2月24日 金曜日。
沖縄・座間味島サバニ合宿4日目。
今日の慶良間諸島座間味島は、雨も降っていて、ちょっと肌寒い(といっても20℃はある)。
本日の沖縄サバニエッセイは、2003年に雑誌に書いたもの。
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海の系図を求めて(前編)
―― 沖縄サバニと出会う旅 ――
取材・文 西村一広
取材協力 スウォッチ グループ ジャパン 株式会社
【今年もサバニ】
陸上を移動していて突然目の前に海や水平線が見えたとき、心は何故ざわめき立つのだろう?
海に出て、船首を沖に向けて波を乗り越えるとき、心は何故昂ぶるのだろう?
自分の体の中に、海とともに生きてきた民族の血が流れているせいではないのだろうか?
そんな予感の手掛かりに会うために沖縄に行く。サバニという帆装舟に乗りに行く。
【サバニに会える海、沖縄】
台風6号が宮古島に接近していた。強い南東風が時折の激しい雨とともに吹きつける沖縄本島・那覇空港に、シーカヤッカーの内田正洋と共に降り立つ。
今年、2003年もサバニに乗るために沖縄を訪れた。慶良間諸島の座間味村から那覇まで約18マイルの海を走る。第4回サバニ帆漕レースである。
昨年はソウル・オリンピック470級代表の野上敬子さんと一緒に乗って楽しんだが、今年は内田、そしてハワイからやって来るナイノア・トンプソンたちと一緒に乗る。
沖縄屈指のシーカヤッカー大城敏が空港まで迎えに来てくれ、彼が経営するカヤックガイド店「漕店」に立ち寄ってキリリと冷えた泡盛で再会を祝した後、首里城の近くにある山城洋祐の自宅に向かう。
山城は今回の我々『まいふな(八重山言葉で、「お利口さんだねえ」の意)チーム』のボスであり、何週間も前からこのレースのためにサバニを用意し整備してくれている生粋の沖縄人。外洋ヨットを所有するベテラン・セーラーでもある。
自宅の庭に生えていたイヌマキの木からレースに使うアウトリガーを削り出す作業をしていた山城を、内田と大城が手伝う。
ぼくは、途中まで終わっているセールの仕上げ作業を引き継ぐことにする。神奈川県の三浦半島にあるセール屋さんが特別なコットン製オックスフォード織りの生地で作った帆を、山城が久米島まで船で持って行き、久米島紬の染めにも使われる車輪梅(しゃりんばい)の木で染めた。
車輪梅で布を染めると、生地の織りの目が詰まるだけでなく、防水性も加わるのだという。そのセールにはフーカケ(帆かけ)サバニの伝統通りに竹製の横桁が渡されている。
各横桁にシートとなるロープを付け、端止めをする。このロープは山城が芭蕉(琉球名産の芭蕉布の材料となる植物)の繊維を使って自分の手で綯(な)ったものだ。仕上げに縮帆用のハトメをセールに打つ。
作業を終えて皆でオリオン・ビールを飲みつつ上空を見上げると、台風に吹き込んでいく風が雲をびゅんびゅん飛ばしている。
それを見て、少し考えてビールを置き、3段めのリーフ用ハトメを打ち加えた。
それにしても、サバニのセールは帆(フー)であり、メインシートはティンナーであり、マストはハッサ、メインハリヤードはミンナーで、マストステップをダブ、マスト・カラーをカンダンというのである。
常々ヨットレースでも通常のセーリングでも、自分の国の単語がないのを淋しく思っていたが、サバニはその形だけでなく、言葉においてもサバニ・オリジナルを持っている。
我が日本国にも、独自の帆走文化があり、独自の言葉があったのである。
一般の日本人に知られることがないまま、20世紀の終わりと共にほとんど途絶えかけていたこの文化が、サバニ保存会が年に一度開催する「サバニ帆漕レース」という催しのおかげで、再び息を吹き返そうとしている。
伝統の天然染料で染めた帆を揚げ、芭蕉の葉から作った縄を操って風に乗る。自分たちの祖先が使っていた道具、言葉をそのまま使って美しい沖縄の海を帆走するのである。自分が日本人であることを意識するセーラーならだれでも、最高の幸せだと感じるのではないだろうか。
少なくともぼくは、サバニに乗って帆走しているとき、説明しがたい誇らしい気持ちが高まってしまい、西洋人の友達セーラーたちに威張りたくなって仕方がない。
