私は以下の様な文章を書くことが好きなのです。思考を要するからです。
そして、これは、実は、この8日(今から、4日前)の、午後に書いていたものです。副題3まで、書いていました。しかし、写真を探しているうちに、とんでもない別のことを語り始めたのが、前報(あと注1)です。其を4日間も、さらしていたわけですが、後半にすごいことを書き足していました。ものすごいことをです。わたくしは、深い、深い真実を書くときに、こういう風にさりげない形をとって、自己宣伝をしません。いや、自分がその日に書いたことを、宣伝しません。わざと、目立たない形をとります。
寛容な読者が、「この人って、ずっと、同じものをさらしている。怠け者ではないはずだから、何か、裏に、謎か、秘密があるのではないかなあ?」と、考えてくださって、そういう方、丁寧に、ご覧になるなら、驚くべき内容を発見なさるでしょう。それで、いいと、覚悟を固めています。それだけで、十分だと、考えています。大体、いつも言っていますね。これは、神様への貢物として書いていると。それだけでも、十分ですし。
そういう形で、少しずつ、深い深いところに踏み込んでいっているのです。
実は、日本では、深い深い真実を書いたりすることへの、激しい言論統制が、実行をされています。真実を書いたり、発言したり、すると、お金を稼げません。貧乏になるだけではなくて、時には、命を狙われます。だから、深いこと、特に秘匿された真実を書くことは、実際問題、命がけと、言ってよいほどなのです。
わたくしはテクニックとして、こういう書き方を採用しているわけではなくて、神様が、書かせてくださることを書いているという手法ですが、時々、澄んだ心で、透徹した、ことをかけるのでした。
ただ、本日は、後注1の、後半に現れている、その政治的に、特別に、深いところを、さらに、敷衍して深めるのではなくて、ぼんぼり祭りに関して、昔、美術家として、特に、私の心へ訴えた、エピソードを語ります。或る時に、ご本人から、それを聞かされ、ご本人と同じ様に、もしくは、それ以上に、心を、痛めたエピソードです。
それを30年以上たった、今年、思い出したので、それを書かせてくださいませ。
そういう方向にテーマが流れたのは、2022年8月7日に、鶴岡八幡宮のぼんぼり祭りを見たからでした。そして、そこに、ヌードを、表現をしてあるのですが、その悪くすると、直接的にもたらすであろうエロスを一段も二段もカモフラージュしてある、そういう作品を発見したからでした。
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副題1、『昔、駅前で、鶴岡八幡宮に対する恨み言を、ある画家から、聞いたことがあった。その恨み言に、自分が関係しているのではないかと、ひそかに、思った私は、それ以来、ずっと、悩み続けてきたのだった』
あれは、1980年代だったと思います。私は、1984年に、鎌倉へ引っ越してきたのですが、父が、戦時中、満鉄の調査部で石油開発技師をしながら油絵を描いていて、高い評価を得ていました。それを書いた、新聞記事の切り抜きが、11枚ほど、全部、我が家から盗まれいて、国会図書館でも、マイクロフィルム化と、その劣化を理由に、探索することができないのです。
ただ、その父ですが、戦後10年以上のブランクを経て、鎌倉美術家協会展に、また、油絵を出品し始めました。桜木町で、展覧会をしていたころです。それは、50に入ってからだったので、10号から、30号でしたが、10号を、1960年代に、「10万円で買いたい」という人が現れました。しかし、父は絵を売るということはしませんでした。趣味のこと、または、文化的な部分で、お金を稼ぐなんて、とんでもないという考え方の持ち主だったのです。その父の絵の写真を探しているうちに別のものが見つかり、そちらを敷衍させて、一章を書いています。あと注1へ、
で、二次会(お茶でですよ。お酒ではない)などにも出席していたので、鎌倉美術家協会の、1990年代ごろまでの、所属作家をよく知っていました。父がパーキンソン氏病プラス脳挫傷で、動けなくなって、ご縁が切れたのちに、渡辺幸子さんなどが、会員になっていくのですが、
わたくしは、それらの画家を知っていながら、鎌倉美術協会展に出品するつもりはありませんでした。中学生ごろから、鼠色の外観だった、都美館に出入りして、各種の公募団体展を見ていたわたくしは、日展は好きではなくて、その日展を、最上の段階とする、鎌倉美術家協会に、出品する気はなかったのです。
でもね。ぼんぼり祭りに、父がよく名前を挙げていた、柳沼智恵子、成田敬子、安藤尚子、などの女流画家が、出品をしていたので、それで、顔見知りになったのかな? ともかく、この三人と、もう一人、増田・某・氏という男性画家の四人と、鎌倉に来てから、知り合いました。そして、父の名前を出すと、増田さんは、ほーっと、言う感じで、仲良くなってくれました。
