危険な働きについて話題にしました。教員の人々には耳の痛い話しだったかもしれませんし、反発を感じた方もたくさんおられると思います。しかし、エリクソンから学ぶ発達臨床心理の立場からは、前回指摘した視点もある、とご理解いただけたら、幸いです。
今日からは、とうとう青年期です、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、青年期の部分の第1段落です。それではタイトルを含めて、翻訳します。
青年期と理想
自分と真(まこと)
子どもの時期の終わりに、自分自身で描き始めた仕事の役割は、条件に恵まれれば、あらゆる役割の中で最も心強い役割です。なぜなら、その仕事の役割は、技術的に私どもを価値ある存在であると認めてくれるからばかりではなく、目に見える働きにおいても、私どもが自分自身を価値ある存在であると認めることも許してくれるからなのです。しかし、思春期の動揺、子どもを卒業しなくてはならない必然性、それから、現代の混乱は、束になって、様々な葛藤を含んだ自分に対するイメージを作り出します。それはちょうど私どもが自分自身を働く者として思い描くのみならず、結婚の当事者、親、市民としても自分を思い描く年頃ですし、また、私どもは、技術を完成するためや役割を効率化するために、自己犠牲をしていると感じるかもしれない年頃なのです。私が何冊かの本で詳しく述べたことを手短に申し上げれば、アイデンティティ形成の過程は、若者たちが、子どもの時期が終わる年頃に、自分自身にとって大事になったことと、若者たちが、自分にとって大事になった人々にとって大事と思われることとのやり取り次第なのです。その若者が、自分の心の中で遊んでいる子どもとの関わりを保つために、退行しがちなのも不思議ではありません。あるいは、その若者が、時間を稼ぐために、「落ちこぼれ」がちなのも不思議ではありません。さらに現に、全体に方向づけのあるビジョンを掴みがちなのも不思議ではありません。この全体に方向づけのあるビジョンとは、ひどく単純化されすぎれば強引で、多くの場合は容赦のない、生き方に対するいくつかの答えを組み合わせて、ヌミノース、分別、筋立て、それから、きちんとやる儀式化の要素を結びつける展望を示し、しかも、あらゆる自信喪失は「自分とは異なる人たち」に投影します。
これで青年期の部分の第1段落は終了です。この部分も極めてリアルで実に重要です。
ここでは、青年期の三つのあり方を考えたいと思います。
第一に、退行している場合です。河合隼雄が「さなぎの時期」と言った時の、「さなぎ」の状態でしょう。エリクソンは、この時に若者は、「自分の心の中で遊んでいる子どもとの関わりを保つために、退行し」ている、と言います。不思議な表現とは思いませんか? しかし、エリクソンが遊びについて何と言っていたかを思い出していただきたいと思います。そう幼児後期の部分で言っていましたね。「遊ぶ時期になると、その子どもは小さな現実を手に入れて、その中でおもちゃを使って、昔の経験を生きなおしたり、修正したり、作り直したりしますし、かつまた、未来の役割や出来事を自発的に繰り返し繰り返し先取りします」。つまり、遊びには、折り合いがつかないでいた過去の出来事に折り合いをつける意味付けをもたらし、未来を先取りしてみる働きがありましたね。心の中で遊んでいる子どもも、この遊びの時期の子どもと同じ働きをしてくれるのです。ですから、外からは「退行」に見えることにも、非常に大事な意味があります。
第二に、時間稼ぎの場合です。これについては、ここではあまり語られません。いわゆる、モラトリアムのことですが、エリクソンが語る時に話を譲りましょう。
第三に、自信喪失を激しく投影する場合です。これもここではあまり詳しく語られませんが、少し敷衍して述べておきたいと思います。この人は、たとえ早合点であっても、自分の生き方に対する一定の方向性のあるビジョンを掴みます。しかし、そのビジョンは、強引で容赦のない生き方を示し、他者に対して激しい投影を引き起こすので、「自分とは異なる人(々)」に対して、非常に他罰的になります。人生の修羅場を演出し、家族や職場でひどい罠をしかけるのは、この類の人と言って間違いありません。
