前回は「うわべだけの権威」についてエリクソンが簡単に述べている箇所の翻訳でした。
今回は、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、成人期の第2段落の翻訳です。
しかしながら、「老人の知恵」に関する言葉は、儀式のある生活の中で、このように、重たい責任があるけれども、次世代の人を価値あるものと認める役割を果たします。儀式化が課す老人の責任は、統合であると私は思います。その統合こそ、人生の巡り合わせの意味を価値あるものと認めてくれます。私はブレークの詩を読むたびに、ブレークから教えられることは、老人の知恵は、最もうまくいけば、陽気な無邪気さによって、(再び)命を与えられる、ということです。老人の伝統的な役割は、儀式が秘める英知を体現するならば、私が知恵に対して行った解釈を擁護してくれるでしょう。ところが、現代のような生き方をしていると、また、おそらく、少数の頑強で例外的な人ではなく、多くの人が長生きするのを目の当たりにしていると、「老人の知恵も、おもちゃとしてさえ、ちょっと幼稚じゃないの」とブレークは言っているのでは、といぶかる向きも出てくることでしょう。老人になる前の数年間は、「絶望」や「嫌悪感」に避けがたくさらされる中で、私は単純な「統合」の強さを主張してきました。その単純な「統合」の強さに、子どもたちはピィピィッと気づきます。だからこそ、年寄りたちと子どもたちはお互いに親しみを感じるのです。しかし、もちろん、老年期もそれ独自の儀式主義を備えています。つまり、賢明であることを愚かにも装うことですが、「賢人顔」とでも呼んではいかが?
これで、成人期の第2段落の翻訳は完了です。どうでしたか?
ここもエリクソンの記述は凝縮していて、無駄がない感じです。しかも、とてもとても重要です。この本のタイトルとも関係します。みすず書房の本のタイトルは『玩具と理性』ですが、ここを読めば、このタイトルが誤訳であることがはっきりしますしね。Toys and Reasonsは、「(子どもの)おもちゃと(老人の)知恵」を示していることは明らかです。たぶん翻訳者はブレークの詩もみていないでしょうね(Toys and Reasonsはブレークの詩からの引用です)。
老人の知恵には、とてつもなく大事な役割があることが分かります。すなわち、人生の巡り会わせの意味を価値あるものと認める働きです。それをエリクソンは「統合」と呼びます。長く生きて、人生の苦難を実際に体験し、しかもその苦難さえ肯定しているからこそ、人生の様々な巡り合わせにも「肯定的な価値がある」ことが分かるのです。不思議なことですが、老人が(実際は、老人だけではないですが)そのような感じ・気持ちで生きていると、そのことに子どもはピィピィッと気がつきます。その時子どもは、その人に近寄ってきたり、笑顔になったりしますね。実に不思議で、実に面白いと感じます。
それとは対照的に、「賢者顔」の人も、権威主義の類の人と同様、きっと「難しい顔」をしているのでしょうね。
本日これまで。
今回は、Toys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、成人期の第2段落の翻訳です。
しかしながら、「老人の知恵」に関する言葉は、儀式のある生活の中で、このように、重たい責任があるけれども、次世代の人を価値あるものと認める役割を果たします。儀式化が課す老人の責任は、統合であると私は思います。その統合こそ、人生の巡り合わせの意味を価値あるものと認めてくれます。私はブレークの詩を読むたびに、ブレークから教えられることは、老人の知恵は、最もうまくいけば、陽気な無邪気さによって、(再び)命を与えられる、ということです。老人の伝統的な役割は、儀式が秘める英知を体現するならば、私が知恵に対して行った解釈を擁護してくれるでしょう。ところが、現代のような生き方をしていると、また、おそらく、少数の頑強で例外的な人ではなく、多くの人が長生きするのを目の当たりにしていると、「老人の知恵も、おもちゃとしてさえ、ちょっと幼稚じゃないの」とブレークは言っているのでは、といぶかる向きも出てくることでしょう。老人になる前の数年間は、「絶望」や「嫌悪感」に避けがたくさらされる中で、私は単純な「統合」の強さを主張してきました。その単純な「統合」の強さに、子どもたちはピィピィッと気づきます。だからこそ、年寄りたちと子どもたちはお互いに親しみを感じるのです。しかし、もちろん、老年期もそれ独自の儀式主義を備えています。つまり、賢明であることを愚かにも装うことですが、「賢人顔」とでも呼んではいかが?
これで、成人期の第2段落の翻訳は完了です。どうでしたか?
ここもエリクソンの記述は凝縮していて、無駄がない感じです。しかも、とてもとても重要です。この本のタイトルとも関係します。みすず書房の本のタイトルは『玩具と理性』ですが、ここを読めば、このタイトルが誤訳であることがはっきりしますしね。Toys and Reasonsは、「(子どもの)おもちゃと(老人の)知恵」を示していることは明らかです。たぶん翻訳者はブレークの詩もみていないでしょうね(Toys and Reasonsはブレークの詩からの引用です)。
老人の知恵には、とてつもなく大事な役割があることが分かります。すなわち、人生の巡り会わせの意味を価値あるものと認める働きです。それをエリクソンは「統合」と呼びます。長く生きて、人生の苦難を実際に体験し、しかもその苦難さえ肯定しているからこそ、人生の様々な巡り合わせにも「肯定的な価値がある」ことが分かるのです。不思議なことですが、老人が(実際は、老人だけではないですが)そのような感じ・気持ちで生きていると、そのことに子どもはピィピィッと気がつきます。その時子どもは、その人に近寄ってきたり、笑顔になったりしますね。実に不思議で、実に面白いと感じます。
それとは対照的に、「賢者顔」の人も、権威主義の類の人と同様、きっと「難しい顔」をしているのでしょうね。
本日これまで。