増田という苗字だと、すぐ、忠さんが浮かぶので、ほかの人の、下の名前を忘れがちになります。この人ですが、もし、現在存命だとしても、90歳を超える人なので、今から、書くことがご迷惑ではないと、信じるのです。それに、その人をけなすために語ることではなくて、わたくしが瀬島龍三に、いじめられていることの、一つだと、語るので、その人の名誉回復にも役立つからです。
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副題2、『増田さんの方が、三人の女流画家よりも年上らしいのに、ぼんぼり祭りの参加は後れを取ったらしいのです。で、奉書紙が、増田さんの家に届いたときに、・・・・・やっと来たか。長年、待たされたなあ・・・・・ということになったので、増田さんは、張り切ったらしいのです。で、「自分の画家としての力量を、ここで、見せてやる」と、特に、張り切った結果、ヌードを描いたそうです』
ここで、俺の力量を見せてやると、張り切ったのは、マスメディアに乗っている、有名画家と、比較をしたときに、どうして、自分が、有名人になれないのだと、言う疑問を長らく抱いてきた人だったからでしょう。
わたくしは、15年ぐらい前に、それに気が付いたのですが、有名人になり、メディアに乗っかるためには、男性なら、ある時期の新宿とか、ある時期の六本木で、お酒を飲む必要がある模様です。そこで、できた仲間の力とか、紹介で、浮上できる。だから、すでに、50を過ぎていて、六本木に出入りするには、分別が付きすぎている増田さんは、もう、横尾忠則になるチャンスはないのです。で、現状を言えば、マスメディアに登場する様な、有名人ではありません。そこが悔しかったのでしょうね。どうだ、俺の画家としての力量は!と、誇りたかったのでしょう。それゆえにヌードをぼんぼりの上に描いたそうです。
増田さんは、美大を出ていないのでしょう。年齢的に、戦争が、からんでいると、大学へ、進学ができなかったという世代は、あるのです。その上、美大を出ると、普通の道からは外れて、収入がないこともあるので、両親が、よほど、お金持ちではないと、進学を許さないものです。
わたくしはね。増田さんが、美大を出ていたら、ヌードなんか、奉書紙の上には、描かなかったと思います。受験の過程とか、学科の過程で、何十枚も描くでしょうから、50代を超しているのだったら、すでに飽き飽きしている画題だと思うし。それに、「画家の力量はヌードで、判定できる」と、言うのは、どこかで、はやっていた、金科玉条だと思うけれど、ちょっと古臭いです。
だけど、増田さんが、まじめだということと、どれほど、ぼんぼり祭りという場を、大切に思っていたかが、わかるのです。だから、「ヌードを描いたから、没にされたらしい」と、聞いて、それは、本当に、つらかっただろうと、理解ができるのでした。
まず、待っていましたと、感じた際には、奥さんには、「やっと来た」と、おっしゃるでしょう。すると、奥さんは、高齢だから、もし、お子様がいたら、お子様、または、そのお子様(=孫たち)に、「今年は、じいじの、ぼんぼりが出るから、見に来てね」と、電話で、おっしゃった可能性を感じます。
増田さん自身は、鎌倉在住の人だから、それ以前に何度も、ここを見に来ていて、「ぼんぼり祭りを見るのだったら夜だね」と、思っていて、自宅を、夕食を食べた後で、でて、早くて、夜7時半、遅かったら、夜の8時ごろ、三の鳥居へ、到着したのではないかと、推察します。そして、『自分のぼんぼりがどこに飾ってあるだろう。それによって、八幡宮様が、どれほどの、立ち位置を、自分に与えているかがわかる』と、考えながら、他人の作品など、すっ飛ばして、ともかく、自分の作品を見つけようと、猛スピードで、回られたでしょう。
あれね、大小、二枚の奉書紙が、来ます。で、奉書紙をもって神官が、自分の家に訪問をしてきた際には、ほぼ、二つの、ぼんぼりが、ぼんぼり祭りに採用されることは、頼まれた人なら、だれも、疑いを持たないはずです。しかし、増田さんの、作品は無かったのです。
増田さんは、非常に大きな衝撃を受けながらも、理由には、思い当たったのでした。・・・・・自分がヌードを描いたから、没にされたのだった。だけど、紙が来て、それを回収して、そして、ぼんぼり祭りの当日を迎えるまでに、3週間以上の、準備期間があるのだから、「ヌードは、困るのですよ。こちらは、神様ですから」と、注意してほしかった。そしたら、社頭(小町通りに在る、和紙を各種扱って売っているお店、今、改築中で、閉店中)で、似た様なあつさの奉書紙を買ってきて、もう一回、違う画題で、描きなおしたのに・・・・・と、考えたのでしょう。
