皆様、明けまして、おめでとうございます。私はパソコンを使って文章を書いて、それを、他人に読んでもらうという生活をメルマガ+ブログで、すでに、25年間続けているのですが、2011年までは、ちゃんとお正月用、文章を書いたものです。
しかし、最近では敵からの脅かし策が頻発していて、追い詰められているものですから、お正月といえども、政治的文章を書き続けている次第です。この一文は、将来カリタス小通学バス襲撃事件とか、飯能市の、外人一家殺害事件とか、宮台教授傷害事件へと、連携していくはずの、端緒にあたります。連続五回のシリーズでした。
なぜ、増田忠さんの息子さんが、父親に冷酷だったのか? の謎が、お正月が明けてからやっと解けました。あの日吉の家の土地が、妻=ママから、遺言書相続で、息子さんに直接わたっていて、増田忠さんは、あの新しいビルに、自分が家賃も払わずに、住まわせてもらっているという、肩身の狭い立場であったのだろうと、思い至ると、あの不思議なセリフの数々が、腑に落ちるのです。
もし増田夫人の前の夫である忠さんの兄が、戦死だったら、忠さんの不幸は、戦争の被害の一つだったとなります。
ただ、私が、哲学的に言いたいことは、・・・・・・カッコウつけだけで、人生を送ったら、つまらないですよ。と言う事。人間を信頼しなさい。みっともない形でも、そこに真実の愛があればいいのです・・・・・とも、・・・・・でも、真実の愛がなかったら、だめですよとも。
増田家は、大変、上品で、カッコウの良い家でした。だが、弱り切っている父親を、社会的に地位や名誉のある息子さんが、あれほどに、粗末に扱うのが不思議で、どうしてなんだ?と、考察していったのが、このシリーズです。
パパが、ママのセックスに関する失礼を許さなかったのが、諸悪の原因で、それがママ側の再婚の原因が、忠さんの兄の戦死に在ったら、戦争がいけないのです。兄の方がよかったと、つい、増田夫人が示した結果、長ねんにわたって、夫に無視され続けることになったかもしれません。増田忠さんは、奥さんを殴ったりして、言う事を利かせるタイプではありません。風と共に去りぬの、メルファーラー風の紳士です。でも、優しそうに見える人ほど、扱いは、難しいものですよ。そして、ずっと、パパから、無視され、避けられ、逃げられているママに、息子さんが強く同情し、ママと連携していたことも、ママ亡き後の、パパへの冷遇に連結するし、ママの実家が、日吉の土地を買ってくれていて、土地の名義が、ママの物であり、そのママが、パパへの秘かな復讐として、遺言相続の形をとり、土地全部を坊ちゃんに相続させると書いて居たら、増田さんは、自分が住んでいる土地を、住んでいるのにもかかわらず、売る事を迫られて、安全な終の棲家がない形となりますね。真実は、そうだったのではないかと、最近、きがついたのです。
定年退職後、10年間は、それでもよかった。退職金を使って、クラシック音楽の世界に、毎日、のめり込むことができたから。ただし、音楽会の切符は高いし、その件で付き合っている自由が丘とか、田園調布の、マダム達は、裕福で、お昼を一緒に食べるにしても、高いお金がかかるしで、75歳ごろから、退職金はなくなってしまったのでしょう。そして、愛情のない息子さんが、パパの死後、そのスペースを、賃貸に出せる様に、隔絶した壁で、疎外されているワンルーム形式の、30平米程度のの狭い居宅の中で、体を自由に動かすことが出来ず、結果、腰に痛みを伴う、症状が出て、かつ、90度曲がってしまって、非常に苦しい状況だったのに、お正月でさえ、一緒に食事をとらない坊ちゃんは、それに、気が付かず、でも、忠さん側から、「助けてくれ」とぼっちゃんに、甘えることもできず、かつ自分のお金だけで、私立の、老人ホームに入る事も出来なかったのでしょう。
危うく孤独死に至るところだったと思いますよ。お子様所有のビル内で、です。マンションではなくて、自分と息子一家だけが住んでいるビル内でです。大変みっともない話となります。だから、私のやったことは、忠さんだけではなくて、お子様も救ったのです。ただし、表面的な部分しか考慮に入れないお子様方は、私を恨んでいるでしょう。
