水面を破壊せよ、上へ昇って

勢いよく水面を破壊する気概で、海面に湧く言葉たちであれ。

防潮堤に対する一家言(数年前の走り書き)

2016年09月27日 18時46分16秒 | 震災メモ
想定外なもののために必要なのは、物理的な壁より、意識の持ちようではないだろうか? 正直、僕はあまり海は好きではない。好き、というより「畏怖」を以って接するものである。なんだろ、あまりにも強大過ぎて、僕人間一人では太刀打ちできないものなんだという恐怖の方が大きい。僕は、ふるさとは大切にしたいと思うが、まだ東京に出てきてまだ時間が経っていないせいか、あまりふるさとのありがたみを感じていない気がする。なんだろ? ふるさと以外のものをもっと知らなきゃ、ふるさとをこれ以上好きになれないんだと思う。
 あと、そういう思いをしたくなければ、作る以上にあったことを伝えるということが大事だと思う。そういう記憶を後世に伝えていくためには、たとえば、共徳丸のあった跡地などに何か目立ったものを作ったほうがよく、防潮堤によって出なくとも良い。
 また、果たして、高い壁が立つことで、今後訪れる人が喜ぶと思うだろうか? 気仙沼が、美しい景観であることを見るほうが、嬉しいのではないだろうか? そして、そういう旅行者や未来の子供たちにとって喜ばしいことは、(思い切って言うが)気仙沼に暮らす市民にとっても喜ばしいことなのではないのか?ということです。
それに最も、危ないことは「海」と対峙する時間が減り、海を知る機会を奪われることによって海の「怖さ」も知らなくなってしまうことではないか?私は、岩手の田老町で起きたような悲劇を、また繰り返したくない。その為にも、大きな壁ではなく、心に知恵を宿らせたい。
ひとこと言っておくが、私は防潮堤が低ければ、あってもいいと思うほうである。どのくらいの高さが景観を損ねたり、無駄かという議論は逆にしたいほうである。更に言えば、緊急時のみ現れる防潮堤というのであれば、むしろ賛成なほうである。そこは、皆さんとも色々議論はすべきだと思っている。
 海は、怖いよ、俺が思うに、ほんとのところ。


コメントを投稿