元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「波の数だけ抱きしめて」

2008-08-21 06:35:48 | 映画の感想(な行)
 91年作品。「私をスキーに連れてって」「彼女が水着にきがえたら」に続く馬場康夫監督作品で、前回までの展開から予想されるハヤリ物を並べ立てた“トレンディー・シネマ”(こんな言葉あったっけ)だろうと思ったら違った。舞台は81年の真夏の湘南で、大学卒業を目前にした若者たち(織田裕二、中山美穂、松下由樹ら)がFM局設立を夢みて奔走する姿を描く青春映画だ。馬場が属するホイチョイ・プロダクションのメンバーの年代は主人公たちより少し上だから、登場する学生たちより彼らにからむ広告代理店の若手社員(別所哲也)に作者が感情移入しようとしたのは明らかだ。

 時代考証(?)が実によくなされている。当時のヒット曲が全編に流れ、女の子はみんな真っ黒に日焼けして(今じゃ日焼けを抑えるのが常識だ)パールピンクの口紅をしているし、サーフボードを屋根に載せて走るクルマが多かったり、それと若いサラリーマンがエンブレム付きのネイビーブレザー(90年代初頭に流行ったブリテイッシュ・シェイプ・タイプのやつじゃなくって、ズン胴&ナチュラル・ショルダーのもろアイビー・スタイル)を着込んでいるとか、意外とよく考えられている。

 何より感心したのはDJを担当するヒロインのLPレコードの扱い方がサマになっていたことだ。CD時代とは違ってラジオ番組でLPの曲の頭出しには熟練を要したものだが、このへんの描写に違和感がない。話は変わるが、最近では音楽シーンにおけるFMの役割が小さくなったという意見があるらしい。だが、それは日本だけの話で、膨大な数を誇るアメリカや出力が大きいヨーロッパの現状と比べると日本のそれはいかにも貧しい。FMが衰退しているというのは大ウソで、単に放送プログラムの質が低いだけだと思う。福岡みたいな100万都市には少なくとも10局ぐらいはFMがほしいものだ。

 映画の出来としてはどうかというと、凡庸そのものだ。作者の青春時代を題材にするのはいいとしても、凝ったディテールだけでは映画にならない。ストーリー展開は安手のTVドラマそのもので、登場人物に実在感がなく、いかにも頭の中だけで作った話のようだ。ラスト近くの、イベント会場までFM電波を飛ばすはずが、相次ぐトラブルで主人公たちが奔走するハメになるくだりも、もっと盛り上がってしかるべきだが、当時のこの監督の力量では無理だったようだ。題材は悪くないのだから、しかるべき監督が演出を担当すればそれ相応の作品にはなったと思う。

 映画的興奮もへったくれもなかった「私をスキーに連れてって」に比べると、映画らしい映画にはなっているが、それだけ作者の技量がモロに出て、単なる凡作に終わっている。そんな馬場監督だが、長い沈黙の後に99年に撮った「メッセンジャー」では大化けする。一本や二本観ただけで映画作家を見限るのは禁物だということだろう。
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「ビルと動物園」

2008-08-20 06:33:20 | 映画の感想(は行)

 言いたいことは分かるのだが、監督の技量が伴っていないため要領を得ない出来に終わっている。30歳間近にもなって結婚の気配が無く、それどころか上司との不倫関係をも清算できないOLと、ビルの窓拭きのバイトの最中に彼女を見初めた音大生。二人の友達以上恋人未満みたいな関係を淡々と描く本作のテーマは、人生は出会いによって如何様にも変えられる・・・・ということだろう。

 捉えようによってはクサい主題だが、それは一向にかまわない。映画の語り口が巧みであれば、在り来たりのネタでも求心力を持たせられる。しかし、この映画はそのへんがどうも感心できない。まず、タッチがどうにも“沈んで”いる。個々の描写の温度感が極端に低い。登場人物にも血の通った存在感が感じられないし、意味のあるセリフは多くはない。