確かに、鈴木英人氏など、ずっと以前から、絹布に、パソコンプリントアウトで、描いておられます。また、まったく違うサイズの紙を、使って手書きしている人もいます。増田さんに対する厳しさに、比較をすると、こういう人に対する、寛容さって驚くほどです。
さて、ここで、増田さんとは、違って女である私は、ばあばです。だけど、すぐ、孫のことは思い浮かべます。で、増田さんも同じであるはずで、「自分は、夜来てみた。だけど、子供たちは、孫を連れて昼間来たはずだ。だけど、電話がかかってこなかったし、いつもなら、実家に、寄って帰るのに、寄っていかなかった。何か、異変を感じて、遠慮をしているはずだ。大変、つらい目に出会ってしまったなあ」と、考えただろうと、思います。
「電話がなかったので、初日の本日には、来ていないのだと、考えていたのだけれど、実際は、来ていて、無いと、気が付いて、わたくしの心の中をおもんぱかって、連絡をくれなかったのだ。どうしよう。来たか、どうかを確かめるのは、つらすぎる。これは、一応、連絡をしないでおこう」と、そういうことになったのではないですか?
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副題3、『実は、2022年度版、ぼんぼりにはヌードもあったのだった。それは、間接的な表現であった。だから、八幡宮様の審査を無事通過し、作家は、恥を描かなかった。というのは、作品は、没にされなかった。どうしてかというと、一応、裸体だが、彫刻を、言う形に、して、ワンクッションをおいて、描いている。ので、助かったのかな?
首と腕のないトルソ(上半身だけの像)が、二体画面に大きく浮かんでいる。ピンクと青に彩られていて、お互いに向き合っている。ピンクの方は、女体を現すと、見る人は感じ取るだろう。そちらは背中をこちらに向けているので、乳房が見えない形になっている。青の方は、男性を現し、首をちょっと、女体の方へ、傾けている。腕が、両方ともないのだけど、もしあったら、青く塗られた男性の方は、彼の右手を、ピンクのトルソの、背中に回していたハズだ。これは、美術学上、一体のヌードを描くより、よりエロチックな場面だと、思うけれど、無事通過している。では、増田さんの、絵とは、どういう絵だったのだろう。没にされたので、増田さんにも返却されていないと、思うし、時々、開催される、名作展にも出てこないと思う。
美術家というか、絵描きとしては、それを見てみたいと切望をする。さて、ここまでで、副題3戸ナンバリングをしている。実は、副題5で、とてもつらいことを書き始める。だけど、その前に、ちょっと、ほっとする話を書こう。増田さんから、鎌倉駅頭で、つらい話を聞いた時には、まだ、自分は、献灯をしていなかった。だから、増田さんも、気軽にわたくしに愚痴をおっしゃった。しかし、その15年後ぐらいに、わたくしは、献灯を始めることとなる。その開始に関するエピソードも、すでに、ぶろぐで書いているし(しかし今夜は、リンク先を見つけている時間がない)、吉田茂穂宮司就任のお祝いパーティ(七里ガ浜のプリンスホテルで、丸テーブル着席で、フレンチのコースが出たのだけれど、)で、左隣の着席者が酒井忠康氏で、何を話しかけても、無視されたので、あのパーティそのものが、私をいじめる仕掛けだったのではないかと、思っているのだけれど、それも、すでに書いているので、ここでは、詳述をしない。(ただし、そのリンク先を、見つけることも、今夜はしない)
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副題4、『わたくしは、1999年(もしくは、2003年*a)から、2010年まで、8回(もしくは。10回以上)ほど、献灯をしています。それから、12年やめているのですが、年齢から考えれば、養老孟司先生が、84歳の今も献灯をなさっていることを考えれば、できないことはなかったのです。しかし、八幡宮様発と、見える政治的弾圧が2005年ごろから、数多くあって、それこそ、岸田総理大臣の国葬問題ではないが、右手で、日本国が安倍さんを殺しておいて(あれは、謀略で、徹也という男性はリクルートをされ、こじつけ的、理由を与えられた、お人形的、アサッシンにしか過ぎないのです)左手で、国葬にしますと、言う矛盾が見ていられないと、言っています。それと同じで右手で、いじめられながら、左手で、献灯をするという矛盾に耐えられなくなったのでした。
:::::::::*a 今の鶯吟邸の、最初の持ち主白井さん(川口順子・元・外務大臣の母君が住んでいたが、なくなったので、その家を、娘さんが横浜の土建業者に売った)が、家を売るときに、地境の確定に、当時、権の宮司だった池田さんが、我が家に地境の確定のために、見えて、南側の庭で、わたくしが、100号S から、120号Mまで、七枚ぐらいの、国展応募用の油絵(大作です。東および、南側に他人の家がないので、本当に気分良く、庭で、毎日、描いていました)を描いているのをご覧になって誘ってくださったのです。だから、白井さんが横浜の土建業者に、あの今は、鶯吟邸と呼ばれている家を売った期日を法務局で、調べれば、わたくしがどの年度から、献灯を始めたのかが、わかるのですが、今はそれをしている暇がないので、正確な日付がわかりません。:::::::::
