※最初から読む→未来ニュース(1)
過冷却という現象がある。本当は水が凍ってもいい温度なのに液体のままの状態にある。それが何かの拍子に刺激が入ると、あれよあれよという間に凍っていく。人生においても、とっくに周囲の環境は変わっているのに微妙なバランスで現状維持がされていることがある。そこでいったんヒビが入れば崩れていくのはあっという間だ。そして、そのきっかけとなる刺激は何でもいいのである。
オフの日が明け、再び仕事の毎日となった。怜奈はまだ不思議な郵便物のことを考えていた。単なる嫌がらせならたくさんある。有名であるということは、他人の生活の一部に入り込むということである。好む人であれば歓迎され、ご飯を食べたといった普通では何でもない情報も気がかりとなり経済的価値を生み出す。その一方で、好まない人であれば嫌なことを何度も何度も目にすることになってストレスがたまる。事務所に対して批判の手紙が来ることはしょっちゅうで、割られたDVDなんてのも来る。しかし今まで自宅まで来ることはなかったし、最初がここまで手の込んだものであるとは覚悟ができていなかった。家を出るときも、監視されているのではないかと高まる緊張に苛まれた。
今回このような出来事があって怜奈が気がついたのは、相談する相手が誰もいないということであった。タレント友達は怜奈が幼少の頃から活躍していたため少し敬遠されるところがあり、気軽に打ち解けられる間柄ではなかった。マネージャーの早矢子は上からの指図ばかりで怜奈が悩みを打ち明けることができない。実家の両親には心配をかけたくない。「何でもできて自慢の娘」というのが自分の役割なのだ。こうして誰にも話せずモヤモヤを抱えたまま過ごすはめになってしまった。
「はい、カット!どうしたの、怜奈ちゃん。最近集中できてないよ!」
監督の叱咤が飛ぶ。民放の連続ドラマの撮影だ。終盤に入るのだが、視聴率も伸びず、現場の雰囲気はあまりよくない。毎回、二・三パーセントの統計上の誤差の範囲での数字の上下に一喜一憂する。主演である怜奈も、番組の成功不成功の責任の一端を担う存在である。不成功が続けばスポーツ紙で「低視聴率女王」なんて不名誉な名前が付けられるし、次の出演話が遠のいていく。代わりになる新人は絶え間なく供給されており、一度テレビへの露出が減ると雪崩をうったように仕事がなくなっていくものである。
「まったく。若い可愛いきれいだけじゃいつまでも続かないよ。」
聞こえよがしに監督が不満を言う。こんなことは未だかつてされたことはなかった。怜奈は最近自分が「特別の中の特別」でなくなってきたことをひしひしと感じていた。「すみません、すみません、がんばります。」と言うのが精一杯であった。
「また現場の雰囲気を悪くして!主演の自覚がないわ!」
撮影終了後の楽屋にて、マネージャーの早矢子は追い討ちをかけた。早矢子は過去数々のトップアイドルを育ててきた実績がある。色恋や遊びに走りたがる思春期の女性の生活を厳しく律し、プロ意識を高めることに定評があった。怜奈も小さい頃からマネージメントを受けてきたが、仕事が上手くいっている分には小言も言われにくいし、無軌道に遊びたがる性格でもなかったので比較的指導は厳しくなかった。早矢子から強く叱られないことが怜奈にとっても誇りだった。しかし今、ここでも自分の特別扱いが消えていくのを感じるのだった。
最近ボーっとして危機感が足りないようね、と早矢子は怜奈に数枚のプリントを手渡した。以前インターネットのポータルサイトに掲載されたイベントに関する芸能記事であった。下の読者からのコメントを見なさい、と早矢子は言う。「どうでもいい」「なんでこんなのがトップに来るんだ?」「怜奈はかわいいけど、そろそろ飽きてきた」「かわいいだけで演技の幅がないよな」そんな言葉が並ぶ。
「わかった?あなたはこれからやっていけるか正念場にいるの。今頑張れなくちゃ終わりよ。このコメントはまだいいほう。掲示板ではもっとひどいこと言われてるんだから。それにね…」
怜奈は早矢子の言葉が終わらないうちに立ち上がり、楽屋のドアを開けて駆け出した。インターネットのニュースにコメント欄の組み合わせは、自分の死亡を伝える件の郵便物を思い起こさせる。何でこんな凶器が存在しているのだろう。辛い辛い辛い、逃げ出したい!何も考えたくない!薄暗い非常階段まで辿り着くと、感情が爆発してその場で座り込み泣き出した。成功の指南書は自慢話から眉唾物まで山ほど溢れているが、よい転落の仕方を教えてくれるものはそうそうない。この国では転落後復活する人自体が少なく、滑り台のような転落の恐怖を糧に皆頑張ってるからであろう。
ふと近くに人影を感じ、怜奈は顔を上げた。溢れる涙と嗚咽で気がつかなかったが、非常階段の上から人が降りてきていたのだ。明かりの少ない場所であったが、艶やかな黒髪に気品のある顔立ち、颯爽とした物腰ははっきりとわかる。怜奈が憧れる女優の吉川由梨であった。