 饒舌はドラマの深さを阻害するというのは当然だが、それは過剰な説明に頼らなくてもいいように作劇の力が備わっていることが前提条件だ。でも本作にはそれがない。あるのは気取った映像と思わせぶりな会話(らしきもの)だけだ。この監督(斎藤孝)は、小綺麗な場面をカメラを動かさずに延々と捉えることで、凡百の映画とは違う内省的な表現をモノに出来ると思い込んでいるフシがある。

 それは違うのだ。まずやるべきことはキャラクターの造型だろう。そしてドラマの盛り上げ方を工夫すべきだ。ヒロイン像は坂井真紀という達者な俳優を得ているおかげで何とか見ていられるが、それでも浮ついた実体感の無さは如何ともしがたい。どうして結婚もせずにロクでもない男とズルズル関係を続けているのか、そのみっともなさや諦観があまり感じられない。感情を露わにするシーンでもどこか表面的だ。相手の大学生に至ってはただのデクノボーである。いかなるポリシーを持って日々を送っているのかさっぱり分からない。演じるのがキャリアのない小林且弥なので尚更だ。

 主人公が音大に通っているわりには劇中の音楽の使い方は凡庸だし、人間社会を動物園に例えるといったモチーフも手垢にまみれたものでしかない。納得できる登場人物といえば、無骨な頑迷ぶりを上手く表現していたヒロインの父親(渡辺哲)ぐらいだろう。

 ひょっとすると“誰かに出会うことで、自分自身を変えるきっかけを掴めることがある”ということを監督自身が信じていないのではないかと思うほど、全編のヴォルテージは低い。思わせぶりなラストシーンや、二人を引き合わせるバイト先の先輩が映画の後半でいつの間にか消えてしまう不手際も含め、作り手の未熟さばかりが目に付いてしまう困ったシャシンだ。
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「スターリングラード」

2008-08-19 06:28:44 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Stalingrad)93年作品。ジャン・ジャック・アノー監督によるアメリカを中心とした合作による同名の作品(2001年)があるが、これはドイツ映画界の手によるシャシンだ。第二次大戦で、ヨーロッパ戦線におけるドイツの劣勢の発端になったスターリングラードの攻防戦を描く。この映画の監督はヨゼフ・フィルスマイヤー。公開作に「秋のミルク」(89年)があるが、可もなく不可もない出来で、テーマを追求するより無難に題材をまとめるタイプだ。したがって内容も全くの予定調和。

 ロシア人を虐殺するシーンや、ラストで登場人物が次々と死んでいく場面は、確かに悲惨で戦争のむごさを感じさせるが、過去のドイツ映画にはこれ以上の描写がいくらでもあったのだ。予算不足からか、わびしい雰囲気を感じさせもするが、戦闘シーンの迫力のなさは致命的で、少しもこちらに迫ってくるものがない。

 何やら、以前のドイツ映画のエッセンスをテレビドラマ風に要領よく並べただけのような印象である。名前に“スターリン”という文字が付いていたばっかりに、何の軍事拠点でもない街に大軍を投入したヒトラーの狂気と、それに従わざるを得なかった若い兵士たちの確執をじっくり描いて見応えのある作品にしてほしかったが・・・・。

 それでもドイツでは封切り当時としてはかなりのヒットになったという。それがまたその頃のドイツ映画界の低迷(80年代のニュー・ジャーマン・シネマ後の様相)を示していて、わびしい気分になった。
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「痛いほどきみが好きなのに」

2008-08-18 06:30:51 | 映画の感想(あ行)

 (原題:The Hottest State )題名通り、なかなか痛切な映画である。好みの彼女と知り合い、良い感じにまで発展し、ついには結婚を意識し始めた矢先、突然相手の態度がよそよそしくなって破局してしまうという、男ならば誰しも経験のある“思い出したくもないこと”をリアリズムで描出する。いわば失恋の“定点観測”である。