私は、「増田忠さんと比較して、自分の生活が万全だわ」とは思っておりません。ただ、精神の修行は、常に、続けておくことと、肝に銘じています。つまり、何が起きても、又誰からも、見捨てられても、平静でいると言う、覚悟をして置くと言う事。
この雪の下のご近所様に、「私はお金が無くなったので、週一回、お宅で、お宅のお昼を分けていただいて、ご馳走してくださいませんか?」などとは、口が裂けても言わない事。あ、は、は。そんなことをしてはいけないのは、当たり前の話ですが、増田忠さんが、私に対して、やっていたことはそう言う笑い話に似ています。
それ以外にもいろいろなことを修行し、覚悟をして置くことが必要です。大変、大変、もう、81歳ですから、私の、残り時間が足りないねえ。テレビでは、角野栄子さんとか養老孟司先生などの、幸運で、幸福な人ばかり、出てきます。でも、マスメディアで、有名人となっていない、だから、特別な高収入がない、普通の人は、大変ですよ。どんなに学歴や職歴が良くても、そして、上流階級の人だなあと見えても、それだけで、幸運が、満ちて来るわけでもない。
3日の午前二時にやっと完成へと持っていけました。まあ、暫定的完成ですが。
・・・・・というまとめ型文章を、3日の午前一時半に冒頭に入れて、初稿の先頭に戻ります。
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前報
が、増田忠氏分析の4ですが、これは、その続きとなります。
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副題1、『1953年ごろ増田家では、お節料理を作らないと決めていたそうである』
例の蒲田で、お風呂屋さんを経営していた奥さんが、それが戦争で、焼失してしまったので、ご主人が働かないこととなって、生活に困っていたころ、100m程度の近傍に住んでいたので、母が、説得をして、「どうか、我が家で、お手伝いをしてください」と頼んだのです。そういうわけで、彼女は、私の母が見つけてきた人材なのですが、うちで、その人が働き始めたとたんに、増田夫人が乗り出してきて、一種の横取り(?)をしてきて、共有のお手伝いさんとして、一週間を二分して、同じ人を雇う事となりました。そのお手伝いさんは、・・・・・増田家の生活ぶりを異様だ・・・・・と、感じていて、我が家にあれこれ、伝えるのですが、お正月についていえば、
「ね。ね。奥さん(うちの母の事)、増田さんってね。お正月におせち料理を作らないんですって。・・・・・うちはパン食の家だから、お節料理は作らない・・・・だそうよ」と、言うのです。これは、1952年から1954年までにお話なので、それは、ちょっと異常でした。まだスーパーなどはなくて、日吉では、チーズも手に入らない頃でしたから、パン食主義と言っても、クリスマスにしろ、お正月にしろ、お祝いにふさわしい、七面鳥料理とか、鶏でも、丸焼き用の生ボディが、売っているわけもなくて、もちろん、ケンタッキー・フライド・チキンなど、店舗そのものが、入ってきていない時代で、豪華な西洋料理などを準備できるわけもなく、日吉でも、材料がてにはいる(和風)のお節料理を作らないと言うのは、異常でした。まあ、自由が丘にまで、行けば、いろいろ準備ができたと思いますが、お正月、5日分ぐらいの家族四人の食事をパン食で、豪華に繕っていくのは、無理だったと思います。
私とか、我が家って、増田夫人から、相当にプレッシャーを与えられています。無論、お手伝いさんも小ばかにされ切っていたでしょう。だから、反発があって増田夫人の批判を我が家で、語っていたのです。特に増田夫人って、専業主婦です。だから、26坪程度の狭い家の中で、お手伝いさんに、トイレの掃除や、部屋の床を磨かせている間、奥様の方は、優美に編み物などしているので、さらに、永別をされていると、感じたと思います。