「怜奈ちゃん、大丈夫?声かけづらかったんだけど、心配になって。そっとしておいたほうがよかったかな?」
思わぬ事態に戸惑ったが、厳しい言葉を投げられていたところに憧れの人から優しくされ、さらに感情が高まってきた。声をあげて泣きたいところをやっとのことで我慢して、怜奈は首を横に振った。
「よかった。怜奈ちゃんがそんなに辛そうにしてることって見たことないから、すごく心配になったの。」
「すみません、心配かけちゃって…。」
「いいのよ。誰にも辛いことはあるし。私だってさっき屋上で泣いてきたんだから。」
「本当ですか?信じられない…。」
「本当よ。いい仕事をすればするほど辛いことも悩みも出てくるんだから。でもそんなときは我慢しないで泣いちゃうのが一番よ。」
由梨は微笑み、怜奈の頬に手を差しのべた。怜奈は静かにその手を受け入れ、優しく撫でられた。涙で濡れた頬は次第にきれいに潤っていった。
「何だか元気になってきました。ありがとうございます。」
「いいのよ。辛いことも乗り越えて、お互いがんばりましょうね。」
由梨は去り際に振り返り、以前共演したとき交換した連絡先はいつでも使っていいから、気軽に相談してねと微笑んだ。怜奈は感謝の言葉を送り、しばらくその場で思いを巡らせた。自分よりも上の存在である由梨でも泣きたくなるような悩みを抱えていること、その由梨が自分に手を差しのべてくれることには強く勇気づけらる。また、いい仕事をしているからこその悩みというのも救いになった。自分の苦しみはこれまでトップで活躍していたからこそのもので、特別なんだという思いがした。「特別」ということに心の拠り所があるのかな、と怜奈は想到した。
この出来事で怜奈は心の重荷が幾分取り払われ、無事ドラマの撮影を最後までこなすことができた。相談相手になるという申し出それ自体が心の支えとなり、相談事を消してしまったようだ。まだ由梨に頼らなくても自分で何とかやっていける、そんな気持ちになり、由梨に電話をすることはなかった。しかし人気の維持という問題は事が大きく、ひとりで立ち向かうには荷が重く、逃げ出したい気持ちにも何度か駆られた。ほどほどの活躍でほどほどに楽しく生きる、そんな後輩タレントたちの姿が羨ましくもあった。
※次の回を読む→未来ニュース(3)(6月8日掲載予定)

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過冷却という現象がある。本当は水が凍ってもいい温度なのに液体のままの状態にある。それが何かの拍子に刺激が入ると、あれよあれよという間に凍っていく。人生においても、とっくに周囲の環境は変わっているのに微妙なバランスで現状維持がされていることがある。そこでいったんヒビが入れば崩れていくのはあっという間だ。そして、そのきっかけとなる刺激は何でもいいのである。
オフの日が明け、再び仕事の毎日となった。怜奈はまだ不思議な郵便物のことを考えていた。単なる嫌がらせならたくさんある。有名であるということは、他人の生活の一部に入り込むということである。好む人であれば歓迎され、ご飯を食べたといった普通では何でもない情報も気がかりとなり経済的価値を生み出す。その一方で、好まない人であれば嫌なことを何度も何度も目にすることになってストレスがたまる。事務所に対して批判の手紙が来ることはしょっちゅうで、割られたDVDなんてのも来る。しかし今まで自宅まで来ることはなかったし、最初がここまで手の込んだものであるとは覚悟ができていなかった。家を出るときも、監視されているのではないかと高まる緊張に苛まれた。
今回このような出来事があって怜奈が気がついたのは、相談する相手が誰もいないということであった。タレント友達は怜奈が幼少の頃から活躍していたため少し敬遠されるところがあり、気軽に打ち解けられる間柄ではなかった。マネージャーの早矢子は上からの指図ばかりで怜奈が悩みを打ち明けることができない。実家の両親には心配をかけたくない。「何でもできて自慢の娘」というのが自分の役割なのだ。こうして誰にも話せずモヤモヤを抱えたまま過ごすはめになってしまった。
「はい、カット!どうしたの、怜奈ちゃん。最近集中できてないよ!」
監督の叱咤が飛ぶ。民放の連続ドラマの撮影だ。終盤に入るのだが、視聴率も伸びず、現場の雰囲気はあまりよくない。毎回、二・三パーセントの統計上の誤差の範囲での数字の上下に一喜一憂する。主演である怜奈も、番組の成功不成功の責任の一端を担う存在である。不成功が続けばスポーツ紙で「低視聴率女王」なんて不名誉な名前が付けられるし、次の出演話が遠のいていく。代わりになる新人は絶え間なく供給されており、一度テレビへの露出が減ると雪崩をうったように仕事がなくなっていくものである。
「まったく。若い可愛いきれいだけじゃいつまでも続かないよ。」