 本作がエラいのは、その“定点”がまったくブレないことである。古今東西ラヴ・ストーリー映画は山のように存在するが、多くは話をドラマティックに持って行くために恋愛沙汰の終わりが確固とした理由付けにより演出されてきた。結果としてそれが作品として成功するかしないかには関わりなく、とにかく“愛の終わりには(当事者にとっての)重大なパラダイムの転換が存在する”という黄金律が内包されてきたのである。

 しかし、実際はそうじゃないのだ。相手が浮気したり、性格に難があることが判明したり、やむを得ない事情で離ればなれになったり、はたまた相手が死亡したり・・・・といった誰しも納得できるようなアクシデントで恋にピリオドが打たれることは少ない。ちょっとした気の迷い、ふと心に浮かぶ“これでいいのか?”という自問自答、何気ない相手の仕草に対する違和感etc.そんな些細なことの積み重ねがホットな恋も簡単に消し飛ばしてしまう。

 マーク・ウェバー扮する主人公は魅力的なラテン系の女の子(カタリーナ・サンディノ・モレノ)と仲良くなり、やがて相手の親にも紹介され、結婚も秒読みかと思ったのも束の間、いきなり彼女はつれない態度を隠さないようになる。別に重大な背景があるわけではない。彼女の中にある“自立したい”という漠然とした願望が突如として大きくなっただけ。

 しかし歌手志望の彼女にはそれほどの才能はない。対して役者である彼の方はボチボチと仕事が入ってきて将来が見えてきた格好だ。どう考えても彼氏にくっついていく方が得策だと思うのだが、何となくプライド面での屈託があったのか、彼女は相手をフッてしまう。彼はといえば未練たらたらでストーカー紛いの行動にも出るのだが、藻掻けば藻掻くほど醜態をさらすばかり。まさに“分かっちゃいるけど、やめられない”といった境遇だが、観ている側は人ごとだとは思えない。まあ、人間このような逆境に遭遇するうちに成長してゆくものだが、出来ればあまり体験したくないシチュエーションではある(笑)。

 主人公の父親役で登場するイーサン・ホークの脚本も兼ねた監督作。自身の生い立ちが大いに投影されているという。ローラ・リニー扮する母親の扱いは面白いし、主人公にちょっかいを出す無軌道な女を演じるミシェル・ウィリアムズもイイ味を出している。

 有名俳優だからという特殊性よりも、普遍的な失恋日記の体裁を取ることに腐心した作者の冷静さが光る。先日観た「百万円と苦虫女」は苦みの強い映画だったが、本作も超辛口の青春ドラマとして推奨できよう。イーサン・ホークは今後とも監督業を続けて欲しい。
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アナログ・サウンドは味がある。

2008-08-17 07:26:59 | プア・オーディオへの招待
 盆休み期間中、久々に実家のオーディオ装置でじっくりとレコードを聴く機会を得た。実を言うとこのシステムで聴く限り、CDよりもアナログレコードの方が音が良い。まあ、アナログプレーヤー関連にCDプレーヤーの倍以上の予算を投入しているので“良くて当たり前”なのだが(苦笑)、レコードが音楽ソースの主流の座をCDに明け渡してから約20年経つのに、使いようによっては現在でも立派な音を奏でてくれるのは、いかにこのメディアがある意味“完成されていたもの”であるかを示すものだと思う。



 私の使っているレコードプレーヤーはYAMAHAのGT-2000という機種だ。購入したのは80年代後半で、折しもCDが市民権を獲得しつつある中、私も“アナログプレーヤーの導入は、これが最後!”と見込んだ上で買ったものである。当時の定価は13万8千円とそんなに高価ではないが、YAMAHAがオーディオファンの要望を盛り込んで練り上げた自信作だけあって、コストパフォーマンスは非常に高い。まずこの値段で28kgという重量は今からでは考えられないだろう。音も地に足の付いたどっしりとしたもので、ソリッドな音像の捉え方には定評があった。