精神的にも、嫌な態度をとった人だと思います。増田夫人って、刺繍や、編み物で、自分の生徒になった奥様に対しては、「あなたは、私とは平等です」と言う態度を示していたけれど、自分の生徒ではない女性に対しては、『お宅って、我が家より下でしょう』という感じの扱いをする人だったと思います。それが、通らない水沢勉氏の母君に対する微妙な競争心については、1997年に始まった、ご主人・増田忠さんとの私の第二期交際時で、忠さんが話すことを聴いている右飛に、私の方は、感じました。
増田夫人が我が家に対して、競争心を持って居たり、軽蔑心を持って居たりしていた可能性ですが、前報の副題αで、語っている学芸大学付属小学校に、ご長女様をごり押しで、いれたエピソードだけでも証明できると思います。五年に今からなると言う段階の春休み突然に、編入試験を行ってもらって、編入したのです。おかしい。変ですね。
私は、それを知っていても、今までは、あまり書いて居ません。いやなことだから、書いてこなかったのです。特にCIAが絡んでいる問題でもないですから。
でもね。増田夫人に、あえて、味方して言えば、増田夫人が、外国人との混血であって、日本料理の作り方を母親から、教えてもらっていなかったと、仮定すると、・・・・・おせち料理の作り方を知らないから、お節料理を準備しなかったとなるのです。
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副題2、『ここで、総タイトルに書いている通り、彼女が、ロマノフ王朝の、暗殺されたニコライII世に、ごく近い貴族として、日本に亡命してきた白系ロシア人の、二分の一混血、または、四分の一混血だと仮定すると、
あの見下しぶりを理解できなわけでもありません。
お手伝いさんが、我が母の方を上に置いていて、増田夫人をなんとなく毛嫌いしていたのは、増田夫人から常に見下されていて、それを怒っていたからでしょう‥・・・と、理解がいたってくるのです。しかし、ロマノフ王朝は、イギリスとかドイツと近い親戚関係があったので、日本には、亡命をしないでしょう。そうなると、増田夫人はロシアに、少数生まれていた、チャイコフスキーなどの、インテリの家庭の人とかか、トルストイ級の貴族の、出自がある‥・・・かもしれないと、なって来ます。でも、それで、私とか我が家が軽蔑されるのは、納得ができないなあと、なります。
我が家に対してもそうですが、お手伝いさんに対しても、非常に下に置いていたからでしょう。お手伝いをしている奥さんは、戦時中まで、銭湯を経営していて、日銭がたくさん入る家で、お料理など、蒲田の商店街で、いろいろあつらえて、大家族主義で、たくさん買い物をするタイプだったので、小食主義、お上品主義の増田家の、暮らしに対して、「本当は、貧乏だから、いろいろ、食材を買えないのではないの?」と、感じていたと思います。
いや、私も失礼ながら、今では、そういう風に解釈をしています。どうして、そう解釈をするかと言うと、私自身が、サラリーマン家庭(特に夫が増田忠さんと同じ日産自動車勤務の)主婦だから、退職金や年金について、知識があるからです。
これは、お正月にカニもステーキもマグロも準備していた母親とは、違うのです。母程、大量のカニ(ほぼ、2万円から3万円)は準備できません。それに母が作っていたお節料理の、10分の一ぐらいの量しか、準備できません。いろいろ細工して、盛り付けを工夫をして、豪華に見せるのですが、お客さんが、飲み食いする、一分回しか準備できません。母の場合、お客さん同士が、麻雀の卓を囲んで、10時間滞在したとしても、二回か、三回食事を提供できるほど、大量にお節料理を作っていました。
