前回は、学校が、経済活動の負の側面を是認することや、現代社会の根源的問題である、全体を見る目を失いがちになることに伴う危機などが、話題になりました。
今日は、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、学童期の部分の第3段落と第4段落です。早くも最後の段落です。それでは翻訳します。
とにかく、学童期には、人間の行為のきちんとやる面の儀式化が導入されます。この儀式化に感覚的に説得力があるのは、この儀式化が、理解することができるし、参加することもできるいっそう高度な秩序になっているからです。ヌミノースと分別と筋立てする要素に、この「きちんとやる」側面が加わると、どんな本物の儀式であっても、私どもがその重大さを理解したのも同然でしょう。
学童期の仲間はずれにされた感じは、「自分は劣っているという感じ」です。それは、学校で教わる基礎技術に必要な身体活動や教科科目で、課題についていけない、という感じです。他方、私どもが危険も感じるのは、一般化のしすぎであり、完全主義であり、形ばかりの行事です。私どもはこの発達段階でも、儀式主義の傾向を名付けなくてはなりませんが、ここでは、「『仕事』が人を作り、技術が真理を生み出す」という振りをする儀式主義的傾向です。多分「形式主義」という言葉がこれに当てはまるでしょう。この名前はともかく、この言葉が示しているのは、人間が「きちんとやること」と「その理屈」を求める努力をしているうちに、人間はそのとりこになってしまう、という事実です。とりこになってしまうことによって、ひとりびとりの人は、マルクスが「仕事バカ」と呼んだ存在になってしまいます。「仕事バカ」とは、自分が技術を向上することに心奪われて、技術を向上することにどんな意味があるのか、もしかしたら危険な働きにつながらないか、という人間としての文脈を忘れたり、否定したりしてしまう人なのです。
これで学童期の部分の翻訳は完了です。学童期もきわめて重要な示唆が多かったですね。
私が重要と感じたのは、学校が、搾取や無視も是認する可能性があることと、「仕事バカ」についてです。そして、この二つが結びついたときのことを考えます。すなわち、学校が儀式主義である形式主義に陥っている場合です。この場合、子どもに教科を教えることそのものが自己目的化して、何のために教えているのか、子どもを教育することには、どんな意味があるのか、もしかしたら自分は子どもに対して、危険な働きをしているかもしれない、という人間としての文脈を忘れてしまうことです。こう言ってもはっきりしませんね。もっと率直に話すのが私の流儀でした。
つまり、こういうことです。学校でも本当に大事なことは、子どもひとりびとりに対して「あなたにはこの上ない値打ちがありますね」、「人は結局、当てになりますよ」という、最初の危機、発達課題である「根源的信頼感」を改めて繰り返し態度で示すことです。これこそが教育の目的と言っていいです。しかし、学校が形式主義に陥る時、その目的を忘れて、単に教科教育の指導技術の向上を目指す、という教員の「仕事バカ」が生まれます。そして、教育が犯す危険な働きとは、その自己目的化した教科教育を通じて、子どもを一層否定し、「あなたにはそれほど値打ちはないんだよ」「人は結局、当てになんかなるものか、世間はそんなの甘くない」と身をもって伝えて、子どもの「根源的不信感」を改めていっそう深めて、結局は「私は劣っているという感じ」をも子ども達の身につけさせてしまうことです。しかも、その自覚が教員にない、ということです。
私どもは、エリクソンから学ぶ以上、自分が日々行っていることの目的、その「祈り」、その「不思議な自信」に自覚的でありたいものです。
本日はこれまで。
今日は、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、学童期の部分の第3段落と第4段落です。早くも最後の段落です。それでは翻訳します。
とにかく、学童期には、人間の行為のきちんとやる面の儀式化が導入されます。この儀式化に感覚的に説得力があるのは、この儀式化が、理解することができるし、参加することもできるいっそう高度な秩序になっているからです。ヌミノースと分別と筋立てする要素に、この「きちんとやる」側面が加わると、どんな本物の儀式であっても、私どもがその重大さを理解したのも同然でしょう。
学童期の仲間はずれにされた感じは、「自分は劣っているという感じ」です。それは、学校で教わる基礎技術に必要な身体活動や教科科目で、課題についていけない、という感じです。他方、私どもが危険も感じるのは、一般化のしすぎであり、完全主義であり、形ばかりの行事です。私どもはこの発達段階でも、儀式主義の傾向を名付けなくてはなりませんが、ここでは、「『仕事』が人を作り、技術が真理を生み出す」という振りをする儀式主義的傾向です。多分「形式主義」という言葉がこれに当てはまるでしょう。この名前はともかく、この言葉が示しているのは、人間が「きちんとやること」と「その理屈」を求める努力をしているうちに、人間はそのとりこになってしまう、という事実です。とりこになってしまうことによって、ひとりびとりの人は、マルクスが「仕事バカ」と呼んだ存在になってしまいます。「仕事バカ」とは、自分が技術を向上することに心奪われて、技術を向上することにどんな意味があるのか、もしかしたら危険な働きにつながらないか、という人間としての文脈を忘れたり、否定したりしてしまう人なのです。
これで学童期の部分の翻訳は完了です。学童期もきわめて重要な示唆が多かったですね。
私が重要と感じたのは、学校が、搾取や無視も是認する可能性があることと、「仕事バカ」についてです。そして、この二つが結びついたときのことを考えます。すなわち、学校が儀式主義である形式主義に陥っている場合です。この場合、子どもに教科を教えることそのものが自己目的化して、何のために教えているのか、子どもを教育することには、どんな意味があるのか、もしかしたら自分は子どもに対して、危険な働きをしているかもしれない、という人間としての文脈を忘れてしまうことです。こう言ってもはっきりしませんね。もっと率直に話すのが私の流儀でした。
つまり、こういうことです。学校でも本当に大事なことは、子どもひとりびとりに対して「あなたにはこの上ない値打ちがありますね」、「人は結局、当てになりますよ」という、最初の危機、発達課題である「根源的信頼感」を改めて繰り返し態度で示すことです。これこそが教育の目的と言っていいです。しかし、学校が形式主義に陥る時、その目的を忘れて、単に教科教育の指導技術の向上を目指す、という教員の「仕事バカ」が生まれます。そして、教育が犯す危険な働きとは、その自己目的化した教科教育を通じて、子どもを一層否定し、「あなたにはそれほど値打ちはないんだよ」「人は結局、当てになんかなるものか、世間はそんなの甘くない」と身をもって伝えて、子どもの「根源的不信感」を改めていっそう深めて、結局は「私は劣っているという感じ」をも子ども達の身につけさせてしまうことです。しかも、その自覚が教員にない、ということです。
私どもは、エリクソンから学ぶ以上、自分が日々行っていることの目的、その「祈り」、その「不思議な自信」に自覚的でありたいものです。
本日はこれまで。