ものを言う画像は生きている。何も言わない画像はただの図でしかない。
何かを説明する、説明でなくても言葉だけでは足りない情報を伝える、情報でなくても感動を伝える、感動でなくていたずらでもことによると見た人が可笑しがるかもしれない。
とにかくものを言わせることによって役に立っているのである。
ところが、まったく役に立たない画像に似た図もある。
なにを見せたいのか、なぜ見せようとするのか、想像すらできない画像群にときどきお目にかかる。なんでこうなるのかと思っていたが、ここまで書いてやっと気付いた。
「群」の逆効果なのだ。
絵も写真も、一度にたくさん見せられるといやになる。
1枚1枚に力があるときはくたびれる。この場合はまだよい、休み休みという手があるから。しかし力をもたない何も言わないのがずらっと並ぶと、見る気はしない。
1枚の写真に大勢の人が写った集合写真も、意味の狭くなりがちな群写真である。
その集合体に関係のある人以外にはまったく無意味で、そんなものを不特定多数の人が見るところにさあ見てくれと出すのはどういうつもりなのだろうかと不思議に思う。
おまけに個人情報保護のためなどと顔をまったくわからなくつぶして載せているところもある。その場に何人いたかは○人という数字でたくさんなのに。
群が何かを伝えるように見せるには、はい撮りましたでもない、はい集めましたでもない、何かが必要なのである。
大空を飛ぶ鳥は巧まずにそれをやってのける。下手な写真群や群写真は鳥に笑われそうである。