 また、本機にはマニア心をくすぐる数多くのオプションが用意されており、砲金製ターンテーブルやアンカーブロックなどを擁したフル装備になると物量投入型の大艦巨砲主義的なメカに成長するが、我が家にはそれを導入できるようなスペースがなく、入手することが出来たオプションはわずかなものである。その中でまず紹介したいのがDCパワーサプライのYOP-1だ(下の写真参照)。

 ノーマル仕様ではプレーヤー本体の停止スイッチを押してもターンテーブルは慣性で回り続け、手で止めることもしょっちゅうなのだが(笑)、YOP-1を併用すると停止時にモーターが手早く止まってくれた。それだけでも有用だが、さらに音の密度が増すという思わぬ効果もある。YOP-1は交流電源を直流に変えてモーターを制御するアタッチメントだが、以前よりレコードプレーヤーの電源は家庭用ACよりもバッテリーなどのDCの方が良いという説があり、その影響が出ているのではないかと感じている。

 吸着式ディスク・スタビライザーのYDS-1も手に入れたことがある。レコードとターンテーブルとの間に生じる僅かな隙間を、空気を抜き取ることによって排除しようという機器だ。これによってレコードとターンテーブルは一体化する。YDS-1(素材はアルミではなく砲金製)自体が相当な重量を持っていることもあり、音はさらに力強くスクエアーになった。ただし残念ながら後年ゴムの部分がボロボロになり、今では押入の奥に仕舞われている。もしも復旧できるのならば今でも使いたいアクセサリーである。



 アナログプレーヤーのメカニカルな印象を特徴付けるものにトーンアームがある。切っ先にカートリッジを装着した、文字通り“腕”のような金属製の(一部木製やカーボンファイバー製もあるが)棒である。GT-2000には別売りでストレート型のトーンアームも付けられたし、某評論家が考案した“リアル・ストレートアーム”(?)のようなものも商品化された。しかし、純正アームのクォリティにちょっと不満を持っていて、なおかつストレートアームはカートリッジ交換の際の使い勝手が悪いと思っていた私が買ったのは、SAECがGT-2000用に限定発売したWE-407/GTという機種だ。今はSAECはケーブルや電源パーツのメーカーだが、この頃は国内有数のトーンアームの作り手として知られていた。WE-407/GTの導入結果は圧倒的で、解像度が完全にワンランク上がった。アームでこうも音が変わるのかとびっくりしたものである。

 なお、カートリッジはOrtofon社製のMC型だが、そろそろ交換の時期が近づいている。とはいえ、月に数回しか聴かないのに大枚を叩いて更改する必要性があるのかどうか、実に悩ましい限りだ(笑)。

 GT-2000はロングセラーになった後、惜しまれつつ製造が終息したが、一時期限定で再生産されたことがある。ただしその時の定価は約20万円になっていた。現時点で復刻させると30万円以上にはなる・・・・と某ショップのスタッフが言ってたが、今アナログディスクを中級品CDプレーヤーより良い音で鳴らそうとすると、その価格帯が“出発点”になるらしい。レコードプレーヤーの使用者が少ないので製品の価格は往時よりも高くなるのは仕方がないが、それよりも現在でもアナログプレーヤーが製造・販売されているばかりかレコードの新譜のリリースがあること自体が驚きだ。CDが出回り始めた80年代には“早晩、アナログディスクは姿を消す”と言われていたものだが、容易に過去の遺物になってしまわないだけの、趣味性の高さが存在するということだろう。アナログの魅力については、思い出したときにでもこのブログに書いてみたいと思う。
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「マンデラの名もなき看守」

2008-08-09 07:03:46 | 映画の感想(ま行)

 (原題:GOODBYE BAFANA)突っ込みが甘いという印象を受けた。少なくとも同じ南アフリカのアパルトヘイト政策をネタにしたクリス・メンジス監督の「ワールド・アパート」やリチャード・アッテンボロー監督の「遠い夜明け」に比べると、随分と見劣りがする。理由は、登場人物の心理が十分に描けていないからだ。

