前回から、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeの、青年期に入りました。今日はその部分の第2段落です。翻訳します。
これ以降、人は2つの発達の筋道に留まる事が出来ます。すなわち、ひとつは、人は常に驚くべき、ときには衝撃的でもある「自然な儀式」について論じることができます。この儀式によって、青年たちはお互いの人間関係を儀式化し、自分たちの世代が、大人たち持つ者とも、子どもたち持たざる者とも(少し、あるいは、徹底して)異なることをはっきりさせます。もうひとつは、人はいまや「きちんとした儀式や行事」に戻ることもできます。なぜなら、正式な堅信礼、就任式、卒業式を約束することにおいてこそ、青年期になった人間たちは自分の社会の(あるいは、偽りの群れの)責任あるメンバーとなり、しかも、その社会の中でのエリートのなることを申しわたされるからです。その時に初めて、青年期の人間たちは大人になるコースに入ることができます。この場合大人とは、将来を見通すことができるという意味です。その将来において、青年は子どもの生活において、日々儀式化をプレゼントできる者となるでしょうし、たぶん、次世代の人々の人生において、儀式化を司る地位に就くことにもなるでしょう。確信が一致するときはじめて、生育歴上の一連の儀式化において発達した要素すべてを、一つの世界に対するイメージの中にしっかりと結びつけ、一貫性のある思想と理想を見通すことができます。実際に、差し迫って世界を一新したいという個人的な感じが広範に存在していたり、あるいは、強かったりする場合以外は、そうなのです。
これで、青年期の部分の第2段落の翻訳は完了です。
エリクソンの「大人」の定義は不思議です。エリクソンは「大人」とは、子どもに儀式化をプレゼントする存在と言います。すなわち、ヌミノースの要素と分別の要素、筋立てを作る要素やちゃんとやる要素という儀式化の要素を子どもにプレゼントすると同時に、それらを統合して一つの世界観にまとめ上げることができる人、一貫性のある思想と理想も見通せる人、それが大人です。
今日はここまでです。
これ以降、人は2つの発達の筋道に留まる事が出来ます。すなわち、ひとつは、人は常に驚くべき、ときには衝撃的でもある「自然な儀式」について論じることができます。この儀式によって、青年たちはお互いの人間関係を儀式化し、自分たちの世代が、大人たち持つ者とも、子どもたち持たざる者とも(少し、あるいは、徹底して)異なることをはっきりさせます。もうひとつは、人はいまや「きちんとした儀式や行事」に戻ることもできます。なぜなら、正式な堅信礼、就任式、卒業式を約束することにおいてこそ、青年期になった人間たちは自分の社会の(あるいは、偽りの群れの)責任あるメンバーとなり、しかも、その社会の中でのエリートのなることを申しわたされるからです。その時に初めて、青年期の人間たちは大人になるコースに入ることができます。この場合大人とは、将来を見通すことができるという意味です。その将来において、青年は子どもの生活において、日々儀式化をプレゼントできる者となるでしょうし、たぶん、次世代の人々の人生において、儀式化を司る地位に就くことにもなるでしょう。確信が一致するときはじめて、生育歴上の一連の儀式化において発達した要素すべてを、一つの世界に対するイメージの中にしっかりと結びつけ、一貫性のある思想と理想を見通すことができます。実際に、差し迫って世界を一新したいという個人的な感じが広範に存在していたり、あるいは、強かったりする場合以外は、そうなのです。
これで、青年期の部分の第2段落の翻訳は完了です。
エリクソンの「大人」の定義は不思議です。エリクソンは「大人」とは、子どもに儀式化をプレゼントする存在と言います。すなわち、ヌミノースの要素と分別の要素、筋立てを作る要素やちゃんとやる要素という儀式化の要素を子どもにプレゼントすると同時に、それらを統合して一つの世界観にまとめ上げることができる人、一貫性のある思想と理想も見通せる人、それが大人です。
今日はここまでです。