細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

ブルターニュ(アーチ、インフラの視察の旅)

2014-07-16 17:38:01 | フランスのこと

ブルターニュ地方のBrestにあるプルガステル橋を見学することが出発前の最大の目的で、正直それほど期待していなかった出張ですが、期待をはるかに上回り大変に勉強になりました。プルガステル橋についての報告は、すでに記しましたので、そちらをご参照ください。

以下が今回、レンタカーで走破したルートです。600km走りました。青く丸で囲ったところを訪れました。

振り返ってみると、今回はフランスのインフラについて体感した旅であったと思います。インフラとは実際に使ってみないと分かりません。今回は、Rennesを拠点にして、ブルターニュ地方をぐるっと車で走ることができたので、ずっとインフラのことを観察し、考えていました。

 

私は、2007年の夏に初めて、フランスで車を運転しました。ルーヴル美術館の地下でレンタカーをして、郊外での奥さんの友人の結婚式の場所までロングドライブしました。そのときは、奥さんがとても上手にナビをしてくれましたが、左ハンドルのマニュアル車に苦戦して何度もエンストし、最後はパリのリヨン駅のレンタカー屋に帰還するのにすごく苦労したことを覚えています。その後は、今回の渡仏期間中にレンタカーで何度か運転しており、今回が通算で5回目です。おそらく、今回の走行で、フランスでの通算走行距離が2000km近くになったと思います。

今回の走行が、Rennesを拠点としてぐるっと回ったこともあり、最も道路インフラのことをよく観察できたと思います。前回の5月は、Toulouseを拠点に、カルカッソンヌやミヨー橋なども訪問し、このときも高速道路、一般道路をたくさん走りました。それらの経験だけで、フランス全土のインフラを語る資格はないかもしれませんが、今回考えたことをまとめておきます。

まず、今回の視察の第一印象は、ブルターニュ地方の優れたインフラでした。上記の写真(地球の歩き方)では、ブルターニュ地方には高速道路が無いと見えますが、ここで示されている「一般道路」は日本で言うところの、以下のような完全な「高速道路」でした。7月14日の祝日と、翌日の平日にどちらも走りましたが、渋滞は最後のRennesの街中を除いて皆無。制限速度も110kmです。非常に快適に、効率的にブルターニュ地方を回ることができました。歴史的な経緯もあって、ブルターニュ地方は高速道路が無料、と聞きました。それで実質的な高速道路を「一般道路」と呼んでいるのでしょうか。


結論を先に述べておきます。

私は道路インフラの計画的な面について無知ですが、フランスの道路のあり方と、日本の道路のあり方は、相当に違う気がする。一言で言うと、フランスの道路は、人間の生活空間である都市や町を道路がつないでいる、という印象。日本の道路は、つなぐ機能もあるのだけど、道路沿線も人間の生活空間になってしまっている。だから混む。

乱暴な印象かもしれませんが、私はそう感じました。そして、その根本要因は、日本に可住地が少なく、かつ人口が非常に多いことであろう、と思います。やむを得なかったのでしょう。

少しデータを調べてみたところ、フランスの可住地面積の割合が72.1%で、海外領土を除く面積が55.15万平方km。日本は可住地面積の割合が33.6%で、37.79万平方km。

可住地面積は、フランス(39.8万)対 日本(12.7万)となり、圧倒的に使いにくい国土であることが分かります。そのくせ、日本の方がはるかに人口が多いのだから、一人当たりの可住地面積は、フランスと比べると極端に少なくなります。フランスは、日本と比べて、一人当たりの可住地面積は6.3倍程度です。愕然とする値です。そのような我が国土を(しかも4つの大きな島に分かれている)、どのように使いこなしていくか、これまでの先人たちも必死に考えてきたと思いますが、私たちも真剣に考えないと、先進国としてやっていけるわけがありません。(先進国でなくてよい、という批判もすぐに出ますが、先進国でなければ防災も含めたインフラへの投資などできず、伊勢湾台風のようにたった一つの大型台風で5000人もの人が亡くなるような国に逆戻りしてもよい、と本当に思えるか、です。私は嫌です。)

そして、だからこそ、「人」を運ぶ手段としては車よりはるかに効率的な鉄道に、莫大なエネルギーと資金を投入してきた我が国の先人の考えは極めて合理的だったのだと改めて敬意の念を抱きました。もともと人口が多く、しかもその後、1億3千万人まで膨れ上がったのですから、鉄道インフラが無ければどんな悲惨な状態になっていたのか、想像に難くありません。明治以降の鉄道インフラ発展の意義を、再度勉強してみたいと強く思いました。

鉄道は、人を効率的に運ぶ観点からは素晴らしいですが、物を運ぶ観点からはやはり道路にはかないません。これだけお互いに依存しあう現代社会においては、道路インフラの優劣は国力に直結します。フランスのインフラを見ると、我が国は勝負になるレベルではまだまだありません。当然に、今の不況時には適切にインフラに投資をし、不況の脱出を達成し、さらに将来の競争力のある国力、均衡な国土の発展を狙っていくことが当然なのだと思いますが、積極的なインフラ投資をしない理由がよく分かりません。

一方で、フランスは道路インフラは優れていると思いますが、鉄道インフラは日本よりも劣ると思います。しかし、道路が主役なのですね。日本のように過密にひしめき合っているわけではないので、鉄道よりも道路が有効なのでしょう。今回、線路が高速道路と並走している区間も結構あったのですが、そのときに日本における鉄道の相対的な重要性の高さについてぼーっと考えていました。しかし、フランスのような国々でも最近の鉄道ネットワークや、都市内交通への投資は目を見張るものがあります。日本もうかうかしてられないですよ!

