Feb.21 2006 風邪さりぬ。

2006年02月22日 | 風の旅人日乗
2月21日 火曜日。

朝、那覇市内のビジネスホテルのベッドで目を覚まし、そのまま身体の様子をチェックしてみる。
寒気、なし。
頭痛、喉の痛み、なし。
腹痛、なし。
風邪去りぬ!!
どっからでもかかってこい!サバニ。

朝10時、昨日の夜、別便で沖縄に来て、ソープ○ンド街の真っ只中にあるホテルに泊まっていたIと合流し、U田と3人でモノレールに乗って、首里にある県立博物館に行く。
展示されている帆掛サバニを見て、セールの作り方や、舵取り用のエークの形をチェック。
ついでに首里城にチラッと足を運んだ後、国際通りの市場2階の食堂でソーキそばを食べて、泊港の高速船乗り場から座間味島行きの『クイーンざまみ』に乗り込む。

1時間の航海の間に、2回、鯨のブロウ(潮吹き)を見た。今回の合宿では、サバニに乗って鯨を近くで見るのが楽しみ。
午後4時過ぎに座間味港に着くと、もうY城さんとO城が港まで『まいふな』を回航していて、練習開始準備が整っている。

今回もお世話になる民宿N村屋に荷物を置き、すぐに着替えて練習開始。16時半過ぎに海に出たが、こちらは日が長いので、結構たっぷりと練習できた。
さあ、『まいふな』、そして船主の山城さん、これから1週間、12月の前回同様よろしくお願いします、。

さて、昨日に引き続き、なぜぼくがサバニにこだわるのかシリーズ第2弾。
今日は、2005年12月、そして今回の2月と、ぼくが乗って練習している『まいふな』とその船主・山城さん、『まいふな』を造った船大工さんについて、昨年ヨットの専門誌に書いた自分の文章を読み返してみようかと思います。

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沖縄の海の矜持

正統派サバニ〈まいふな〉と船主・山城 洋祐

文=西村一広

【伝統の帆かけサバニ復活】

帆かけ(フーカキ)サバニ保存会が沖縄で主催するサバニ帆漕レースが2005年も開催された。

帆かけサバニ保存会の当初の目標は、沖縄の伝統帆装舟であるサバニを集め、そのレースを開催することで、朽ち果てようとしているサバニを保存することだった。
ところがこの催しは、沖縄人たちの心に、思いもよらない変化をもたらせた。

祖先が伝えてきた舟に触れることで、参加者たちの中に、自分が海の民であることの誇りを思い出す者が現れるようになった。そしてさらに、サバニ本来の、より伝統的な形と仕様のサバニを、新造しようとする者たちが出てきたのだ。

つまり、「古いサバニそのものを保存する」という、サバニ保存会の当初の目標から一歩進んで、沖縄各島の舟大工が連綿と伝えてきたサバニ造りの知恵と技術と、そして、かつての沖縄漁師が持っていたサバニ帆走技術という、サバニに関わる二つの“技”を、後生に継承していこうという胎動が始まったのだ。

2005年の第6回帆漕サバニレースに座間味島に集まった38隻の中で、ひときわ美しい造りと船型でレース関係者たちの注目を集めた新造サバニがあった。
船首と船尾板に『まいふな』と書かれた船名が晴れやかに浮かび上がる。

『まいふな』の船主は山城洋祐、64歳。
長く西洋型のヨットでセーリングを続けてきたベテラン・セーラーだが、この帆漕サバニレースが始まったのをきっかけに、那覇生まれ石垣島育ちの沖縄人としての、サバニに対する誇らしい気持ちを押さえることができなくなった。
そして、自分が子供の頃から見慣れてきた伝統の外洋帆装サバニを、船主、船頭として建造する決心をすることになったのだ。

【伊江島通い】

生粋の沖縄人である山城にとって、サバニがセーリングで海を行き交っている光景は、子供の頃からごく当たり前のものだったのだ。
太平洋戦争が始まる少し前に那覇で生まれた山城は、終戦直前の激戦の舞台となった沖縄本島を離れて、石垣島で少年時代を過ごした。
石垣島の家の近所には造船所があり、いつも遊びに行っては舟作りというものを間近に見ながら育った。

東京の大学を卒業した山城は沖縄に戻って那覇市役所に勤め、ダイビングに懲るようになる。ある年の春、荒れ気味の海に潜り、海面に浮上した山城の目の前を外洋ヨットの艇団が走り抜けていった。第2回沖縄レースをスタートした直後の艇団だった。

山城はその光景に魅せられ、それ以来ずっと、セーリング一筋の人生を送るようになった。沖縄だけのセーリングでは飽き足らず、役所の年休を使って太平洋を横断したり、日本国内の様々な外洋レースに出るようになった。

2000年にサバニ帆漕レースが初めて開催されると、当時4隻のサバニを所有していた山城も、当然のようにそれに参加した。しかし成績は芳しくなかった。セーリングに関してはどんな船であっても自信があった山城にとって、とても納得のいくものではない。

苦節3年、第4回目2003年の大会で、山城は艇長としてこのサバニ帆漕レースに初優勝する。圧勝だった。

しかし山城自身は、その優勝にちょっとしたわだかまりを感じていた。
優勝はしたものの、山城のチームのサバニには安定性を増すためのアウトリガーが付いていた。そしてさらに、本来の伝統的サバニには付いていない舵も使った。

