私は、一つの章に、いろいろ、入れ込めます。この章も同じですが、分けようと思います。元の総タイトルを、二回目として、HARAKIRI and Concept as ALL or NOTHINGを使っておりました。でも、分けるのと同時に、総タイトルを変更しようと思います。
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副題1、『わたくしは、非常に頭の良い方=東大院卒で=霞が関で、長らく理系官僚をされていた女性から、予言者と、呼ばれていた』
私は、一般の方よりも先行して、物事がわかる人です。最近のヒット作は、
林真理子は、近々(ただし、五年はかけるはず)総理大臣になるだろうという発言です。
私が大好きだった、メンター・旧姓西大寺さんは、2005年ごろだったかな。葉山の美術館の開館記念展に、一緒に行きましょうと誘ってくださった帰り、私が、掃除ができていないのでと、嫌がったのにもかかわらず、アトリエを見にいらっしゃったのです。
次の日にここに、紫色のフォントで、少し加筆します。西大寺さんは、葉山の開館記念展をご覧になって、「どうして、あなたの絵がここに、かざってないの?」とおっしゃったのです。西大寺さんは、国展とかで、私の作品を、見てくださっていて、そのうえで、そうおっしゃってくださっているので、それは、ありがたかったです。
私は、1965年から、CIAに「頭が良すぎるので、活躍をさせてはいけない。日本を真の独立国にさせてしまう人材だ」と思われているので、浮上ができないのです。ここですが、それを詳しく説明すると、10万字ぐらい優にかけるのですが、今は、キャサリン妃の、問題を論じている最中なので、あえて、口をつぐみます。
ここですが、2日の夜は、あまりにも疲れていたので、詳細を書きませんでしたが、旧姓西大寺さんは、私の不遇ぶりを憐れんで、
『預言者は、世に入れられずだわね』と、おっしゃったのです。これは、本当にありがたい言葉です。なお、なぜ、予言者という言葉が出たかというと、旧姓西大寺さんはカソリックの信者です。一方のわたくしは、国際基督教大学の卒業なので、こういう語彙が、日常でもすらすらと、出てくるのでした。でも、カソリックの関係で、井上ひさしに私は負けて、旧姓・西大寺さんは、私を捨てたのでした。なお、ここで、捨てたというのは恋愛感情の問題ではありません。旧姓・西大寺さんは、りけじょ中のりけじょだし、・・・・・それでも、人文科学系のことも、よくわかる頭の良い方だったので、とても、会話が楽しかったのです。
昨日も全く偶然に、
横浜国立大学附属中学校卒、日比谷高校卒、教育大学卒の女性と出会い、2時間半ぐらいお茶しましたが、楽しかったですよ。茗荷谷(丸の内線の駅)周辺についての思い出も、ぴゃぴゃぴゃっと通じるし、横浜・本牧・立野の丘周辺についても、何もかも通じるのです。
茗荷谷は、彼女にとっては、大学時の通学用駅で、私にとっては、高校時代の通学用駅でした。で、茗荷谷を小石川の方へ降りていくと盲学校があってとか、すべて、具体的に、話が合うのです。
::::::::ところで、ここで、ちょっとした挿入に入ります。朝ドラは、ブギウギで懲りてしまいました。あのドラマは、京アニ放火と関係があると、私は言っています。その続きを書いていませんが、まったく見るに堪えないドラマでした。趣里が、ミスキャストです。ダンスができるとか、歌が、歌えるといっても、笠置シズ子の柄ではないです。でも、趣里の所属するプロダクションの社長・渡辺万由美さんが京アニ放火の八田英明社長と、宮崎駿氏を結び付けたので、趣里が、優遇されているのですよ。CIAエージェントたちにです。CIAエージェントたちは、100%NHKを支配していますので、
ところで、それに凝りているので、朝ドラ【虎に翼】も見るつもりがなかったのです。でも、火曜日に主人が見ているのをちらっと横目で見たら、セーラー服の少女が出てくるのですね。ウエストで、バックルが見える。で、あれっと思って、三淵嘉子で調べたら、やっぱり、お茶大付属高校出身でした。で、そこ卒業のわたくしは、茗荷谷駅を使っていたというわけです。::::::::