 主人公であるジョセフ・ファインズ扮する看守はネルソン・マンデラが収監されている離島の刑務所に赴任した際、上司に向かって“反政府活動をする黒人など、死刑にしてしまえばいい”といった意味のことを言うほどの人種差別主義者だ。それが当時極秘事項として国家機密にされていた自由憲章を盗み読んだぐらいで、簡単にリベラル派に鞍替えしてしまう、その安易な筋書きが愉快になれない。

 映画ではその前段として、主人公が幼い頃に黒人の親友がいて、別れ際に彼から貰ったお守りを今でも大事に持っている・・・・というモチーフが用意されているのだが、正直言って取って付けたようだ。ならば子供時代に黒人少年と心を通じ合わせた彼が、どうして黒人を蔑視するようになったのか(あるいは、そういうポーズを取らざるを得ない状況に追い込まれたのか)、そっちのプロセスをテンション上げて示すべきではなかったのか。

 マンデラ自身のキャラクターの練り上げも足りない。デニス・ヘイスバート扮する彼の造型は見た目には立派だが、圧政に立ち向かうために暴力を肯定するという、一種矛盾に満ちた内面の発露は最後まで見られない。ただ“偉い人でした”といった通り一遍の表現しか出来ていないのだ。ネルソン・マンデラ自身が存命しており、いたずらに貶めるような描写は控えようとの暗黙の了解が製作サイドにあったのかもしれないが、いずれにしても物足りない。

 わずかに納得したのがダイアン・クルーガー演じる主人公の妻だ。夫の出世と家族の安寧を心から願っている平凡な主婦であり、反面ナイーヴな人種偏見も持ち合わせている。マンデラと関わることで社会問題にも関心は持つが、実のところじっくり向き合うほどの余裕もなく、眼前の雑事をこなすのが精一杯。おそらくは当時の白人層の多くが彼女のようなスタンスで日々過ごしていたのであろう。でも、その彼女にもラスト近くではお決まりの行動を取らせてしまうのだから、作者の平板な姿勢には閉口するしかない。

 ビレ・アウグストの演出には特筆できるようなものはない。思えば彼が故国デンマークを離れて撮った映画は数あれど、いずれも及第点には達していない。「愛の風景」などで見せた圧倒的な求心力はどこへ行ってしまったのだろうか。今一度、フランチャイズを北欧に戻して捲土重来を期してもらいたいものだ。
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「ドッペルゲンガー」

2008-08-08 06:28:27 | 映画の感想(た行)
 2003年作品。黒沢清監督の作品がポピュラーにならないのは、何を描いても最後にはドラマを彼独特の(終末思想的な)世界観の中に放り投げてしまうからだと思う。黒沢の映画を全て観ているわけではないが、今のところ彼の作品で真に楽しめたのは「CURE/キュア」だけ。つまりプロデューサーの力量によって彼の持ち味がコントロールされ、娯楽映画の範疇からはみ出させない場合のみ観客は納得するのだ。

 しかし、この前の作品「アカルイミライ」(2002年)からどうも傾向が変わってきたようにも感じる。自分の完全に世界に没入せず、映画を何とか物語の枠内で踏み止まらせようと努力している様子も見られる。この新作では、役所広司扮する研究者がエゴに満ちた“もうひとりの自分”に出会うという絵に描いたような前半のホラー的素材から、中盤以降に奇天烈なアクション・コメディに転化するという相変わらずの勝手ぶりを見せるものの、観客を楽しませようとする意図だけは一貫しているようだ。

 「ジキル博士とハイド氏」みたいに複数の人格が一人の人間の中に同居するのではなく、別の人間として細胞分裂していくドッペルゲンガーの扱い方は面白いし、柄本明や永作博美、ユースケ・サンタマリアら脇のキャラクターも良い。

