Feb.9 2006 ジェフ・スコットという男

2006年02月09日 | 風の旅人日乗
2月9日 木曜日 メルボルンは嵐です。

今日はちょっと、ゆっくりパソコンの前に座っている時間がない。日記を書く時間もない。どうしよう・・・。

そう言えば昨日、古い友人のジェフ・スコット(写真)に会った。今回の世界一周レースでは、オーストラリアの艇に乗っている。
「俺はもう歳だ」って言っていた。自分ではそう思ってなく、単なる口癖だ。今でも自分がサザンオーシャンのダウンウインドでは最高のヘルムスマン(ドライバー)だと信じて疑ってないはずだ。まわりの人間もそのことをよく知っているし、その技術を認めてもいる。

今日は、そのスコッティーに付いて、前回の世界一周レースのときに書いたエッセイを、日記の代わりに掲載しようと思う。


ボルボセーラーの休日
――〈ニューズコープ〉ワッチリーダー、ジェフ・スコットの場合 ――

海の疲れを海で癒す男

案の定、奴と連絡が取れない。いつものことだと分かっていても腹が立つ。
この日に連絡するとあれだけしつこく確認したのに、ジェフ・スコットの携帯電話が繋がらない。

ニュージーランドに寄航中の、ボルボ・オーシャンレースの参加艇〈ニューズコープ〉に乗っているジェフ・スコットの自宅を訪問しようとしていた。奴はオークランドから約200km南南東の方向にある港町に住んでいる。

その港町に向かって、ぼくはもうオークランドを後にして車を走らせていた。一旦車を路肩に寄せて止め、考えたあげく、ジェフの“現在のところの”ガールフレンドであるナオミに電話をしてみる。ナオミはたくさんの人種が混血した、黒い髪が魅力的な美しい女性だ。

「ジェフはフィッシング・トーナメントに行ったわ。あと2日は海の上だから携帯は繋がらないわね」
フィシング・トーナメント?
2日間海から戻らない? 
ナオミが説明してくれたところによると、自分のボートを出して、何日か海の上に留まり、その間に釣りあげた魚の大きさを賞金付きで競うトーナメントがその町で行なわれているらしい。

1週間に満たない貴重な休日の何日かを費やして、外洋ヨットレースとは競技の形態が異なるとはいえ、24フィートほどの小舟で一人で沖に出て、荒れた海で魚を追いかけているというジェフにあきれ、約束の日に電話が繋がらない怒りを忘れた。

いろいろなボルボ・セーラーにニュージーランドでの休暇をどのように過ごすのか尋ねたが、誰一人として海に出たいなんて答える者はいなかった。
ほとんどが、街に留まって友達と過ごすと答えたり、家族と一緒に静かな海辺か森に行ってのんびりすると答えた。

ボルボ・セーラーたちが一つの寄港地に滞在する期間はフィニッシュからスタートまでのあいだ3週間以上もあるが、新しいセールのテストや、リグや艇の細かな修理などで、どのチームのセーラーも実質1週間程度の休暇しか与えられていない。
しかもオークランドからリオデジャネイロまでの次のレグは3週間以上もかかり、そのうえその時間のほとんどが厳しい南氷洋でのセーリングで、そこで肉体も精神もギリギリまで擦り減らさなければならない。誰もが、そんな世界とできるだけ対極の環境で休暇を過ごそうと考える。
しかしジェフは、彼らとは少し違っているようだった。

漁師になりたい、セーラーも続けたい

奴が海から戻って来るまでのあいだ、ぼくはニュージーランド北島の山を歩いたりして時間をつぶした。またオークランドまで戻るのが面倒だったのだ。
ナオミが言った通り、それから3日後に沖から戻ったジェフが電話をかけてよこした。フィッシングトーナメントの結果は、どうやら冴えないものだったらしい。

その町でジェフの義理の兄弟が経営する造船所でおちあってから、地元のフィッシング・クラブのバーで何杯かビールを飲んだ。この町にも立派なヨット・クラブがあるのに、ジェフはそこのメンバーではなく、すぐ隣のフィッシング・クラブのメンバーだ。