ところで、このおせちを作らない増田さんと言う情報を得た時には、母はまだ、この、二件で、お手伝いさんを共有すると、言う仕組みを捨てて居ませんでした。しかし、増田忠さんが、奥様と、リアルな形で、コミュニケーションをとらず、黒板に書くと言う形で、お知らせをして、靴下が、黒板傍に画びょうで、下がっていたと、お手伝いさんが、私の母に知らせた時は、母はこれは、限界だと思ったらしくて、その家に行き、奥さんの妹さんに、「我が家専任のお手伝いをやってください」と頼んでお姉さんの方には、増田さん選任のお手伝いさんになってほしいと、変更を、決定し、実行をしました。
だけど、これは、お手伝いさんそのものにとって、損でした。増田夫人のお手伝い雇いは、半分は見えでしたね。専業主婦の増田夫人には、大きな収入はありません。シロガネーゼとして、ご近所主婦に、編み物や刺繍を教えても、今のお金で、3000円も月謝をとったら、嫌われてしまいます。レッスンが終わった時に、お茶菓子タイムになる。それを、お当番が買ってくるという程度だったと思います。そのころ、増田忠さんは、プリンス自動車勤務でした。うちの夫は、まだ、私の世界には、登場しません。10歳前後で、呉にいました。だから、増田忠さんのお給料の実態をそのころは、知りません。だが、三菱重工の、エリート様、日軽金のエリート様でも、専業主婦のいる家で、お手伝いさんを雇っていたケースはありません。だから、我が家と共有をやめたら、その元お風呂屋さんのおかみだった姉の方のお手伝いさんを雇うのもやめてしまったと思います。
彼女は、生活費のかかっている立場だったので、気の毒な事でした。私はね。増田夫人を叩こうとしているわけではないのですよ。だけど、増田忠さんを老年期に、非常に冷酷に扱った坊ちゃんの影に、奥様が居たのではないかと思うので、奥様に対して、批判的なのです。普通に日本的な主婦ではないと思うのです。この章では、ニコライ二世の、従兄弟などと言う立場で、ロシア革命が起きる前に日本に逃げて来た、ロマノフ王朝の、お姫様が、増田夫人の祖父母世代とか、両親世代だったら、まだ許せるけれど、純粋日本人で、ただ、お顔が、ソース顔だっただけなら、ちょっと、どうかなあと、言う傾向があったと思うのでした。多数あったと思うのです。
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副題3,『戦争が、影響を与えた、夫婦仲の悪さがあったかもしれないのだ。その夫婦仲の悪さゆえに、フロイトの言う、息子と母の結びつきが、過剰に生成されたのかもしれない。で、母の怨念が、息子さんに移っていたので、ああ、言う風な、父の扱いになったかもしれないと、思うのだった』
男と女が、一組の夫婦関係を作って、子供を作り、老後まで、一緒に過ごして、お互いの生を全うすると言うのが、日本古来の、生活術でした。一種の社会保障策だったと思います。たいていは、お見合いで、結婚をするので、
お互いの実家の、生活レベルは、同等な人を選ぶのですが、昔ほど、セックスという側面は、無視されていたと思います。
戦後ですが、「その夫婦は、外見的には、ほとんど、問題がないと見えるのに、どうして、離婚をするのだろう」と、思われるケースで、弁護士さんが、使う語彙に、「肌合いが合わなかった」と言うのがあるそうです。これは、具体的に言うと、どちらかの、セックスのやり方が、相手の、気に入らないと言う事で、離婚に至る事を上品に表していると、言う事です。
増田夫人の場合、忠さんとは、再婚でした。だが、戦前のお見合いで、結婚をした女性が、子供が居るのに、再婚をしようとした場合、相手が非常に少なかったのです。
2023年NHKは、よしながふみ原作の大奥をドラマ化しました。あの作品は、男の数が、疫病によって、非常に少なったという仮定に、成り立っているわけですが、1920年代(大正)以降生まれの女性にとっては、それは、現実に出会っている現象でした。結核が蔓延していて、デスクワークを希求する(現在でいう大学卒)男性の中には、早死にする、ひとが多かったうえに、戦争が始まったからです。戦争には、1910年生まれから1930年ごろまでに、生まれた男性が、招集され(正式な数は、公になっていないと思いますが)多数の男性が、戦死しました。で、女性にとっては、結婚相手が、非常に少ない時代でした。
