土曜日の夜、寝る前にYou Tubeで見たいものを見ていた時に、イチローが、ダウンタウンの浜ちゃんと、ヤクルトやメジャーで通算182勝を挙げた石井一久氏と、談話しているテレビ番組を見ました。
イチローが、ダウンタウンに敬意を持っていることは知っていました。それで番組が成り立っているのかと思います。
イチローは、石井氏に必ずしも好意を持っておらず(番組上の脚色も多分にあると思いますが)、茶化したり、突っ込んだりしていました。その一つに、「ほらね、薄っぺらいでしょ?」という突込みがありました。石井氏が、「自分も器用である。器用だから、何となく勝つことはできる。でも、その先に行けなかった。」と吐露したことに対する、イチローの突込みでした。
薄っぺらい、の反対は、深い、深みがある、でしょうか。
私はスポーツが大好きですし、野球も好きなので、薄っぺらいと言われようが、182勝もした石井一久はすごいと思うし、それを薄っぺらいと平気で突っ込めるイチローはもっとすごい次元にあるのだろうと思います。
彼らの世界と、自分たちの世界が同じとは全く思いませんが、私は「深く」ありたい。
一つ前の記事でも書きましたが、物事の根幹、本質は同じであると思っており、狭い狭い分野、垣根の中だけでの議論には辟易します。そんなところに本質はないと思います。垣根が多くなってしまったのは時代の流れで仕方ないとは思いますが、だからこそ、垣根を越えた本質を見出すような議論が必要に思います。深いな、と思う議論や会話は、大抵はそのように垣根を越えようとした場合のものに思えます。
若いころは薄っぺらくてもよいですが、年を重ねて薄っぺらい方に会うと悲しいです。若い大半の人に見いだせない、この世の面白さ、深さを語れるのが、年を重ねたおじさん、おじいさんたちの魅力だと思うなあ。
諸事情ありまして、ブルターニュ地方のRennes(レンヌ)に向かうTGVの中で書いた記事です。
基本的には広義の自然が人間よりも優位なのであって、広義の自然において見られる本質はしばしば共通していることが多いです。
だから、アナロジーが興味深いのであり、一例ですが、コンクリート構造物におけるASRが人間の癌に例えて考えると分かりやすくなるのだと思います。
コンクリート構造物と人間には多くのアナロジーが存在し得ると思っています。
私の理解では、コンクリートの練混ぜが人間の「誕生」に相当しており、それぞれ異なるDNAを持って誕生しますが、コンクリートは打込みという施工のプロセスを経て、構造体となります。打込みは、人間の家庭での幼児教育に相当すると思っています。全く同じDNAを持って生まれてきても、打込みのプロセスにより、構造体のコンクリートの品質は異なります。
打込み後の、養生等を含む施工のプロセスが、人間での小中高での教育に相当するでしょうか。
人間で言うところの大学、大学院の教育は、コンクリートでは特殊な養生や塗膜等の高耐久技術でしょうか。
そして、コンクリート構造物も人間と同じように厳しい環境にさらされます。初期品質のしっかりしていないものは、厳しい環境にさらされ、すぐに劣化します。初期品質のしっかりしたものは、厳しい環境にさらされても、しっかりと我が国の社会活動を支えます。人間でも全く同じでしょう。
さて、現時点の私が非常に違和感を覚えるのは、「品質確保」と「維持管理」において必要とされる手段の、世の中での混同です。
でき上がってしまった既設構造物の維持管理において支配要因は何か。
以下の議論は個別の具体事例にまで当てはまるかは分かりませんが、私なりに全体の方向性を整理するためのものです。
成人の人間の健康を支配するものは、一般的には、基礎体力よりは、圧倒的に生活習慣であるように思います。
私自身の例は何度もブログで紹介していますが、41歳の現在の方が、20代後半よりも健康に思います。もともと相当な健康体で生まれていますので、体力で圧倒的に勝る20代の私よりも40代の今の私が健康である理由は、生活習慣(環境作用)に配慮しているからに他なりません。
コンクリート構造物の劣化の支配要因も、私は構造物の品質というよりは、環境作用であると思う。
そうだとすると、既設コンクリート構造物の品質を評価して、性能を予測することにどんな意味があるでしょうか?多くは述べませんが、コンクリートの品質の方が支配的と思っている研究者、実務者が少なくないように思います。そう思っている人は、性能評価ができると安易に思い込む。
現実の個別の構造物が経時的に性能が劣化していくことの予測など、人間の健康に思いを致せば、どれだけ眉唾ものか想像に難くないでしょう。
劣化の進行程度にもよりますが、生活習慣を正すことが最重要で最も確実な対策。構造物で言えば、環境作用の悪影響を低減するこが本質と思います。
劣化がそれなりに進行してしまった場合でも、その後の劣化進行の予測が重要なのではなく、本質的に重要なのは、確実に性能を向上させ、その後の再劣化を簡単に生じさせない、「確実な補修・補強方法」の確立だと思います。(人間でも、劣化がそれなりに進行してしまった場合に、どれだけ精緻にその後の劣化を予測されても全くうれしくない。完璧な治療をこそ、望むでしょう?)
容易ではありません。見かけだけの補修、補強は誰にでもできますが、「確実な」補修、補強方法を確立するということが肝であり、多くの実務者、研究者が注力すべきことだと思います。
この記事では、ここまでにしますが、コンクリート構造物の耐久性を支配する表層の品質の緻密な評価が、本当に求められるのは、維持管理のステージではなく、施工段階においてであると私は思っています。すなわち、初期品質の確保のための評価が最重要と考えます。
コンクリート構造物の建設過程では、人間はベストを尽くすことができます。人間がベストを尽くすかどうかで、品質は大きく変動します。だから、ベストのマネジメントを講じるべきです。
一方で、建設後は、支配要因は環境作用であり、簡単に人間の知恵が太刀打ちできない自然の世界だと思っています。コンクリート構造物と言えども、広義の自然の一部になるのです。
建設後のコンクリート構造物の劣化の予測は興味深いので、多くの研究者がチャレンジしたがります。格好いいし、予算も取りやすいのでしょう。
でも、劣化は構造物の部位ごとに全く異なるし(シビアに。人間の手にを負える代物ではないですよ。)、本当に求められているのは劣化の予測などではなく(劣化の予測ももちろん重要ではあるのですが)、その構造物が確実に機能を果たすことであることを、もっと皆がプラグマティックに議論すべきと思います。