今日はここまで。
今日からは、とうとう青年期です、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、青年期の部分の第1段落です。それではタイトルを含めて、翻訳します。
青年期と理想
自分と真(まこと)
子どもの時期の終わりに、自分自身で描き始めた仕事の役割は、条件に恵まれれば、あらゆる役割の中で最も心強い役割です。なぜなら、その仕事の役割は、技術的に私どもを価値ある存在であると認めてくれるからばかりではなく、目に見える働きにおいても、私どもが自分自身を価値ある存在であると認めることも許してくれるからなのです。しかし、思春期の動揺、子どもを卒業しなくてはならない必然性、それから、現代の混乱は、束になって、様々な葛藤を含んだ自分に対するイメージを作り出します。それはちょうど私どもが自分自身を働く者として思い描くのみならず、結婚の当事者、親、市民としても自分を思い描く年頃ですし、また、私どもは、技術を完成するためや役割を効率化するために、自己犠牲をしていると感じるかもしれない年頃なのです。私が何冊かの本で詳しく述べたことを手短に申し上げれば、アイデンティティ形成の過程は、若者たちが、子どもの時期が終わる年頃に、自分自身にとって大事になったことと、若者たちが、自分にとって大事になった人々にとって大事と思われることとのやり取り次第なのです。その若者が、自分の心の中で遊んでいる子どもとの関わりを保つために、退行しがちなのも不思議ではありません。あるいは、その若者が、時間を稼ぐために、「落ちこぼれ」がちなのも不思議ではありません。さらに現に、全体に方向づけのあるビジョンを掴みがちなのも不思議ではありません。この全体に方向づけのあるビジョンとは、ひどく単純化されすぎれば強引で、多くの場合は容赦のない、生き方に対するいくつかの答えを組み合わせて、ヌミノース、分別、筋立て、それから、きちんとやる儀式化の要素を結びつける展望を示し、しかも、あらゆる自信喪失は「自分とは異なる人たち」に投影します。
これで青年期の部分の第1段落は終了です。この部分も極めてリアルで実に重要です。
ここでは、青年期の三つのあり方を考えたいと思います。
第一に、退行している場合です。河合隼雄が「さなぎの時期」と言った時の、「さなぎ」の状態でしょう。エリクソンは、この時に若者は、「自分の心の中で遊んでいる子どもとの関わりを保つために、退行し」ている、と言います。不思議な表現とは思いませんか? しかし、エリクソンが遊びについて何と言っていたかを思い出していただきたいと思います。そう幼児後期の部分で言っていましたね。「遊ぶ時期になると、その子どもは小さな現実を手に入れて、その中でおもちゃを使って、昔の経験を生きなおしたり、修正したり、作り直したりしますし、かつまた、未来の役割や出来事を自発的に繰り返し繰り返し先取りします」。つまり、遊びには、折り合いがつかないでいた過去の出来事に折り合いをつける意味付けをもたらし、未来を先取りしてみる働きがありましたね。心の中で遊んでいる子どもも、この遊びの時期の子どもと同じ働きをしてくれるのです。ですから、外からは「退行」に見えることにも、非常に大事な意味があります。
第二に、時間稼ぎの場合です。これについては、ここではあまり語られません。いわゆる、モラトリアムのことですが、エリクソンが語る時に話を譲りましょう。
第三に、自信喪失を激しく投影する場合です。これもここではあまり詳しく語られませんが、少し敷衍して述べておきたいと思います。この人は、たとえ早合点であっても、自分の生き方に対する一定の方向性のあるビジョンを掴みます。しかし、そのビジョンは、強引で容赦のない生き方を示し、他者に対して激しい投影を引き起こすので、「自分とは異なる人(々)」に対して、非常に他罰的になります。人生の修羅場を演出し、家族や職場でひどい罠をしかけるのは、この類の人と言って間違いありません。
今日はここまで。