増田夫人みたいに、お嬢様育ちで、私は、女中的な仕事は絶対にできませんわ。自分の内のことだってやりたくないほどです。とう人が、子供が居て、未亡人になったら、再婚するしか、生きて行く道がなく、かつ男性が、見当たらないと言うわけです。そういう時に、亡くなった旦那さんの弟さんが、サラリーマンに、なって、中島飛行機と言う大企業(有名企業)に勤め始めました。あの人と再婚したらどうかしら?と、親戚から勧められれば、「はい」と、返事をしたと思います。
で、忠さんの方ですが、お兄さんのお嫁さんだったと、言う一種のお古(洋服の場合ですが)と、初婚として、結婚することに対して、「いやだ」と、抵抗しようとすればできる立場だったと思います。
だけど、10歳前後の子供であった私にとっても、夜11時から、静かで、美しい曲を選んで、ヴァイオリンを弾く、忠さんは、抑うつ的で、若くして諦観を、抱いていた、と、感じ取られましたよ。だから、親戚中から、勧められれば、あまり、深い考えもなくて、「ああ、いいですよ」という形で、結婚をしたと思います。で、無事に二人の生活が始まり、下の坊ちゃんが、生まれた後で、問題が起きたと、私は考えるのです。子供時代には、気が付きませんでしたよ。もちろんのことです。
しかし、数多いエピソードを集積すると、増田夫人は、相当にわがままだったと、理解がされてくるのです。で、
労働が嫌だ。特に単純労働が嫌だ。ご主人の靴下の穴をふさぐよりも、お嬢さんの、ブラウスに刺繍をして、それを着せて、「婦人之友のグラビアに載せたい」と考える人だと思います。なんか、私も強い影響を受けていますね。お掃除は、そっちのけで、ブログを書く、事を優先しています。似ている。だから、増田夫人の欠点が判るのですが・・・・・
で、わがままなところがあるので、坊ちゃんが、生まれて、夫婦関係が、・・・・社会的な契約としては安定しました・・・・・と、なると、そのわがままが、表に出て来たと、私は推察するのです。それが、セックスの場面に出て来て、前の夫=忠さんの兄=の、やり方の方がよかったわと、ボディラングエッジで、示したと仮定しましょう。例えば、忠さんの方が厚くなっている時に、突然、「私の方は、興ざめよ」と、示したと仮定しましょう。
もし、忠さんが、エネルギッシュで、男性フェロモン横溢で、結婚前にも、たくさん、の、行きずりの女性、もしくは、遊びのプロとしての女性と、交流がある男性だったら、奥さんが、セックスの最中に、しらけていたとしても、・・・・ああ、今日はそういう気分なのだろうね・・・・と、考えて、は、は、ハト、笑い飛ばしておいて、3日後に、新しい、別のやり方で、奥さんを満足させて、「はい、一丁、上がり、今週はこれで、OKでしたね」と、笑って終わりだったと思います。
でね。増田忠さんは、ある時点から、奥様と会話もしない関係になったと仮定しましょう。で、夜11時過ぎに帰ってくるのは、私は仕事が忙しいのだと長らく考えて居ました。ところがね。居酒屋だ呑むのが好きだったのですよ。工員さんと一緒にね』と、言う増田さんの言葉を聞くと、「へえーっ。驚いた。そういうタイプには見えないのだけれど、奥様から与えられるプレッシャーから逃れる道として、お酒を単純な性格の人と一緒に飲むのは、救いになったかもしれない」と、私は考える様になりました。
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副題4、『他人からプレッシャーを与えられるという事は、いじめられるという事ともちょっと違うのだけれど、ともかく、その人間が、気にかかる、嫌な存在であることは確かだ。ところで、こちら、雪ノ下二丁目の小さな谷戸の中での話だけど、ほぼ、すべての人間が、CIAエージェントに支配されているので、いじめて来る。または、失礼なことをしてくる。しかし、私は彼、彼女たちからプレッシャーを与えられていると、感じたことは少ない。というのもうプレッシャーと言うのは、相手が徹底的に、こちらより上だと言う確信がない場合は、向こうからは、あたえられない。一生で、もう一人だけ、プレッシャーを与えられた存在があり、これは、新制作会員の、桜井陽子さんだ。こちらも、美貌の人であり、他人に対して思いやりのない、アイスウーマンである。だけど、彼女の優越ポンととしては、美貌しかない。で、増田夫人もそれだけは、確からしくて、癌になって入院した時、絶対に見舞いに来ないでくれと、ご近所人間に頼んだそうだった。