ただ、それは山城のサバニに限ったことではなかった。レースに参加したほかのサバニのほとんどが、転覆防止用の塩ビ製パイプやアウトリガーやラダーを装着している。
山城はこのことにも違和感を覚えていた。これらの付加物が付けられたサバニは、山城が子供の頃に見たサバニ本来の姿ではない。

昔から伝わる本来の姿の帆装サバニを操って堂々と優勝してこそ、帆装サバニ技術の保存という意味も含めて、価値がある、と山城は考えるようになった。
そして山城は、本物の、付加物が付いてない、伝統の形を受け継ぐサバニを、自分が船主として新しく作ることを決心した。

その資金にするために、宜野湾で所有している外洋レースヨットを売り払うことにした。これからは、西洋型ヨットでのセーリングよりも、沖縄人として、沖縄の伝統であるサバニでのセーリングに没頭することに決めたのだ。

4年前に那覇市役所港湾部を定年で退職して以来、山城はある程度の時間を自由に使うことができる。自分の理想とするサバニの建造を依頼するために、山城は伊江島(いえじま)の舟大工、下門龍仁(しもじょう りゅうじん)のもとを訪れることにした。

下門龍仁の名前は、山城が那覇市役所の水産係として漁船登録業務を行なっていた頃から、山城の頭に刻み込まれていた。
下門は、船大工であると同時に、かつては外洋に出て一本釣りや曳き釣りで魚を獲る本物の漁師でもあった。サバニの帆を縮帆しなければいけないほどの強風が吹き荒れる海で漁をした経験も豊富だった。自分自身が外洋でサバニの経験が深く、サバニの操船術にも長けているサバニ大工は、沖縄にも何人もいない。

サバニ帆漕レースは慶良間諸島の座間味から那覇までの外洋を走る。コース上には強い潮が流れ、波も悪い。
外洋での帆走性能に優れた正統派のサバニを造ってくれるのは、下門以外にはいない、と山城は確信していた。
 
サバニの舟大工は、建造の依頼があると、その船主とじっくり話をする。そして、まずはその船主の人柄を認めることができ、次に、造るべきサバニの性格付けに納得しなければ、作業に取り掛からない、という。

山城は自宅のある首里(しゅり)から本部(もとぶ)まで車を走らせ、そこから船に乗って何度も伊江島に通い、下門に自分の気持ちを伝え続けた。
買い換えたばかりの車の走行距離があっという間に1万キロを越えた。
下門自身に相手をしてもらえないときは下門の家族に混じって味噌作りの手伝いもした。そうして下門と心を通わせる努力を重ねた結果、やっと下門が山城のサバニを造る気持ちになっていく。

櫂で競う競技であるハーリー用のサバニを別にすれば、下門が20年ぶりに手がける外洋帆掛けサバニだった。今年76歳になった下門にとって84隻目の剥ぎ舟(はぎぶね)である。

【伝統サバニ操船術】

そのサバニの名前は、造る前から決めていた。『まいふな』である。八重山の言葉で「お利口さんだね」という意味だ。

 『まいふな』の全長は830cm。
サバニを誕生させようとするとき、まず最初に横幅が決められる。その横幅から逆算して、長さが導き出されるのだそうだ。
サバニは、第二次世界大戦後にエンジンを載せるようになると、その底板の幅が広くなった。エンジンベッドを船底に据えるにはそうするしかなかったからだ。しかし、それ以前の、本来の帆掛けサバニの底板はもっと細いものだったという。

当然『まいふな』の底板も、かつての、伝統の帆掛けサバニと同じように細い。
この底板の細さが、『まいふな』に高いスピード性能と、同時に美しい外観をも与えることになった。

一般に船は、底板が細くなると不安定になり、それを走らせるためには、乗り手の技術もそれなりのものが要求される。
しかしかつてのサバニ漁師は、荒れた海でもその形のサバニで漁をしていたのだ。サバニが伝統の形に戻ると、それを操る人間にも、かつてのサバニ漁師のように、セーラーとしての高い技術を要求されるのは当然のことなのだ。
 
『まいふな』の帆は、山城が久米島に通って、久米島紬の染めにも使われる車輪梅(しゃりんばい)の木で染めた。車輪梅で布を染めると織りの目が詰まるだけでなく、布に防水性も加わる。古くから伝わる沖縄人の知恵だ。

『まいふな』が完成して、フェリーに載せられて座間味にその姿を見せると、そのフォルムに多くの人々の目が吸い寄せられた。島の古老たちは、これが昔のサバニの形だ、と懐かしんだ。レース参加者は、強力なライバル艇が誕生したことを知った。

しかし、コース短縮になった2005年のレースで、『まいふな』は5位に終わる。
敗因は、コースミス、その焦りが招いた操船ミスによる転覆、そしてそれに付随して発生したマスト関係のトラブルである。
つまり敗因は、『まいふな』というサバニではなく、すべてが乗っている人間側の未熟によるものだ。

山城は、2005年の反省を胸に、2006年に向けて捲土重来を期している。
2006年のレース・メンバーを早めに決め、そのメンバーで練習を重ねる予定だ。
そして乗り手が、サバニ本来の伝統の操船術で『まいふな』を自由自在に操れるようになり、レースでその性能を思う存分発揮してやらなければ、『まいふな』と、それを造った下門龍仁に申し訳ない、と船主・山城洋祐は決心している。