しかし、献灯をしていた間に、いろいろ、学んだことがあります。それは、妥協ということで、それが、旧姓西大寺さんが、私を切り捨てた過程にも、見られる発想だし、エリザベス女王が、ダイアナ妃の事故死の後、数日間の、沈黙の後、ダイアナ妃を悼む記者会見をなさった、ことにも通じるので、ここで、取り上げさせえてくださいませ』
阿部総理大臣の暗殺が、謀略であり、徹也とは、ほかの謀略事件と同じく、リクルートをされた、アサッシンでしかないのだけれど、西大寺という地名のところで、実際に、(各種の今まで、発生した類似の謀略事件とは、異なって)、殺す映像を、各テレビ局のカメラ、および、一般人のスマホで、撮影することが目的だったと、わたくしは、言っています。で、西大寺という場所が選ばれたのは、旧姓西大寺さんという、お茶大付属高校の五年上の先輩が、すっかりお前を捨てていることを思い出せよと、言う井上ひさし固有の意地悪い発想が、隠されているのです。
旧姓西大寺さんは、東大大学院卒、通産省勤務の・りけじょ・ですが、一方で、カソリックの信者なので、井上ひさしなどとは、親しいはずです。なお、井上ひさしとは、公的には、自分を死んだことにしていますが、それは、嘘で、実際には、生きていて、鎌倉市佐助の、2600坪の森林の中の、豪邸で、地下潜航し、こういう謀略を、次々に発案をしています。でね。西大寺さんは、60年前に、そのせいを捨てているはずです。が、なぜ、わたくしが、珍しく、今の実名を書かないかというと、坊ちゃんが登場するからです。坊ちゃんは、今の西大寺さんの実名で上智大学か、ほかの大学で、教授、もしくは、准教授になっているはずなのです。
わたくしの黒い疑惑はね。西大寺さんは、ご自分が、原子力委員会の委員に推薦される際とか、坊ちゃまが、プリンストン大学に研修に行き、さらに、ソルボンヌ大学へ研修に行く際に、一種のバーター取引として、川崎千恵子との縁を切りなさいと、命令されていて、それに従ったのではないかという点です。
というのもね、旧姓西大寺さんとは、二人だけで、鎌倉で、食事をしたり、別の日に二人だけで、銀座で、お茶したり、二人だけで、逗子・葉山をプチ旅行をしたりして、わたくしは、自分の感性を西大寺さんに愛されていると、感じていたのです。とても、かわいがられている後輩だと、感じていたのです。ところが、旧姓西大寺さんにとっての慶事である、坊ちゃんのプリンストン大学への研修とか、ソルボンヌ大学への研修とか、それから、ご自分の原子力委員会への委員への推薦については、ご自分の口からは、何もおっしゃらないのです。別ルートから、聞いています。この別ルートさんの大出世も、これまた、大問題なのですが、ここでは、触れません。でもね、84歳で、しかも物理学専攻の女性としては、抜群に偉い人である、旧姓西大寺さんが、なぜ、学者の道を選ばず、通産省技官の道を選んだかというと、父君も学者だったので、学者の世界の、内実、・・・・・パワハラ、セクハラもある世界です・・・・・を知っているので、官僚を目指したのだと、思います。
さて、西大寺さんは、わたくしの純粋さを痛ましく思っていながら、捨てたのです。そして、原発反対なんて、現実遊離も甚だしいと思っていらっしゃるのでしょう。しかし、わたくしは、それほど、お金持ちではない物の、一種の高等遊民なのです。だから、純粋であり、理想主義者なのです。
さて、エリザベス女王の妥協という問題に触れましょう。わたくしは、2002年まで、ICU同窓会展というのに参加していたので、そこでも、五歳ぐらい年上の先輩と、多数知り合いました。現在84歳の女性たちですが、彼女たちは、・・・・・カミラ夫人とチャールズ皇太子が、話が合うのは、仕方がない・・・・・と、言う考え方でした。今から、20年は、前なのに、ダイアナ妃へ批判的でした。わたくしも同じで、ご自分の二人のお子様が、将来国王になり、その前に、ご自分が、女王陛下と、呼ばれる立場になるのです。そういう特別な名誉職に就くことと、引き換えに、多少の不自由と、我慢は、すべきだと、言う考え方で、ダイアナ妃が、離婚したのも、暴露的番組を作ったせいだし、離婚後、愛人を作って、ぜいたくを享受したり、同棲をして、性的、満足も得ていることを、良くないと、思っていました。
だから、その交通事故死へは、同情的ではなかったので、エリザベス女王が、もう去った人として、ダイアナ妃の死へ沈黙を保持していらっしゃることを不思議でも、何でもないと、思っていました。ところが、最近、放映をされた特番で、ダイアナ妃への献花の大量さをご覧になって、民意に沿う、哀悼の、記者会見をなさったのです。妥協ですが、白々しいものではなくて、丁寧で、真心のこもったものだったので、英国王室を救ったといわれています。
