Jan.31 2006 メルボルンへの道は遠い

2006年02月01日 | 風の旅人日乗
1月31日 火曜日

昨日の夜は、Team Nishimuraの初めての金銭的支援者の突然の登場で気が動転し、やることがいっぱいあるにも関わらず、飲み過ぎた。まだまだ甘い。

その食事会の間、マナーモードに設定していた電話が、ジーンズの後ろのポケットで何度もプルプル震えていたが、どんな電話にせよ、その人との大事なお話の途中で電話に出るわけにはいかなかったのだ。

帰りの、自分と同様の酔っ払いで満員の終電車の中で、携帯電話の着信履歴を見てみたら、V社とM社の方々からの電話だった。
今週末から行くか行かないか、なかなか決まらなかったボルボ・オーシャンレースのメルボルン取材が、Goか、取りやめか、が決まったのだろう、と推測した。

でも、何度もかけていただいたところからすると、現地取材がGoになったから、すぐに飛行機や宿の段取りを始めて下さい、ということなのかも知れないと思った。
思ったが、もう夜は遅く、その上、脳味噌にはアルコールが比較的多量に含まれた血液が駆けめぐっている。
うーん、手の打ちようが無い。

それに、今日最初の打ち合わせのほうの、アメリカズカップのことについても考えをまとめなければいけない。
来週のボートショーでパネルにして発表する『Team Nishimura Project発進!』の文案、デザイン案も大至急考えなければならない。
これらの中で、最も急ぐべきことはどれだろう? 
どれも急ぎだなあ、と思いながら布団に入った。

1月31日、朝4時。疾風怒濤の一日が始まった。
パソコンを立ち上げ、メールを開くと、
「2月2日メルボルン行き決定、すぐに段取り始めて下さい」というメールが何通か続き、その他にヨットのほうの仕事で比較的急ぎで進めなければいけない懸案も発生していた。ヨット専門誌K誌の新しい記事企画のことと、例の原稿急げ!というメールも混じっている。
2月後半の沖縄・慶良間諸島・座間味島でのサバニ合宿第2弾のスケジュールについての相談。
ニュージーランドから「例の製品の日本の代理店になるかならないか、至急決定されたし!」というメール。
あと、会ったことのないゆかちゃんやしおりちゃんや女性社長さんとかから、「至急会っていただけませんか」という、急ぎらしいメールも、もちろん混ざっている。

どこから始めていいのか判断がつかず、途方にくれて画面を眺めていると、電子音と共に新しいメールが入ってくる。Team Nishimuraのメンバーの広告制作会社からで、『Team Nishimura Project発進!』の文案、デザイン案も大至急お願い!というメールだ。まだ、朝の5時前だ。徹夜しているらしい。
そのオフィスに電話をしてみると、やはり徹夜で頑張っているらしい。

まずは『Team Nishimura Project発進!』の文案から始めることに決めて、とりかかる。
それからそのパネルに使う写真をCDに焼く。これは午後東京に出たときにバイク便でそのオフィスに届けるつもり。
それが終わって、メルボルンにホテルと取材艇の手配を依頼するメールを書く。
ニュージーランドに仕事のメールを書く。

朝食を食べて、原稿を書きながら朝9時半を待って、それから電話をかけまくる。
まずは明後日からのメルボルン関係の打ち合せからだ。
それが終わって、旅行代理店に電話。インターネットでは出発が近すぎて受け付けてくれないのだ。

翌々日の出発便なので、どの旅行代理店も、直接店頭に行って現金で買わなければチケットを発券できないとおっしゃる。しかも、安いチケットはもうないのだそうだ。
明後日からの出張に、飛行機もなければホテルもない。ドキドキしますね。

午後12時ちょっと過ぎに葉山を出て、午後2時、東銀座のM社で、取材の打ち合せ。編集長も焦っている。
それが終わって午後4時に有楽町の旅行代理店に行く。
ここでかなり難航。

午後5時半にアポを入れていた日本テレビでの打ち合せ時間が迫る。
電話を入れて時間を遅らせていただく。5時半を6時、6時を6時半、6時半を7時に伸ばしていただくが、ついにそれにも間に合わず、本当に無理を言って明日2月1日の夕方にまで延期してもらった。
でもまた明日も東京に出て来なければいけなくなった。

旅行代理店の担当者が奮闘してくれて、やっと2月2日成田発、2月13日成田戻りのチケットをゲット。
グッタリ疲れて新橋から逗子行きの満員電車に乗って葉山に戻る。

メールボックスを開くと、メルボルンから「取材艇の手配はOKよ、でもホテルがまだなのよね」というメール。
取材艇で寝ますか。