10歳になるザックが、クラブの壁に掛けられている様々なビルフィッシュの模型を一つ一つ指差しながらそれぞれの魚の名前と習性を説明してくれる。
ザックはジェフとジェフの前妻との息子で、今はお母さんと一緒にジェフと同じ町に住んでいる。夏休み期間中ということもあって、ジェフがリオデジャネイロに向けてスタートするまでのあいだ、お母さんから特別の許しをもらって大好きなお父さんと一緒に過ごしている。男の子というのはこんなに自分の親父が好きだったかな、と思うほどジェフにべったりとくっついている。

ザックのお父さんはクラブのメンバーと先日のフィッシングトーナメントの話をしたりしている。会話が聞こえてくるが、メンバーたちはボルボ・オーシャンレースのことは知っていても、ジェフがそのレースにワッチリーダーとして参加していることは知らないようだ。ジェフがそれを隠そうとするかのように話をはぐらかせているからだ。

そのフィッシング・クラブから車で10分ほどのところにジェフの家があった。前庭に釣り用のボートが置かれ、広い裏庭のすぐ前には、長い岬に守られた内海が広がっている。
「俺の隠れ家にようこそ」と、ハードボイルドを気取ってジェフが言うが、まとわりつくザックの頭を優しくなでながらなので、そのセリフは残念ながら、ちょっとキマらない。

ジェフの家のリビングに、それまでジェフが関わったセーリング・プロジェクトの写真や、記念品が飾ってある。470クラス・ワールドで5位を取ったときの写真、ジェフが初めて本格的な外洋レースを経験したウイットブレッド世界一周レース参加艇〈フィッシャー&パイケル〉のハーフモデル、〈ヤマハ〉で世界一周レースに優勝したときの記念品、〈ニューズコープ〉のキャンペーンに加わる前までボートキャプテンをしていたマキシ〈ニコレッティー〉の写真パネル…。

ジェフがセーラーとして初めて給料をもらったのは1989年の〈フィッシャー&パイケル〉にクルーとして乗ったときだ。それ以来、16歳のときからの職業だった電気工をやめて、プロセーラーとして生きていくようになった。
少し雑談していると、雲が切れて太陽が顔を出したのでジェフを庭に引っ張り出し、このページに使うための写真を撮る。撮る方も撮られる方も、お互い慣れないことをしているためかなり照れあう。

なかなか構図が決まらない。ため息をつきながら待っているジェフに、
「こんなところでオマエの写真なんか撮ってないで、俺もセーリングだけで生活したいよ」と言うと、
奴は「俺はフィッシングだけで生活したい!」とまじめな顔で言いやがった。
奴のその言葉で、約束を反故にされて2日も無駄に過ごしたことを思い出し、折角のデイオフにわざわざ何日も塩まみれになるために沖に出た理由を聞いた。

「海が好きなんだ。俺にとって大きな魚を追いかけて海を走ることは、セーリングとは別の方法で海を楽しむことなんだ」。
「海」のことを奴は「Ocean」と言った。大洋である。外洋である。「今度海に連れてってー。私、海が好きなのー!」の海とはちょっと違う。そして奴は「好き」を「like」ではなく、「love」と表現した。

自分のボートに何日間か分の食糧を積み込んで陸が見えなくなるまで沖に行き、シュラフにもぐりこんで仮眠をとったりしながら、魚を追いかける。そのときに自分は最も解放される、とジェフは言った。

プロセーラーとしての仕事からいつ引退するつもり?
「今すぐ!」
その後の生活はどうするわけ?
「フィッシャーマン!」
笑いながら答えたあと、しばらく無言になって、
「でもなー、セーリングも好き(ここでもlove)だからなー、まだやめたくないなー」
矛盾した奴だ。しかしこれがジェフ・スコットというプロセーラーの本音である。

血の記憶

ニュージーランドの先住民族であるマオリは、約1000年前にタヒチを出てニュージーランドを見つけ、そしてそこに住み着いた最初の人類だ。航海の手段はダブルハルのセーリングカヌーだった。今はマオリの人たちも自分たちがセーリングの文化を持っていたことをほとんど忘れかけているが、遠い昔、彼らは優秀な長距離航海者だったのだ。

ジェフは、その優秀な航海民族マオリの血を引いている。
ハワイのレースで一緒に乗ったとき、ヨットクラブのバーでビールを飲みながらジェフがちらっと、俺にはマオリの血が流れている、というようなことを言ったのだが、そのときは「ふーん、そう」という感じで気にも留めなかった。
しかし、ジェフが「オーシャンをラブする」と言ったり、「セーリングをラブする」なんて言うのを聞いているうちに、ふとそのことを思い出してしまった。