【過去を知り、未来を思う】
翌々日、台風6号のために欠航していた座間味行きフェリーの運航再開第1便に乗って、1年ぶりの座間味へと向かう。
前日にハワイから沖縄入りしたナイノア・トンプソン、アウトリガーカヌー・クラブの若者たちから成る我ら「まいふなチーム」がこのフェリーの上で揃い、ナイノアがハワイから持参した海図でレースで走る実際のコースを確認しながら、座間味島への航海を楽しむ。
ナイノア・トンプソンについては、龍村仁監督の映画「ガイアシンフォニー」や星川淳氏著の『星の航海師』などによって知っている人も多いことだろう。
ナイノア・トンプソンは、祖先から伝承された古代航法だけを頼りに、いかなる航海用具も用いず、太平洋を自在に行き来する能力を持ったナヴィゲーターである。
ナイノアはその古代航法によって、ハワイからタヒチ、イースター島、トンガ、ニュージーランドに至る太平洋を、古代セーリングカヌーを復元した〈ホクレア〉で何度も航海してきた。
それらの航海を通じて、ナイノアは、ポリネシア文化圏のすぐ近くに浮かぶ日本という国、人、文化に強い何かを感じている。言葉にはあえて出さないが、彼は、自分たちポリネシア人の故郷が実は日本なのではないかと強く感じているフシがある。
だからこそ、サバニという舟、その文化全体にも深い敬意を抱いている。それが、沖縄を訪れてこのサバニ帆漕レースに参加したいと彼が強く願った理由なのである。
同じフェリーの貨物デッキには、サバニレースに参加する大小、新旧、様々なサバニが載せられて、座間味島に向かっている。
ほとんどが沖縄各島から集められた船齢数十年のサバニたちだが、今年は新艇の数も増えてきた。古いサバニを保存するだけでなく、伝統工法に則った新しいサバニを作ることで、サバニ造船技術も保存することに協力したいと考える船主が現われるようになったのだ。
訪れる度にその海の美しさに圧倒される座間味島では、今回のサバニ帆漕レースに参加するチームが楽しそうに準備をしていた。
年に一度のこの催しを心待ちにしていた現代のうみんちゅたちだ。2003年、第4回サバニ帆漕レースにエントリーしたのは34隻。
スタートを翌日に控え、真っ白い砂浜が続く古座間味浜の沖では、レース中の西洋型ヨットと交錯するようにしてサバニたちがセーリングしている。
濃淡の茶色に染められたサバニのセールが、強い光が溢れる青い海の色彩の中で、柔らかく目を癒す。
世界の他のどこに行っても見ることができない、日本オリジナルの光景が目の前に広がっていた。
このサバニ帆漕レースの意義は、少なくとも今のところはまだフィニッシュラインでの勝敗ではないと思う。
自分たちの祖先が乗っていた帆掛け舟を蘇らせ、水に浮かべ、皆が揃って座間味から那覇までの海を走ること。
先人達が大海を渡るのに使っていたのと同じ形の舟が語りかけてくるものを身体で感じ取りながら海を渡ること。
それをより多くの人たちが体験すること。
これらのことが今は重要なのだと思う。それによって、未来に繋がるものも見えてくるようになるのだろう。
座間味から那覇まで約18マイルの航海は、今年もあっという間に終わってしまった。もっともっと乗っていたかった。また一年待たなければいけない。
(後編に続きます。)
(無断転載は、やめて下され)
沖縄・座間味島サバニ合宿4日目。
今日の慶良間諸島座間味島は、雨も降っていて、ちょっと肌寒い(といっても20℃はある)。
本日の沖縄サバニエッセイは、2003年に雑誌に書いたもの。
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海の系図を求めて(前編)
―― 沖縄サバニと出会う旅 ――
取材・文 西村一広
取材協力 スウォッチ グループ ジャパン 株式会社
【今年もサバニ】
陸上を移動していて突然目の前に海や水平線が見えたとき、心は何故ざわめき立つのだろう?
海に出て、船首を沖に向けて波を乗り越えるとき、心は何故昂ぶるのだろう?
自分の体の中に、海とともに生きてきた民族の血が流れているせいではないのだろうか?