彼女が入院したのは、ときわ台町内会から徒歩10分圏内にある、川崎市立井田病院だったので、ご近所様は、みんな怪訝に思ったそうだ。彼女は、癌にかかり、やせたり、神の怪我無くなったりした姿を、他人に見せたくなかったのだと思う。
ところで、それほど、きれいな女性なのに、お子様方が美形ではない。私は、これも彼女の精神の在り方によるものではないかと考えて居る。だから、前報で、副題1に、我が母の最終段階の覚悟を入れておいた。
ところで、美貌の女性は、ちやほやされて育つので、こういう風になるとして、
増田忠さんが、「僕お金、もうないのよ。で、ちえこちゃん、お昼をおごって頂戴」と言った原因を今考えて居る。我が家を、弟が売った時に、一億一千万円だったらしい。もし、増田さんが、売ったころが、1990年代だとすると、もっと高く売れていたかもしれないのだ。それの半分が増田さんの手に入ったと仮定すると、退職金と合わせて、億を超える資産となる。ただ、自由が丘とか田園調布のどちらかで、クラシック音楽の講義をするサロンを運営していたそうだから、その関係で、お小遣いを減らした可能性はある。
ただ、あの土地が奥様の実家からの一種の持参金として、買ってもらったものだと、仮定すると、増田さんには、一銭も入ってこなかった可能性もある。奥様は、自分の方に最初の原因があるとはわかっていても、長年の間、セックスレスで、かつ会話をも避けられていたとなると、やっぱり恨むのではないかなあ。それに、うちの母なんかと比べるとはるかにわがままで、他人に対して、同情心がない人だから、遺言書でも書いて、土地は、すべて、息子に相続させると、書いてあったら、増田さんには、土地の売り上げ金は、一銭も入ってこないこととなる。
坊ちゃんが、ひそかに両親の不仲を知っていて、それは、原因が、パパに在ると考えて居たら、パパに対する同情心が生まれない。
坊ちゃんは、分野を言わないが、独立して、個人事務所を構えている。国家資格も持って居る人だ。その坊ちゃんが、横浜の中心街に、個人事務所を構えたい。ビルを建てたい。その資金として、日吉の土地を売って、それを資金としたいと、考えて居たのだったら、そして、売る様に坊ちゃんの方から、迫られていたと仮定すると、
私が長らく考えて居た、以下の、方針が、間違っていて、洗濯できない方針だったと、わかっている。しかし、最初、私は、以下の様に考えて居た。
あんな、損な選択をして。駄目だなあ。増田さん、どうして、日吉の家を売ったの? 日吉の家で死ぬまで、一人暮らしを続けた方が、ずっと、幸せだったわよ。最後はあの家を売って、それを、一括払いに充てて、老人ホームに入れば、年金でも、十分に、私立の老人ホームに入れたでしょう。だったら、お子様のビルに住む必要はなかったのに・・・・・と。
しかし、土地全体が、坊ちゃんの物であったとしたら、坊ちゃんが売りたいと言った時期に、「そうですか。わかりました」と言うしかない。
奥様の実家では、娘(=孫)一人だけを抱えて、未亡人暮らしをする娘の面倒を、忠さんに預けることができたので、大変に感謝して、お礼(持参金)として、今では、一億円以上で売れる土地を、当時の金額、5万4千円ぐらいで、買って与えたとしても、甘やかしではなく、理性的な選択となろう。
やっと最晩年の増田忠さんの、厳しい生活の原因がわかって来た。
私の高校と大学の同窓である、榊原節子さんが、財務コンサルタントとなっていて、「子供に生前贈与をしてはいけない」と、言っている。あれ、あれ、あれ。私自身も老後の設計をやり直さないとだめかなあ?