以上が結論。

優良なインフラでつながれた、フランスの地域は輝いているように見えます。地域、田舎が活き活きしてるように見えます。インフラのおかげだけではないでしょう。グローバリズムに蹂躙されないための、国家の適切な規制のおかげもあるのでしょうか。コンビニの我が国における重要な役割は認識していますが、それでも、巨大スーパー、コンビニ、各種チェーン店、外資等で埋め尽くされた我が国の街や地方を思うと、国家戦略の重要性を痛感させられます。

以下は、フランスで最も美しい村の一つに認定されている(人口2000人以下が条件だとか)、Locronanの村の小道。




15日の朝、Pont Aven(ポンタヴェン)の村の外れにある教会を訪れました。人が誰もいない。まさに中世のままのような雰囲気。ゴーギャンが愛した村だそうです。



写真ではなかなか伝わりませんが、この静けさの中で、この教会の中に一人で入ったときの感覚は、これまでに味わったことのないものでした。以下の黄色いキリスト?がゴーギャンの絵画のモデルだそうです。



こいつが、今回の私の相棒。



芸術家たちに愛されるPont Avenの中心部はこんな感じ。





Pont Avenを後にして、Aurayの村に到着しました。Aurayの港ですが、奥に見えるコンクリートの橋が、高速道路です。非常に交通量が多いです。



境界に船が吊ってありました。漁業等で船が大活躍してきた村のようです。



村の中の小道も大変に雰囲気があり、以下のお店でガレット、クレップの昼食としました。



ネコさんの毛並みも素晴らしかった。



城の跡があり、その上からの眺めは素晴らしかったです。アーチ橋が川に架かっていました。





Aurayを後にし、Carnac(カルナック)という、膨大な謎の巨石群があるところを見学して、港へ。







実質的な最後の視察場所かな、と思っていましたが、白いアーチ橋が美しく地域交通を支えており、今回は、プルガステル橋に始まり、最後までアーチ橋の旅であったと、感激しました。

さて、Rennesに戻ろう、と出発したところ、「みよし」という名の日本料理店を見かけ、車を停めました。ちょうど午後の休憩時間のようで店は閉まっていましたが、日本人のご家族の名前が玄関にあり、同邦が頑張っておられる様子を記念写真。

 

異国でレンタカーをする際、レンタカーを返却する場所に無事に到着できるかどうかが結構難しいです。今回も、私一人の運転で、かつ、以下の写真のように駅前が工事中だったりして、相当にハードルの高い帰還ルートでしたが、一発で行けました!経験値も相当にアップしてきています。



RennesでTGVの出発まで2時間くらいできたので、Rennes美術館に行くことにしました。Louvre美術館で何度も苦杯をなめている、ラトゥールの非常に有名な絵があるそうで、それを見に行きました。内藤廣先生の「形態デザイン講義」を読んでいなければ、また、母親にプレゼントしてもらった「怖い絵」を読んでいなければ、ラトゥールのことなど興味も持たなかったでしょうが、そういうインプットがある段階からはつながってきます。ラトゥール展をちょうどやっていたので、いくつかの素晴らしい絵画にも見とれて、旅は締めくくりとなりました。

ジョルジュ・ド・ラトゥールの随一の代表作と言われる「生誕」です。

 

 

以下は、私がルーヴルで探し続けている(おそらく、改修中の箇所にあるものと推察)、「大工聖ヨセフ」に通じるところの多い(と勝手に私が思っている)、「聖ヨセフの夢」です。

 

 Rennes美術館には、春画もありました。さすが日本ですね。ブログに掲載できそうなものを撮影しました。その他は、掲載できません。。。

 

以下が、Rennes美術館。

 

フランスの地域、地方の魅力は、今回も肌で感じました。さすがに奥深い、底力のある国だと敬意を表します。

でも、それと同時に、日本の素晴らしさ、潜在力に何度も思いが至りました。もっともっと力を発揮できるのに、と。

どのような国を目指すかは、国民次第だと思いますが、世界最大の観光大国であるフランスに見習うべきことは多々あるように思います。日本人がレンタカーで一人で苦も無く移動できます。日本や他のアジアの国々ではなかなかそうは行かないだろうな、と推察します。 