さて、この妥協ということですが、わたくしはぼんぼりの描き方で、妥協ということを実践しました。ただ、妥協をするからと言って、手抜きをした覚えはありません。ただ、ぼんぼり祭りとは何なのか?とか、夜は、裏からんろうそくで、透けてくる、ぼんぼりとは、どういう風に描いたらいいのかは、研究をしました。何事にもまじめだから。(苦笑)
ぼんぼり祭りは、展覧会ではないのです。あくまでも、お祭りです。だから、気の毒な、増田某氏が、気張りすぎたことが受け入れられなかったわけで、私だって、本業で、頑張ったって、仕方がないのです。本業とは、油絵では抽象画を描き、版画では、へいたー方式という、色インクがべっとりと、張り付く版画を作っていたけれど、それでは、お客様には、何も理解をしてもらえないのでした。
別に出世したくて、努力したわけではないのですよ。しかし、抽象画を描いても、人は素通りします。それに美術展ではないのだから、画家としての力量を争う必要もないのです。でね。普通の人にわかりやすいのは、具象画だとなります。わたくしは、自分は色の作家だと、思っているのですが、保田春彦先生(武蔵野美大教授)から、「描線も力があってよい」と言われています。しかし、ここで、つらいのは、保田先生と知り合ったのは、水沢勉先生のご案内の,おかげでした。
だから、カリタス小通学バス襲撃事件について、日吉の小田歯科医院、沢野寛・沢野母堂、水沢悦子、柏木(旧姓礒部)喜美子(わが妹)、故・寺沢夫人(お嬢さん二人が、カリタスへ通学していた。60年以上前だけど)、故・増田忠さんなどが、関係していて、キーパーソンが、水沢勉先生だと、書かざるを得ないのです。二人殺され、かつ、農水事務次官が、息子を殺しましたね。そして、その後も、わたくしに対する膨大な被害が押し寄せてきていますので、真相を書かざるを得ないのです。安倍さん銃殺も同じ流れで起きているのですよ。NHKや、朝日新聞が、報道していることが、100%ではないのです。
ぼんぼり祭りに戻ります。最初の年には、大小の作品を提出したつもりですが、小さいほうしか採用されず、しかも、平家池のそばという最低の位置に置かれました。権の宮司の池田様に、申し訳ないと、思ったし、ニューヨーク仕込みのきれいな赤い色の版画なのに、受けない・・・・・ということは、ぼんぼり祭りについて、本当に考えさせられました。
そして、研究するうちに場所的に、どんどん、出世していきました。それを音楽のことで、よく電話をしていた松前澄子先生に電話内で、言ったら、笑っておられました。「先生、あれも階級があるのですよ。わたくしはね。マスコミ有名人ではないのですが、県知事と、市長から、三本目の右側へと、出世いたしました」と言ったら、松前先生は、徳川慶喜公の曽孫でいらっしゃるから、出世という、わたくしの言葉に、心からお笑いになったのでした。
そうです。隣は【わたくしをスキーに連れて行って】の脚本家・一色伸幸さんで、もう一つ、向こう側は、小説家の斎藤栄さんでした。そして、昼間、偶然そこを通りかかった私は、わたくしのぼんぼりの前に立っているアラフォー四人組らしい主婦の一人から、「あ、この人知っている」と叫んでもらえました。
その人は、私を見ても、別に、「あなたが描いたんですね」などとは、言いません。だって、マスコミ有名人ではない、私の顔など、だれも知りませんもの。伊藤玄二郎から「この人に出会ったら、いじめてください」と、・・・・・印刷会社のトップ頁に載っている、私の顔を注目し、無視するという形で、いじめる様に・・・・・頼まれていた福島瑞穂さんとか、角野英子さんとは、普通の人は、立場が違うのです。
だから、その人が「あ、この人知っている」と叫んでくれたのは、前年のぼんぼりを覚えていてくれたということです。で、自分は、人との共感に根付いて、モノを作ることができるということについては、自信を持ちました。本当は、このブログだって、そういう風に書けるのですよ。しかし、24時間、休みなく、しかも四方八方から、攻撃を受けているから、今、書いている様な政治的な、文章を書くこととなります。
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副題5、『わたくしは、どうも、大物すぎるらしい。というのも、デニス・グレイヴスと言う、メゾソプラノ歌手について書いたら、その人が一切、日本に紹介をされないからだった。で、増田氏の、ヌードを描いたぼんぼりが、八幡宮に没にされたのは、私と増田さんが、(しかし、忠さんではないのですよ)電話などで、話し合っているのを盗聴で、知っていた瀬島龍三のいじめだったのであはないかと、この30年間、ひそかに、悩んでいるのだった。