聞こえよがしに監督が不満を言う。こんなことは未だかつてされたことはなかった。怜奈は最近自分が「特別の中の特別」でなくなってきたことをひしひしと感じていた。「すみません、すみません、がんばります。」と言うのが精一杯であった。
「また現場の雰囲気を悪くして!主演の自覚がないわ!」
撮影終了後の楽屋にて、マネージャーの早矢子は追い討ちをかけた。早矢子は過去数々のトップアイドルを育ててきた実績がある。色恋や遊びに走りたがる思春期の女性の生活を厳しく律し、プロ意識を高めることに定評があった。怜奈も小さい頃からマネージメントを受けてきたが、仕事が上手くいっている分には小言も言われにくいし、無軌道に遊びたがる性格でもなかったので比較的指導は厳しくなかった。早矢子から強く叱られないことが怜奈にとっても誇りだった。しかし今、ここでも自分の特別扱いが消えていくのを感じるのだった。
最近ボーっとして危機感が足りないようね、と早矢子は怜奈に数枚のプリントを手渡した。以前インターネットのポータルサイトに掲載されたイベントに関する芸能記事であった。下の読者からのコメントを見なさい、と早矢子は言う。「どうでもいい」「なんでこんなのがトップに来るんだ?」「怜奈はかわいいけど、そろそろ飽きてきた」「かわいいだけで演技の幅がないよな」そんな言葉が並ぶ。
「わかった?あなたはこれからやっていけるか正念場にいるの。今頑張れなくちゃ終わりよ。このコメントはまだいいほう。掲示板ではもっとひどいこと言われてるんだから。それにね…」
怜奈は早矢子の言葉が終わらないうちに立ち上がり、楽屋のドアを開けて駆け出した。インターネットのニュースにコメント欄の組み合わせは、自分の死亡を伝える件の郵便物を思い起こさせる。何でこんな凶器が存在しているのだろう。辛い辛い辛い、逃げ出したい!何も考えたくない!薄暗い非常階段まで辿り着くと、感情が爆発してその場で座り込み泣き出した。成功の指南書は自慢話から眉唾物まで山ほど溢れているが、よい転落の仕方を教えてくれるものはそうそうない。この国では転落後復活する人自体が少なく、滑り台のような転落の恐怖を糧に皆頑張ってるからであろう。
ふと近くに人影を感じ、怜奈は顔を上げた。溢れる涙と嗚咽で気がつかなかったが、非常階段の上から人が降りてきていたのだ。明かりの少ない場所であったが、艶やかな黒髪に気品のある顔立ち、颯爽とした物腰ははっきりとわかる。怜奈が憧れる女優の吉川由梨であった。
「怜奈ちゃん、大丈夫?声かけづらかったんだけど、心配になって。そっとしておいたほうがよかったかな?」
思わぬ事態に戸惑ったが、厳しい言葉を投げられていたところに憧れの人から優しくされ、さらに感情が高まってきた。声をあげて泣きたいところをやっとのことで我慢して、怜奈は首を横に振った。
「よかった。怜奈ちゃんがそんなに辛そうにしてることって見たことないから、すごく心配になったの。」
「すみません、心配かけちゃって…。」
「いいのよ。誰にも辛いことはあるし。私だってさっき屋上で泣いてきたんだから。」
「本当ですか?信じられない…。」
「本当よ。いい仕事をすればするほど辛いことも悩みも出てくるんだから。でもそんなときは我慢しないで泣いちゃうのが一番よ。」
由梨は微笑み、怜奈の頬に手を差しのべた。怜奈は静かにその手を受け入れ、優しく撫でられた。涙で濡れた頬は次第にきれいに潤っていった。
「何だか元気になってきました。ありがとうございます。」
「いいのよ。辛いことも乗り越えて、お互いがんばりましょうね。」
由梨は去り際に振り返り、以前共演したとき交換した連絡先はいつでも使っていいから、気軽に相談してねと微笑んだ。怜奈は感謝の言葉を送り、しばらくその場で思いを巡らせた。自分よりも上の存在である由梨でも泣きたくなるような悩みを抱えていること、その由梨が自分に手を差しのべてくれることには強く勇気づけらる。また、いい仕事をしているからこその悩みというのも救いになった。自分の苦しみはこれまでトップで活躍していたからこそのもので、特別なんだという思いがした。「特別」ということに心の拠り所があるのかな、と怜奈は想到した。
この出来事で怜奈は心の重荷が幾分取り払われ、無事ドラマの撮影を最後までこなすことができた。相談相手になるという申し出それ自体が心の支えとなり、相談事を消してしまったようだ。まだ由梨に頼らなくても自分で何とかやっていける、そんな気持ちになり、由梨に電話をすることはなかった。しかし人気の維持という問題は事が大きく、ひとりで立ち向かうには荷が重く、逃げ出したい気持ちにも何度か駆られた。ほどほどの活躍でほどほどに楽しく生きる、そんな後輩タレントたちの姿が羨ましくもあった。
※次の回を読む→未来ニュース(3)(6月8日掲載予定)

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