Feb.25 2006 転覆練習

2006年02月25日 | 風の旅人日乗
2月25日 土曜日。

沖縄・座間味島サバニ合宿5日目。

今日は、沈(チン。転覆)の練習とその状態から再び帆走できる状態に復帰する練習。面白かったよ。

さて、本日の沖縄サバニエッセイは、2003年に雑誌に書いたものの、昨日の前編に引き続いて、後編です。


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海の系図を求めて(後編)
―― 沖縄サバニと出会う旅 ――

取材・文 西村一広
取材協力 スウォッチ グループ ジャパン 株式会社

サバニを引き継ぐ者たち

【精神的略奪に耐えて残した海の文化】

沖縄の歴史を振り返ると理解できることだが、沖縄の人たちは、本土政府から自分たちの文化を奪われ続けてきた。
長い歴史のスケールから見てみればごく最近でも、例えば、明治時代が始まった頃、沖縄の人たちは自分たちの民族衣装を着ることを禁止された。

第2次世界大戦が始まると、本土政府は沖縄人が土地の言葉を使って会話することを禁止した。土地の言葉を使って会話している者を敵国スパイとみなすというのだ。
それ以前の時代には一切の武器を持つことも禁止された。沖縄で空手が生まれた理由である。

自分たちの言葉を奪われる悲しみはどんなだっただろうか。
「基礎施設」という分かりやすい母国語があるのに英語で「インフラ」といい、「協力」「共同作業」という美しい響きの自国語を持っているのにわざわざ外国語で「コラボレーション」とオチョボ口で言う現代の日本人には、到底理解できない悲しみだったことだろう。

そんな圧政の中で、沖縄の人たちは自分たち独自の船を守ってきた。
帆かけサバニである。
帆かけサバニは、沖縄の人たちが辛うじて守ることができた数少ない文化のひとつである。鎖国政策を敷いた徳川幕府によって日本全国で徹底された船の構造制限の影響も受けたし、なぜか沖縄だけは鉄釘を使えないという制限も受けた。

しかしそれらの制限の中で、彼らはサバニ文化を発展させ続けた。鉄釘ではなく、木の釘(フンドー)と竹釘(タケフズ)で船板を強固に合わせるサバニ構造を編み出した。
それは他地域の和船に比べて驚異的に長い寿命をサバニに与えることになった。

現在は杉材を組み合わせて造られているサバニだが、僅か二百数十年前までは、大木を刳り抜いて造るサバニが主流だった。
丸木舟の時代を持つということは、サバニはその血統をさらに過去にまで遡っていくことができる舟だということを意味する。

日本は、実は世界最古の造船用工具・丸ノミ形石斧を出土している国である。鹿児島県加世田市の栫ノ原(かこいのはら)遺跡から出てきた一万二千年前の石斧である。これは、木を刳り抜いて舟を造る道具である。

世界最古の造船工具が出てきたということはつまり、九州地方には世界最古の舟があった、ということになるのである。
我々の祖先は、この地球という天体の海に初めて舟を浮かべた生物なのかも知れないのである。そして、現在我々が実際に見て触れることができるサバニは、その一万二千年前の世界最古の丸木舟の、直系の子孫なのかも知れないのだ。

近世の圧政の中にあっても、自分たちの文化を守るという頑固さを持ち続けた沖縄人の矜持こそが、サバニという舟を現代に伝えることを可能にしてくれたのだ。


【「素晴らしき哉サバニ」】

サバニに乗って、漕ぎ、セーリングして、まず驚かされることは、その加速性能である。
スピードである。
プレーニング性能である。
前時代的イメージの船型を見てサバニをなめてかかると、ヤケドするよ。

サバニに秘められた素晴らしい能力を初めて科学的に分析して論文を発表したのは、ぼくが知る限りでは、日本のヨット設計家の草分け横山晃だ。
今から30年近く前の、ヨット専門誌・舵誌1976年11月号から翌年の1月号にかけて3回連載された「素晴らしき哉サバニ」という標題の文章である。

横山はサバニの船型を分析し、舵誌にその結果を発表した理由を、「この名艇を風化させてはならないという思いに駆られ」、「西欧科学技術の最高峰よりも更に優れた名艇のエッセンスを今日以降の舟艇設計に生かそうとする同士が1人でも増えることを願って」、と説明している。