八幡宮様は、神様なのだから、誰かを悲しませてはだめなのですよ。八幡宮において、ぼんぼり祭りの統括責任者は誰なのだろう。どうか、責任者は、心理学のこと、美学のこと、芸術のことなど、いろいろ、学んで、・・・・・ヌードだって、芸術の、一分野なのだと、理解してあげてください。そして没にするときは事前に、通達をして救いの道を示してあげた方がいいです。あの人は、決してエロを八幡宮に持ち込もうとしている不埒な人間ではなくて、まじめすぎるから絵描きとして、ヌードを描いたのですよ。どうか、理解してあげてください。
一方で、何年も同じ形式で、マンネリそのもの、そして、「これは、画料とか、原稿料は出ないのだから、この程度の仕事で、いいでしょう」と、簡単に手抜きをしている人を、そのマスコミ有名度だけで、持ち上げて、大切にすることはやめて、増田さんみたいな、まじめな人をそれなりに、大切にしてあげてください。神様なのに、人の恨みを買ったらだめでしょうに。
実はメトロポリタンオペラで、アイーダを見たときに、あまりにも楽しかったので、二度目の幕間に下の方に降りて行ったのです。そして、大階段のところで、誠実そうな、紳士が、一人でいたので、「今シーズンで、最も気に入った歌手は誰ですか?」と質問をしたのです。すると、デニスグレイヴスでしょうと、教えてくれたのでした。1999年当時、35歳です。
彼女はその二年後の、9.11が起きたとき、その悲劇を悼む、ワシントン国立大聖堂の9月14日のミサで、大統領や、各長官(日本でいう大臣)や、各国大使を前にして、
"America the Beautiful" and "The Lord's Prayer" の二曲を歌ったのです。アメリカに、クラシックの歌い手は、男女合わせて、たくさんいるでしょう。ルネ・フレミングでもいいではないですか? ただ、キャスリーン・バトルは、体格が小さすぎて、オペラの主役を張るのには、向かないのです。で、デニス・グレイヴスですが、メゾ・ソプラノで、本当に、やさしい声なのです。今、彼女のCDが見つからないけれど、お顔も、30代は、ふっくらとして、きれいでしたよ。
わたくしは、デニス・グレイヴスが、日本に紹介されないのは、自分がメルマガ時代に、彼女について、述べたからだと、思っていて、困っているのです。
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Denyce Graves
Denyce Graves
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Born | March 7, 1964 |
Occupation | Opera singer (mezzo-soprano) |
Years active | 1988-present |
Denyce Graves (born March 7, 1964) is an American mezzo-soprano opera singer.
Early life[edit]
Graves was born on March 7, 1964, in Washington, D.C., to Charles Graves and Dorothy (Middleton) Graves-Kenner. She is the middle of three children and was raised by her mother on Galveston Street, S.W., in the Bellevue section of Washington.[1] She graduated from the Duke Ellington School of the Arts in 1981. Graves studied voice at the Oberlin Conservatory of Music and the New England Conservatory with Helen Hodam.[2] She worked at the Wolf Trap Opera Company, which provides further training and experience for young singers who are between their academic training and full-time professional careers. Soon after, she was invited by David Gockley to participate in the Houston Opera Studio, from 1988 to 1990, where she studied with Elena Nikolaidi.
