前回はアイデンティティの中身でしたね。
今回は、前回やり残した部分です。Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeの、青年期の部分の第3段落、その後半を翻訳します。段落途中からの翻訳ですから、文頭は一段下げにしていません。それでは翻訳です。
反対に、私はこの発達段階の仲間はずれの感じを「アイデンティティの混乱」と呼んできました。もちろんこれは、一つの“生き方”に含めうるのですが、それは、支払い猶予の形で、ある特別な遊びを許す生き方なのです。その遊びとは、バカ騒ぎに貢献したかと思えば、実験的で、しかも以前書いたように、「人とは異なる」あり方を延長した期間です。たほう、このような違いが他の人々に対して境界性人格障害、犯罪者、危険な非行歴、不健康な狂信であるという印象を与えるのかどうか、そのような印象を与えるとしたら、どこでそういう印象を与えるのかは、精神病理学的、政治的、法的定義の問題であることが多いのです。若者特有の「示威行為」の大部分は、このすべてを一つの演劇的表現(ある時はあざけりですし、ある時はどんちゃん騒ぎです)にしてしまうことに特色があります。その演劇的表現は、若者が適応するとは、世の中が明らかに良くなることを約束しない限り、当たり前と見なすべきではない、という警告として役立ちます。歴史的にアイデンティティが空っぽになるのは、生育歴上のアイデンティティの危機が非常に大きな規模で悪化し、経済的・技術的変化に追いつく人生哲学の革新によってしか打開できない時代なのです。これこそ、私が若きルターの個人的で、しかも、普遍的な危機に関する本で描こうとしたことです。その課題がたどれるのは、もっと最近の歴史の革命的な時期を通してです。そして、現代まで来ると、私どもは、全体主義が若い世代を公開の国家的儀式に価値誘導的に関わらせるやり方を目撃しています。その公開の国家的儀式たるや、ヌミノースの要素(指導者の顔)と分別の要素(声高に皆が異口同音に「犯罪者」を非難すること)、筋立てを作る要素(パレード、ダンス、○○集会)、そして、きちんとやる要素(軍隊の正確さ、マス・ゲーム)を大規模に組み合わせています。こういったことがやろうとしていることは、若者達の世代すべてを、価値へ献身させることです。若者たちがそんな価値へ献身をすると、息つく暇もないほどの変化が生じ、また現実に、あらゆる伝統的な価値が(革命前夜と言う意味で)、明らかに否定的なアイデンティティの一部になってしまいます。
これで、青年期の部分の第3段落の翻訳は完了です。
いかがでしたか?今の日本は、ナチスや軍国主義日本のような、露骨な全体主義は存在しません。ですから、エリクソンがここで指摘したうような国家的儀式によって儀式化の要素を組み合わせて、若者を国家に都合のいい価値に献身させようとすることもありません。
むしろ、いまは、エリクソンがここで教えてくれているように、「アイデンティティが空っぽになるのは、生育歴上のアイデンティティの危機が非常に大きな規模で悪化し、経済的・技術的変化に追いつく人生哲学の革新によってしか打開できない時代」ではないでしょうか? アイデンティティの危機が、あらゆる世代で蔓延しているのが、残念ながら、日本の現状です。では、その現状を打開する「人生哲学の革新」とは一体何なのでしょうか?
本日はここまで。
今回は、前回やり残した部分です。Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeの、青年期の部分の第3段落、その後半を翻訳します。段落途中からの翻訳ですから、文頭は一段下げにしていません。それでは翻訳です。
反対に、私はこの発達段階の仲間はずれの感じを「アイデンティティの混乱」と呼んできました。もちろんこれは、一つの“生き方”に含めうるのですが、それは、支払い猶予の形で、ある特別な遊びを許す生き方なのです。その遊びとは、バカ騒ぎに貢献したかと思えば、実験的で、しかも以前書いたように、「人とは異なる」あり方を延長した期間です。たほう、このような違いが他の人々に対して境界性人格障害、犯罪者、危険な非行歴、不健康な狂信であるという印象を与えるのかどうか、そのような印象を与えるとしたら、どこでそういう印象を与えるのかは、精神病理学的、政治的、法的定義の問題であることが多いのです。若者特有の「示威行為」の大部分は、このすべてを一つの演劇的表現(ある時はあざけりですし、ある時はどんちゃん騒ぎです)にしてしまうことに特色があります。その演劇的表現は、若者が適応するとは、世の中が明らかに良くなることを約束しない限り、当たり前と見なすべきではない、という警告として役立ちます。歴史的にアイデンティティが空っぽになるのは、生育歴上のアイデンティティの危機が非常に大きな規模で悪化し、経済的・技術的変化に追いつく人生哲学の革新によってしか打開できない時代なのです。これこそ、私が若きルターの個人的で、しかも、普遍的な危機に関する本で描こうとしたことです。その課題がたどれるのは、もっと最近の歴史の革命的な時期を通してです。そして、現代まで来ると、私どもは、全体主義が若い世代を公開の国家的儀式に価値誘導的に関わらせるやり方を目撃しています。その公開の国家的儀式たるや、ヌミノースの要素(指導者の顔)と分別の要素(声高に皆が異口同音に「犯罪者」を非難すること)、筋立てを作る要素(パレード、ダンス、○○集会)、そして、きちんとやる要素(軍隊の正確さ、マス・ゲーム)を大規模に組み合わせています。こういったことがやろうとしていることは、若者達の世代すべてを、価値へ献身させることです。若者たちがそんな価値へ献身をすると、息つく暇もないほどの変化が生じ、また現実に、あらゆる伝統的な価値が(革命前夜と言う意味で)、明らかに否定的なアイデンティティの一部になってしまいます。
これで、青年期の部分の第3段落の翻訳は完了です。
いかがでしたか?今の日本は、ナチスや軍国主義日本のような、露骨な全体主義は存在しません。ですから、エリクソンがここで指摘したうような国家的儀式によって儀式化の要素を組み合わせて、若者を国家に都合のいい価値に献身させようとすることもありません。
むしろ、いまは、エリクソンがここで教えてくれているように、「アイデンティティが空っぽになるのは、生育歴上のアイデンティティの危機が非常に大きな規模で悪化し、経済的・技術的変化に追いつく人生哲学の革新によってしか打開できない時代」ではないでしょうか? アイデンティティの危機が、あらゆる世代で蔓延しているのが、残念ながら、日本の現状です。では、その現状を打開する「人生哲学の革新」とは一体何なのでしょうか?
本日はここまで。