西洋型ヨットの設計家として日本の第一人者であり、長く一世を風靡していた横山晃をして「西欧科学技術の最高峰よりも更に優れた名艇」と言わしめる性能を持っているのが、沖縄の無名の舟大工たちが伝承で造ってきたサバニなのである。

サバニの船底前部には、不思議な前後方向の膨らみがある。
船首からなだらかに船体中央部に向かって喫水が深くなっていくのではなく、船首部で一旦喫水が深くなったあと、ごく僅かなマイナスカーブを描いて喫水は再び浅くなり、それから再び深くなっていく。

横山はこの形こそがサバニのスピードの理由だと説いた。この工夫によって、船首から立つ波を小さく抑え、結果、ハル・スピードを越えてプレーニングへと入るときに越えなければいけない最大抵抗そのものも小さくなるのだ、と。

江戸時代の東京湾。つまり江戸前の海で漁師が魚介を捕ったり、池波正太郎の小説の主人公達が大川(隅田川)で遊んだりしていたのは、ニタリとかチョキとか呼ばれていた舟だが、これらの舟は、サバニと同じく剣のような細い船型の高速性能ボートだった。その形良さとスピードで、"粋(いき)"であることを人生最大の目標としていた江戸ッ子を喜ばせた。

横山はニタリやチョキにも、サバニと同様に船首部船底に膨らみがあって船首から出る波が小さいことを指摘し、これを、サバニから直接影響を受けたものだと推論している。
糸満のうみんちゅが八丈島や伊豆まで来ることは、その昔から日常茶飯事のことで、彼らを通じてサバニ船型が江戸湾の舟にも伝えられたのだろう、と書いている。


【サバニが沖縄にもたらしたもの】

横山晃が船型を分析したのは糸満のサバニだが、サバニは、糸満、宮古水域、八重山水域では、それぞれ船型が微妙に異なる。
しかも地域による違いだけではなく、舟大工一人一人が、敢えて他人の形に迎合しない、自分自身の形を持っていたと言われる。

宮古の池間島出身で、現在は石垣島でサバニを造っている船大工・新城康弘は、サバニの船首部船底の膨らみについて、横山とは別の理論で説明している。「この船底の膨らみはサバニが風に流されるのを防ぎ、また波を切り開く役目を果す」。

新城が造ったサバニの船底は、前部の比較的エッジの立ったV~Uシェイプから後半部のフラットなシェイプへとなだらかに変化していく。前半部の形でアップウインドを効率良く走り、後半部のフラットな部分でダウンウインドをパワフルに走る、最近のレーシング・ヨットと似た考え方だ。
いや、最近のレーシング・ヨットのほうが、数十年前から造られている新城のサバニを真似たことになる。

これに似た局面構成の船底を最近どこかで見たなあ、と記憶をたどったら、それは2003年の第31回アメリカズカップ予選で2位になったオラクルUSA-76』だった。
『USA-76』はタッキングしない限り、上りもダウンウインドも、2003年のアメリカズカップ挑戦者のなかで、圧倒的に速かったボートだ。

新城にサバニを造ってもらったある船主によると、そのサバニは他のどのサバニよりも長く波に乗ることができ、どんなに時化ても船首が波に沈むことなく常に波を切り続けるのだという。新城は、自分の技術を残すサバニを、自分の体力が続くうちにもっともっとたくさん造りたいと望んでいる。

現代の糸満うみんちゅたちも、「サバニにもいろいろあるけど、糸満のサバニこそが本筋なんだ」という気概を持っている。
"これが本物の糸満サバニだ"と誇れる新艇を自分たちで造ろうという気運が、最近糸満の漁師を中心に盛り上がっているらしい。

こういった動きやサバニ帆漕レースの人気ぶりを観察していると、サバニは、サバニという文化だけにとどまらず、沖縄人の誇りそのものを思い出すキーワードになったように見える。

今、沖縄でサバニをきっかけにして起きているようなことが起爆剤になって、自分たちの海文化を思い出し、見直し、復活させ、自分たちの誇りを取り戻すことに繋がる活動が日本全国に広がっていけば、すでに化石になりつつある日本の海文化の未来も少しは明るくなると思う。

自分が生きている世界を、経済という側面だけしか知らないで死んでいくのは、淋しいことだよなあ。(文中敬称略)

(完。無断転載はやめてくだされ)