ところで、グーグルとか、そのほかの検索システムで、三淵嘉子を引くと明治大学は出てくるが、お茶大付属高校の方は出てきません。これはきっと、前田清子さんのお嬢さん(現在50歳か51歳の筈)が、湘南高校卒、東京女子大卒、フランスリヨン大学留学、明治大学教務部就職、現在明治大学教授と、言う経歴だから、それが、我が家の子供たちより、ずっとえらいので、それを、さらに強調する目的があって、明治大学という部分だけが、表に出ているのだと思います。グーグルの検索の方ですよ。
でもね。千葉景子(2010年ごろ、法相だった。中央大学卒)さんが、死刑場を公開したころ、中央大学卒という学歴しか出ていませんでした。ところが、2000年を過ぎて、私が、千葉景子さんについてあれこれ、書かなくなったら、急に卒業高校の名前と、卒業中学の名前が、グーグル検索で、wikipedia と、して出てきました。卒業高校は、学芸大学付属世田谷でした。学芸大学付属は、1950年代は付属高校が、3つもあったのです。私は、彼女があまりに、伊藤玄二郎の言うことを素直に聞くので、すっかり彼の平沼高校時代の後輩であろうと、思い込んでいました。違いました。
そして中学は、横浜国大付属中学だったのです。驚きました。というのもね。横須賀線の先頭車両に乗り込んで来た時の彼女のふてぶてしいこと。そんな人は、付属中学卒業生の女子の中にはいないと思います。まあ、大臣を経験するとああなるのかしら? 本当に信じられません。平沼高校卒で、その前は、横浜市立中学で、山下公園、ホームレス殺し(ゴミ箱に入れて、引っ張りまわして、殺した)の中学生が、卒業したのと、同等の中学卒業だろうと10年間は、思い込んでいました。が、後輩だったのです。
どうしてああなっちゃうのだろう。ところで、それは、横須賀線社内だけではなくて、私の居住地の、この山の人も、同じです。安野智紗夫人の手下になる限り、大変に下品になるのです。信じがたいです。我が家なんか、八幡宮のぢ境地主だから、一応、ここは、ブランド住宅街ということになるのでしょうが、一から十まで、信じがたいことばかり起きるのです。
千葉景子さんのケースは、伊藤玄二郎か、彼の影響を受けるとあれほど、ふてぶてしく、人を小ばかにした態度がとれるらしいです。それに心底驚いたのは、この人は、私の下の六期下の横国大付属中学の、後輩でした。だけど、電車の中に、わざと、乗り込んできてね。厚化粧(これは、私がいつも、まったくすっぴんで、化粧をしない人なので、それに対して、威張るためでしょう。つまり、化粧品は、お高いのです。それをあなたは持っていませんね。でも、私は、大量に持っています」と、千葉景子さんは、言いたかったのでしょう。偶然ではありません。私は、東横線のスピードが、最終車両(8両目が、駅を出るときには、すでに100キロになるのに驚いて、横須賀線の、走行スピードを知りたくて、一番前の車両のしかも、運転席そばに乗っていたのです。後ほど、卒業生名簿を見て、彼女は、保土ヶ谷駅を利用する人だと知りました。彼女が私の顔を知っているのは、寺島しのぶのケースや、福島瑞穂さんのケースと同じく、ある会社のホーム頁のトップ項目として、その会社の称揚文を書いていたからでした。私は、そういう風に悪用をされることがわかっていたのですが、その会社と縁を切りたくなく出、我慢をしていたのです。でも、5人のそれ以前には、顔を合わせたことのない有名女性に、そのホーム頁が、悪用をされてしまいました。角野栄子さん、福島瑞穂さん、千葉景子さん、寺島しのぶさん、樋口恵子さんです。
元へ戻ります。千葉景子さんに、なめる様に、軽蔑的視線を浴びせられた日に戻ります。
ここで洋服や化粧についてけなしているのは政治的な理由があるからです。それについては、次の章からいくつかかけて説明をいたします。