 後半の展開をすべて“(批評無用の)自分の世界”に持ち込んではおらず、平易なドラマツルギーのままなので、それだけ辻褄の合わない点が指摘されるのは仕方がないが、全体的に楽しめる映画にはなっている。果たして黒沢監督の「ミライ」は「アカルイ」か?
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「ドラゴン・キングダム」

2008-08-07 06:30:15 | 映画の感想(た行)

 (原題:The Forbidden Kingdom )万全の作品とはとても言えないが、捨てがたい魅力はある。ジャッキー・チェンとジェット・リー(昔からの映画ファンならばリー・リンチェイという名前の方がピンと来る)との初めての共演作。当然期待は高まる・・・・と言いたいのだが、残念ながら二人ともすでにオッサンである。もちろん同世代の一般人とは比べものにならないほど強いのだが、かつてのような身体のキレは望むべくもない。よっていきおいCGとワイヤー・アクションに頼らざるを得ないのだ。

 しかも、アクション監督を務めるユエン・ウーピンはフィジカル面での追い込みよりも特殊効果に御執心のようで、わざわざこの二人に御登場願わなくても撮れるような絵ばかり並べている。さらに、主人公は両巨匠のどちらでもなく、現代のボストンから古代中国へタイムスリップしてきた若造(マイケル・アンガラーノ)だというのだから脱力する。

 だいたい、なんで古代を舞台にしたファンタジーにしなければならないのか。たぶん最近ファンタジーものが流行っているハリウッドのトレンドに乗っかったのだろうが、そういうSFXの多用が当然とされるようなネタにこの二人を起用する意味があったのか。単純なポリス・アクションあたりで思う存分活劇の醍醐味を見せて欲しかった気がする。

 しかし、それでも本作が憎めないのは二人が過去に演じたキャラクターへのオマージュが散見されるからだ。リー・リンチェイの出で立ちは「少林寺」や「ワンチャイ」などのシリーズの主人公と通じるものがあるし、ジャッキー・チェンは久々に“酔拳”を披露すると共に、かつて映画の中でシゴかれた老師匠の役柄を今回は自身が演じて若手を鍛える側に回っているあたりは感慨深い。

 そして嬉しいことに女優陣も上玉が揃っている。ヒロイン役のリウ・イーフェイは終盤の舞台が現代へと戻った時点では大したことはないが(笑)、時代劇コスチュームに身を包むと実にスクリーン映えする。チャン・ユアン監督「ただいま」でのボーイッシュな制服姿が印象的だった敵役のリー・ビンビンも今回は硬質な美貌に磨きがかかっている。

 ロブ・ミンコフの演出は平板でストーリー展開も凝ったところは見当たらないが、逆に言えば大きく破綻しているところもない。クンフー映画の全盛時を知るファンがノスタルジー気分で観るにはいい映画だと思う。
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「オリヴィエ オリヴィエ」

2008-08-06 06:29:39 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Olivier Olivier )92年作品。南仏の農村に住む家族の物語。獣医の父親はどちらかというと家庭を顧みないタイプ。小学生の姉弟のうち8歳になるオリヴィエだけを異常に溺愛する母親。面白くない姉。一見マトモだが中では暗い葛藤が渦巻いている一家にある日突然不幸が襲う。お使いに行ったオリヴィエが行方不明になる。母親は錯乱。父親は新任地のアフリカに逃げるように旅立つ。事件は迷宮入りになり、捜査を担当していた刑事も転勤になる。月日は流れ、パリでオリヴィエによく似た男娼(グレゴワール・コワン)が見つかる。彼は家族の元へ送られるが、泣いて喜ぶ母親をよそに、姉ナディーヌ(マリナ・ゴロヴィーヌ)は断じて彼がオリヴィエだとは信じない。果たして彼は本物なのだろうか・・・・。

 アグニエシュカ・ホランド監督がアメリカで「秘密の花園」を撮る前にフランスで作った映画である。「秘密の花園」が“陽”だとすると、この映画は日陰に咲いた花というところか。コインの裏表みたいな関係である。登場人物は自分の“箱庭”から最後まで出られない。