ジェフの曾おじいさんは、この町の、ジェフの隠れ家からも見える一つの山を治めていた酋長(Chief)だったのだという。ジェフはそいう家柄のお人だったらしい。
ジェフは自分の血と今の自分の職業との関係を否定したが、世界で一番きつい外洋レースの間の短い休日に、リラックスするために沖に出て行く男を見ていると、どうしてもそれと結び付けたくなってしまう。

血の記憶というものは確かに存在する、と思う。
蛇の目やヌメリとした肌、チロチロと不気味に出し入れされる舌を見ていると、ほとんどの人が背中に何か冷たいものを感じるはずだ。はるか昔、哺乳類が小さなねずみのような形態で誕生して以来、哺乳類に連綿と受け継がれた記憶がその反応を起こさせるのだという。

最初の哺乳類は、爬虫類全盛時代に登場し、新入りの生物として爬虫類の格好の餌だった。爬虫類から襲われたくない哺乳類は、爬虫類が体温が低下して動けなくなる夜間を選んで活動するようになった。
夜間活動するために哺乳類は視覚以外の感覚を研ぎ澄まさざるを得なくなって脳が急速に進化して、今に至っているのだが、爬虫類に襲われるとただ食われるしかなかった原始哺乳類の頃の恐怖が、人間の脳の奥にある脳幹という部分に記憶されていて、その記憶が、我々人類に今もってなんとなく蛇を気味悪く思わせているという、脳の研究書を読んだことがある。

もしそれが正しいとすると、たかだか1000年前の血の記憶が受け継がれていることは不思議でもなんでもないという気もしてくる。ジェフの曾おじいさんは、強い血の持ち主だったんだろう。
小さい頃から海で遊んだ環境とこの血が、チーム内で悶着を起こしやすいが、南氷洋をステアリングさせると世界のトップ5だと言われる、ジェフ・スコットというプロセーラーを生み出したのだろうか。

ジェフは470クラスで世界を目指したものの、同じキウイで同じ世代のデイビット・バーンズやピーター・エバンスに阻まれて果たせず、FDでオリンピックを目指したものの同じく470から転向したマーリー・ジョーンズに阻まれて果たせなかった。

仕方なく新しい世界を求めて飛び込んだ外洋レースの世界だったが、ジェフはそこで自分が世界のトップに君臨できる場所を見つけた。サバイバルに近いコンディションでのヘルムスマンだ。
しかし、その仕事は自分の能力の限界と極限まで引き絞られた集中力を要求される、辛い仕事でもある。そのようなコンディションで艇のコントロールを失って倒れると、ボルボ60クラスといえども30分から1時間は起き上がることができない。全艇が20ノットを越えるスピードで走っているその状況では、ヘルムスマンのたった1回の失敗は20マイルの遅れにもつながるのだ。

チームの勝利のために要求される集中力の連続で、極限まで擦り減ったジェフの神経は、一人で大洋に出て、大型魚を通して海と無心で対峙することでのみ、再び蘇る。仕事とは別の方法で海と向き合うことが、ジェフにとって次のレグへの活力を生む。そういうことのようなのだ。
ジェフを根っからの海洋民として捉えることで、やっとこの男の“休暇”の意味が分かるような気がする。

その日、夕方になるとジェフの隠れ家にガールフレンドのナオミがやってきた。ザックはナオミにかなりなついている。ジェフがちゃんと説明したのだろうが、子供の頃から大人の複雑な男女関係をポジティブに受け入れる訓練ができているようにみえる。
ジェフがボルボ・オーシャンレースで留守にしている間、この家に居候している弟のグレッグも仕事から帰ってきた。

庭にテーブルと椅子を出し、目の前に広がる海を見ながら話しているうちにワインの瓶がどんどん空になっていく。トイレからの帰り、気の置けない3人に囲まれて幸せそうに夕焼けの海を見ているジェフの後姿は、かなりフォトジェニックなものに見えた。カメラを取り出そうかと思ったが、いま自分が実際に見ている光景の温もりを、そのまま写真に写し撮る力は自分にはないと悟ってあきらめた。