その日、彼女は、絹でできたツーピースを着ていました。その高価さで、私を圧倒しようとしたのでしょう。だけど、働く女性、しかも、本職は弁護士だったら、ウールが、一番、適切ですけれど・・・・・と、私は思います。絹って意外といろが焼けてくるので、古っぽく見えるのですよ。数年クリーニングに出していない様に見えるのです。最高に品がよくて、かつしっかりした洋服とは、ウール100%のダブルジョーゼットで作ったスーツです。今では、普通では、売っていないです。ほとんど薄い生地で、ポリエステル、混紡の生地でできているお洋服ばかりです。高級ブランド店には、ウール100%の、お洋服が、あるみたいですが、刺繍などが入っていて、50万円以上はしますので、代議士は、着てはいけません。週刊誌のネタになって一般庶民からの、人気を失いますので。
こういう風にシャーシャーというのには、理由があります。6歳も年上だとわかったし、私は、ありとあらゆる人から、お母さんみたいない人だと、言われていますので、ご忠告をさせていただきます。
ただ、ただ、あの日の人を小ばかに仕切った、生意気そうな眼付だけは、忘れられません。テレビで、記者会見をするときの顔とは、まったく違っていて今でも、忘れられません。10年後の、2020年ごろ、ウィキペディアを見て、初めて、六期下の後輩だということを知って、ただ、ただ、信じられない思いでしたよ。
ただ、これが、2010年では終わらない問題なのです。安倍晋三氏を殺した山上哲也の伯父は、弁護士ですって。伊藤玄二郎は中央大学法学部の出身です。それで、まず、叔父を見つけて、その後、問題を抱えたおいがいるということを電話の盗聴とかで、見つけて、山上哲也を、選び取ったのでしょうが、その人物に連絡を取ったのが、千葉景子さんだったら、大ごとです。でもね。2010年ごろの、伊藤玄二郎と、千葉景子さんの、強い結びつきを考えると、あながち的外れでもないかもしれないですよ。ただ、これは、傍証付けは、まだないと、言っておきます。想像だけの段階です。
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元に戻ります。教育大学と国際基督教大学はカラーが違います。それから、お茶大付属高校と、日比谷高校もカラーが違います。でも、中学が同じということは、一気に親しさが燃え上がるということなのでした。12歳から15歳までって、本当にみずみずしい感性を持っている時代ですからね。思い出もいっぱいです。
横浜・本牧・立野の丘。今は、そこは星光学園の本拠地で、付属中学は弘明寺に移転をしてしまっています。元・横浜国大・工学部にね。でもね。1950年代の付属を知っているというだけで、本当に胸襟が開くのでした。旧制・女子師範学校の豪華でどっしりとしたビルの一部を使っていた付属中学のありさま、校庭にあった温室の事、英会話の先生(アメリカ人女性で、フルブライトの交換留学生として来て居た人)のことなど、全部共通するから。そして、ひいきをする先生とか、いじめをする先生とかの話とかも、全部同じ先生で、共通する内容だから。
TI先生の奥様が芸大出で、お金持ちのお嬢様で、夫の靴下を洗ってくれない話とか。「TI先生は脂性でしょう。だから、奥様はそれがいやなんですって。先生は自分で洗って温室で干していたの」と私がいうと、「あ、その奥様って、私、知っているのよ」と彼女がいい、「奥様の化粧品が高いので、先生は、私塾を開いて、小学生を教えていたのよ。で、付属に入学させます。千葉景子さんは、きっとそこの塾の出身よ」と、私が言うと、「え、それって、ルール違反じゃあない?」と、彼女が言います。これらは、すべての先生が、すでに亡くなっていると思うので、自由自在に語れる話でした。
(なお、ここから蛇足という部分へ飛びます)