 仕事一筋の父親と子離れできない母親とわがままな長女と甘ったれの息子。どうしようもない一家に見えて、実はどこにでもある家庭のように思える。体裁を取りつくろうだけの家族は、悲劇が起きて離散する前からバラバラだったのだ。女流監督の特徴なのかもしれないが、同性の描き方には容赦がない。盲目的に息子を愛し、失踪したあとは滑稽なほど取り乱し、息子らしい少年の出現に手の平を返したように上機嫌になる。娘にしても、父親と弟がいなくなったことで、自分だけが母親の愛を独占できるという暗い喜びにひたる。対して、いたってお気楽な例の少年はそんなドロドロした人間関係など興味がないらしく、無邪気にナディーヌへ愛を打ち明けたりする。この飄々とした明るさがドラマの救いになっている。

 ラストは意外な真相が明らかにされ、家族は慄然と立ち尽くすしかないのであるが、ここに到る伏線の張り方がなかなかうまい。特に、オリヴィエが立小便するときの鼻歌(?)が重要な暗示になるあたりは感心した。南フランスの明るい陽光が、陰惨ともいえる事件、それを引き起こした自閉的な登場人物たちと皮肉なコントラストを見せる。

 ホランド監督の演出は後半にナディーヌが“念力”を見せるあたりに無理があるものの、まずは及第点である。音楽はまたもやズビグニェフ・プレイスネルで、きれいなメロディは作品に磨きをかけている。
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「百万円と苦虫女」

2008-08-05 06:53:10 | 映画の感想(は行)

 劇中、ヒロインが後に付き合うことになる男子学生に対して言うセリフが面白い。百万円が貯まるたびにそれまでの人間関係をリセットするがごとく知らない土地へと移り住む彼女に、彼が“自分探し?”と聞くと“違う。自分を探したくない”と答える。そして“どこに言っても「自分」は付いてくる”と悟ったようにつぶやく。

 人付き合いが苦手で今まで貧乏くじばかり引いてきた彼女に出来るのは、今はただ逃げることだけ。しかし、淡白な関係性を望んでいるはずの彼女が足を運ぶのは、互いに干渉の度合が高いと思われる海辺の街や山村だ。心を閉ざしているようで、誰かが内面へのドアを叩くのを待っている。スノビズムとは紙一重の“自分探し”とは一線を画す、どうしようもない“自分”を引きずり回す、惨めでカッコ悪い旅だ。

 作者もまた容赦しない。安易なハッピーエンドや予定調和とは決別したような辛口のエピソードの連続。特にラストのホロ苦さなんて泣けてくる。くだんの彼氏にしても“同病相憐れむ”といった泣きの展開でヒロインと仲良くなるまではいいが、次第に身勝手で御都合主義的な本性を現してくるところなど、描写に一点の甘さもない。

 しかし、それでも人生は彼らを待ってはくれない。本当の“自分”は滅多なことでは変えられないが、その“自分”との折り合いの付け方ならば少しは変更は可能だ。この映画で示されたように、それがほんのちょっとの変化であろうとも、生き方の視野が開けることもあるのだ。シビアなストーリーにもかかわらず悲観的なスタンスは決して取らず、あくまでポジティヴな見方を貫くあたりが観賞後の後味の良さにつながってゆく。丁寧で当たりの柔らかいタナダユキの演出がそれを盛り上げる。

 今回も好演の蒼井優は3年ぶりの映画主演というが、そんなインターバルをまったく感じさせないのは、3年間で脇役として出た数々の映画において主演を完全に食ってしまった存在感の強さゆえである。今後も動向が見逃せない、日本映画界の若きホープだ。

 森山未來や佐々木すみ江といったキャスティングもいい味を出している。それとピエール瀧は、彼を主人公にしてまた一本映画が出来るのではないかと思わせるほどキャラクターが“立って”いる。彩度を落とした画面や若干引き気味のカメラも効果てきめんで、ビターな青春映画として一見の価値はある。
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