Career[edit]
She made her debut at the Metropolitan Opera in 1995[1] and has appeared at many opera houses. Though her repertoire is extensive, her signature parts are the title roles in Carmen and Samson et Dalila. Graves also made many appearances on the children's television series, "Between the Lions" where she used her talents to teach children sounds of words.[3] On January 20, 2005, she sang the patriotic song "American Anthem" during the 55th Presidential Inauguration, between the swearing-in ceremonies of Vice President Dick Cheney and President George W. Bush for their second terms in office.[4]
Graves sang "America the Beautiful" and "The Lord's Prayer" at the Washington National Cathedral during a memorial service for the victims of 9/11 on September 14, 2001, attended by President Bush, members of Congress, other politicians and representatives of foreign governments.[5]
In 2003, Graves performed in front of a live audience at the Mann Center for the Performing Arts in Philadelphia for a television special, Denyce Graves: Breaking the Rules. In 2005, she hosted the radio show Voce di Donna (Voice of a Lady) on Vox!, the vocal classical music channel of XM Satellite Radio, on which she interviewed various opera singers. Graves often was heard on The Tony Kornheiser Show radio program with her rendition of the "Mailbag Theme".
In 2005, she sang the lead role in the world premiere of Margaret Garner, an opera by Richard Danielpour and Toni Morrison.[6]
In May 2010, Graves performed a concert with tenor Lawrence Brownlee in the United States Supreme Court Building for the Supreme Court justices.[7]
On June 15, 2013, Graves sang in the world premiere of Terence Blanchard's and Michael Cristofer's boxing opera, Champion with the Opera Theatre of Saint Louis.
In 2014, a recording of We Shall Overcome arranged by composer Nolan Williams, Jr. and featuring Graves was among several works of art, including the poem A Brave and Startling Truth by Maya Angelou, sent to space on the first test flight of the spacecraft Orion.[8]
あと注1,