で、私は、しみじみ思いました。神様は、私を見捨ててはおられないのだ。私は、井上ひさしとか、旧姓西大寺さんが、信じているカソリックとは、違うが、ともかく、天上におられる方に、本当に見守られ、愛されているのだと感じました。今は、現実的に言って、大変に不幸な段階にいます。が、時々、このような、真実楽しい思いを味わえるからです。
楽しい会話ができるということは、とても大切で、そのためには、共通する過去の経験があるということも、とても大切で、子供時代が大切なのでした。したがって、カミラ夫人とチャールズ国王が話があったということも、ウィリアム王子が、今、親しくしていらっしゃる貴族階級の既婚レディとも、話が合うという、紐帯があるのです。そして、そこにキャサリン妃は入れないのでした。元、貴族ではないから、背伸びがあるので、ゆとりがないのでしょう。真面目なのです。でも、そのまじめさを今のウィリアム王子は、嫌いなのです。
かわいそうですが、事実だし、それゆえに、キャサリン妃の絶望も深いのでした。だって、42年間の、生活の差ですよ。精神のあり方の差です。ここでは、優等生であることがかえってマイナスなのです。面白みがないと、ウィリアム王子は、キャサリン妃を思っていて、ただ、ただ、義務として付き合っているという形だったでしょう。
で、いろいろ時制が飛びました。が、葉山の美術館開館記念展の時代に戻ります。その日、旧姓西大寺さんがアトリエに来てしまったのは、お掃除ができていないので嫌でした。しかし、6畳二間、+12畳があるマンションでも、西大寺さんと語り合う場所は、流しの前、1mかける2mしかないのです。それほど、大量の作品を私は四年間で、制作しているのでした。すごい修業時代だったのです。でも、浮上できない。で、お金も稼げない。で、深い同情を持って、西大寺さんは、「預言者は、世に入れられずだだわね」と言ってくれたのでした。その言葉は心底、ありがたかったですよ。
実は、予言ができても、それをほとんど公開しません。そして、当たった時にも語りません。しかし、本日は語ります。それを語るのは、予言の実現がないことを願って語るのです。つまりキャサリン妃が殺されない様に願っているから、語る章なのです。
と言ってここからキャサリン妃について、話を始めます。五回目としてです。だが、その部分は、別の章に回します。横浜国大付属中学の思い出とか、お茶大、付属高校の思い出からは、相当に遠い話だからです。
(蛇足)、
1958年に、入学したときに、付属中には、すでに、数え歌ができていました。先生がたの特徴をとらえた、歌詞です。
いちーは、石井のがんもどき、(石井先生は、社会担当でニキビの跡が残っている様な肌だったのです)
にーは、西川うまっつら。(「西川先生は教育大学の卒業だから、本当は、付属中にまねいたのはいけなかったのです」と、当時の校長、原弘道先生は、おっしゃいました。実際に西川先生は、神奈川県立光陵高校開設と同時に、そちらへいらっしゃいました)
さんは、佐藤の禿げ頭。(国語の先生で、教頭先生が二人いらしたうちのおひとりでした。私はお世話になった思い出があります)
シーは、白井の白井権八 (体育の先生でした。私は体育には才能がない方だったのであまり、思い出がありません)
いつつ、いたくら、鬼面、間者、(怖い先生だったのです)
・・・・・・・
ここのつ、クモイの、天平美人(音楽の先生です。私は音大に進むなんて言う生徒ではなかったし、中学の時に、前歯に近刊をはめてしまったので、口を開けるのを嫌がって、ものすごい恥ずかしがり屋だったのですが、集団で歌っていても、声がすごく良いということに気が付いていてくださったとも思います。試験の時に、恥ずかしがって歌えないのに、ずっと待ってくださいました。これは、高校の時の別の先生も同じです。クモイ先生に戻ります。クモイ先生は、声とともに、私に、楽曲を文章にする才能があることにも気が付いていてくださいました。そういう宿題が出て、それについては、抜群の才能を発揮していて、それには、気が付いてくださっていたと思います。ひそかにですが、かわいがっていただいたと、記憶をしています。)