増田忠さんは、期せずして、いろいろなことを教えてくれた。最晩年、私とかかわったことは、結局坊ちゃんに、「お父さんを放っておいてはだめよ」と言う忠告を与える機会になったので、それは、増田忠さんにとって救いになったのだ。
坊ちゃんが自己所有のビル内に、増田忠さんの居住スペースを、自分たちとは、関係がないと言う形で、作っているのはパパが死んだときに賃貸スペースにするつもりだったと推察される。その家賃と、増田さん自身の年金を合わせれば、私立の老人ホームに、一括金なしでも、入ることができる。そういう風に事が運んだだろうか? 心配だけど、私を悪者にして、
自分たちが、パパを放っておいた罪を、消し去ろうと考えて居る。
人の行為には、無駄なものはないのだ。私は、大損をした。が、自分の行為が、増田さんを救ったと、考えて居る。それはよかった。増田夫人や、坊ちゃまより、増田さんを、心配していたことが、正しい結果を招いた。増田さんは、もう三階まで、鉄製の外階段で、あがることが痛くて、苦しい段階だったのだから。
ただ、増田夫人がどうしてあれほどに、他人をさげすむことができるのかが判らない。
で、・・・・・ロマノフ王朝の、血を引いているのだったら、許せるけれど、トルストイ程度の貴族だったら、許せませんよ・・・・・・と、もう、間に合わないけれど、ここで、言っておこう。
私はね。「増田さん、もう、電話をよこさないでください」と宣言して、こちらから、切った形になっているわけですが、実際には、その15年後の今でも、気にかかっているのです。増田さんの魂魄って、まだ、落ち着く場所を見つけられていないと、思っているからです。日吉のご近所マダム沢野夫人と、寺沢夫人に、悲しみを打ち明けたとしても、あの二人には私との、真相を、告げている筈がないのです。だから、あの二人に、私の悪口を言ったとしても、心は、晴れやかには、なっていないでしょう。私が、どうして、そう考えるかと言うと、増田忠さんは家族や、家庭の悪口は、全く言わない人でした。私が、このシリーズに書いたことは、すべて、増田さん自身の、腰が、90度曲がった姿を見て、また、腰が痛いと言う言葉を聞き、最後に、横浜山下町、産業貿易ホール(神奈川県民が、パスポートを発行してもらう場所)10階の、東天紅で、写真を見せられた、そういう情報だけで、推理した状況です。私は断片を集めて、全体像を探っていく演繹の能力が、特に高いと、東大に勤務している時代に、教授から、認められた人なのです。
増田さんが、住んでいるビルが、もし、建蔽率60%で、容積率200%の、地域に建って居るのだったら、ワンフロアーが、100平米ぐらいの三階建てになる筈ですが、屋上にあがる事の出来ない形式です。もし建蔽率が、40%だったら、(横浜の中心街・中区でも、そういう地域がある可能性もあるので)ワンフロアー80平米ぐらいになります。今、売地で、100坪以上は、必ず、マンション用地とされるので、息子さんが、買った土地は、広くても60坪だと思われるので、上の様な計算となります。で、一階を、夫婦二人のそれぞれ、独立した個人事務所に充てるとすると、2階だけでは、お孫さん三人の個室をとることができないので、三階にも、お孫さんの個室が、とってあったと思います。だから、増田忠さんが使うスペースが狭くなっていたのです。ベッドの後ろが壁だったので、反対側は、窓でしょう。すると、たんすとか、本箱とかを置く場所がないです。2DK50平米ぐらいあればいいけれど。もしそうだったら、ベッドの上に、パイプを設置する必要はないと思いますけれど。で、33平米占有のワンルームだった様な気がしています。ともかく、あの部屋で、増田さんの気持ちがリフレッシュしたとは、思えず、増田忠さんの魂魄は、いまだに、宙をさまよっていると感じています。私は、このシリーズを書く事によって、増田さんの、魂魄を背中に背負ってしまった言ってよいでしょう。重い。重いが。
私が前報で、母が、老人ホームで、93歳を迎える直前の、二か月、何も食べないと、宣言しまたことを前報の、最初に取り上げています。母は死ぬことを恐れて居ませんでした。だから、母の魂魄は、落ち着いていて、どこに向かうか、知っていたのです。私は、母のことは一切心配せず、ただ、ただ、他人であった増田忠さんの方を心配しているのでした。
高校時代、電車の中で、いろいろなことを教えてもらった恩は忘れられないからでした。
2023-12-31~2024-1-3にかけて、これを書く。雨宮舜(本名、川崎千恵子)