プルガステル橋

2014-07-16 16:19:30 | フランスのこと

7月14日の革命の記念日に、ブルターニュ地方のBrestのプルガステル橋を見学に行ってきました。20世紀の構造工学の最大の発明であるプレストレストコンクリートの父であるEugene Freyssinet(フレシネー)が設計し、1929年に完成した鉄筋コンクリートのアーチ橋です。

Rennes(レンヌ)を拠点に、レンタカーで移動しました。以下が、今回のルートです。600キロの行程でした。地球の歩き方によれば、この地域には高速道路はなく、一般道路しかないとの説明だったので、移動にはかなり時間がかかるかな、と思っていましたが、「一般道路」は日本でいうところの高速道路でした。歴史的な経緯もあり、ブルターニュ地方の高速道路は無料だそうです。



ブルターニュ地方の道路網は非常に便利で、その考察は次の記事に譲ります。この記事はプルガステル橋の紹介に専念することにします。

RennesからBrest方面への道路に乗るのに少し苦労して、Rennesの街中をぐるぐると走ってしまいましたが、9:30ごろに「高速道路」に乗り、一回休憩をしましたが、brestまでの240kmの距離を2時間ちょっとで走破できました。記念日のため休日であり、道路が空いていたことも理由かと思います。Plougastel橋には12時前に到着しました。

以下、解説は「PC構造の原点フレシネー」(Ordonez著、監訳:池田尚治、建設図書)を参考文献としています。

Plougastel橋(プルガステル橋)は、1902年に、フェリーの代わりとしての建設の最初の要求が出され、Elorn川の両岸を安全に、永久に結ぶことが必要であった。この地方は風が強く、ブレストの停泊地は潮の干満の差が大きかった。戦争の影響もあって計画は中断され、1922年になって橋の建設が進められることになる。鉄道が必要になった場合の工夫も求められる計画であった。1930年10月9日にフランスの首相であったGaston Doumergueによってプルガステル橋の開通式が行われ、鉄筋コンクリートの分野でのフレシネーの最も大きな業績となった。

杭軸間188mのスパンをもつ3つのアーチで560mにもわたる河幅の問題を解決した。鉄筋コンクリートのアーチとしては当時、世界最長スパンであった。

この巨大アーチを施工するためのセントルは、木製の構造であり、鋼線とくぎでつなげられた4cmの分厚い板で出来ており、何百もの引張鋼線であらゆる方向から制御されていた。そして、同じセントルが3つのすべてのアーチの打込みのために使用された。以下は、アーチの施工後にセントルを移動している様子である。



第二次大戦でアーチのいくつかが損傷を受けるが、全く同じ施工方法で修復した。これ以上合理的な施工方法がなかったことを示している。

以下フレシネーの言葉である。

「ブチロン橋に関しては、悪い思い出しかない。ル・ヴァートル橋とともに、『力業』であり、少し際立ち過ぎていた。・・・・・・ 結局のところ、この2つの橋を造ったことにより、『力業』は避けなければならないことを学んだ。・・・・・・ ヴィルネヴ シェルロット橋も、プルガステル橋も『力業』ではなく、それゆえ、これらの橋は以降、模倣され、同じ形式の橋が今度は規模が大きくなって再び建造されたのである。」

プルガステル橋はフレシネーに世界的な名声を与えた。広く世界的に流通している技術誌に掲載された。その橋には、それまで不可能であるとして使用されていなかったコンクリート部材が用いられ、賞賛されるほど大胆な技術を用いて最小限のコストで建設された。

現在は、1994年に建設された斜張橋(こちらも桁はコンクリート)が主交通を担っており、プルガステル橋は以下のように歩道橋として供用されている。散歩の人や観光客でにぎわっていた。





85年、塩害環境で供用されることの厳しさは、構造物の各所で見られました。丸鋼が使われていました。かぶりの部分の質量が構造体全体に占める割合は、構造物が大きくなるほど小さくなります。従って、耐久性を確保することは構造物が大きいほど容易である、とのフレシネーのコメントが参考文献中にも見られましたが、塩害はやはりフレシネーの想像も超えてシビアな問題であった、と解釈できるでしょうか。






アーチの雄大な姿は、85年の時間を経て、貫録を増していると思われ、しばし見とれてしまいました。アーチの部分も、実は3室の箱型構造になっており、軽量化がなされています。もちろん、鉄筋コンクリート構造なので、アーチの表面には腐食した鉄筋が露出している部分も見られました。





私が一番好きな写真です。



重力に打ち克つための人類の工夫であるアーチ橋で、フレシネーをして『力業』ではない、と言わしめたプルガステル橋が85年前。その65年後に1994年に完成した斜張橋はいとも簡単に河を超えていきます。プルガステル橋の後、フレシネーが心血を注ぐプレストレストコンクリートの技術が、この斜張橋にももちろん使われています。この二つの橋を並べてみることにより、人類の挑戦と時間の重みを感じることができました。









以下は、プルガステル橋の近くにあった説明です。



ブルターニュ地方全体で、アジサイがとてもきれいでした。



以上、今後も加筆をすると思いますが、第一報としてブログに掲載しておきます。