そんな予感の手掛かりに会うために沖縄に行く。サバニという帆装舟に乗りに行く。
【サバニに会える海、沖縄】
台風6号が宮古島に接近していた。強い南東風が時折の激しい雨とともに吹きつける沖縄本島・那覇空港に、シーカヤッカーの内田正洋と共に降り立つ。
今年、2003年もサバニに乗るために沖縄を訪れた。慶良間諸島の座間味村から那覇まで約18マイルの海を走る。第4回サバニ帆漕レースである。
昨年はソウル・オリンピック470級代表の野上敬子さんと一緒に乗って楽しんだが、今年は内田、そしてハワイからやって来るナイノア・トンプソンたちと一緒に乗る。
沖縄屈指のシーカヤッカー大城敏が空港まで迎えに来てくれ、彼が経営するカヤックガイド店「漕店」に立ち寄ってキリリと冷えた泡盛で再会を祝した後、首里城の近くにある山城洋祐の自宅に向かう。
山城は今回の我々『まいふな(八重山言葉で、「お利口さんだねえ」の意)チーム』のボスであり、何週間も前からこのレースのためにサバニを用意し整備してくれている生粋の沖縄人。外洋ヨットを所有するベテラン・セーラーでもある。
自宅の庭に生えていたイヌマキの木からレースに使うアウトリガーを削り出す作業をしていた山城を、内田と大城が手伝う。
ぼくは、途中まで終わっているセールの仕上げ作業を引き継ぐことにする。神奈川県の三浦半島にあるセール屋さんが特別なコットン製オックスフォード織りの生地で作った帆を、山城が久米島まで船で持って行き、久米島紬の染めにも使われる車輪梅(しゃりんばい)の木で染めた。
車輪梅で布を染めると、生地の織りの目が詰まるだけでなく、防水性も加わるのだという。そのセールにはフーカケ(帆かけ)サバニの伝統通りに竹製の横桁が渡されている。
各横桁にシートとなるロープを付け、端止めをする。このロープは山城が芭蕉(琉球名産の芭蕉布の材料となる植物)の繊維を使って自分の手で綯(な)ったものだ。仕上げに縮帆用のハトメをセールに打つ。
作業を終えて皆でオリオン・ビールを飲みつつ上空を見上げると、台風に吹き込んでいく風が雲をびゅんびゅん飛ばしている。
それを見て、少し考えてビールを置き、3段めのリーフ用ハトメを打ち加えた。
それにしても、サバニのセールは帆(フー)であり、メインシートはティンナーであり、マストはハッサ、メインハリヤードはミンナーで、マストステップをダブ、マスト・カラーをカンダンというのである。
常々ヨットレースでも通常のセーリングでも、自分の国の単語がないのを淋しく思っていたが、サバニはその形だけでなく、言葉においてもサバニ・オリジナルを持っている。
我が日本国にも、独自の帆走文化があり、独自の言葉があったのである。
一般の日本人に知られることがないまま、20世紀の終わりと共にほとんど途絶えかけていたこの文化が、サバニ保存会が年に一度開催する「サバニ帆漕レース」という催しのおかげで、再び息を吹き返そうとしている。
伝統の天然染料で染めた帆を揚げ、芭蕉の葉から作った縄を操って風に乗る。自分たちの祖先が使っていた道具、言葉をそのまま使って美しい沖縄の海を帆走するのである。自分が日本人であることを意識するセーラーならだれでも、最高の幸せだと感じるのではないだろうか。
少なくともぼくは、サバニに乗って帆走しているとき、説明しがたい誇らしい気持ちが高まってしまい、西洋人の友達セーラーたちに威張りたくなって仕方がない。
【過去を知り、未来を思う】
翌々日、台風6号のために欠航していた座間味行きフェリーの運航再開第1便に乗って、1年ぶりの座間味へと向かう。
前日にハワイから沖縄入りしたナイノア・トンプソン、アウトリガーカヌー・クラブの若者たちから成る我ら「まいふなチーム」がこのフェリーの上で揃い、ナイノアがハワイから持参した海図でレースで走る実際のコースを確認しながら、座間味島への航海を楽しむ。
ナイノア・トンプソンについては、龍村仁監督の映画「ガイアシンフォニー」や星川淳氏著の『星の航海師』などによって知っている人も多いことだろう。
ナイノア・トンプソンは、祖先から伝承された古代航法だけを頼りに、いかなる航海用具も用いず、太平洋を自在に行き来する能力を持ったナヴィゲーターである。
ナイノアはその古代航法によって、ハワイからタヒチ、イースター島、トンガ、ニュージーランドに至る太平洋を、古代セーリングカヌーを復元した〈ホクレア〉で何度も航海してきた。
それらの航海を通じて、ナイノアは、ポリネシア文化圏のすぐ近くに浮かぶ日本という国、人、文化に強い何かを感じている。言葉にはあえて出さないが、彼は、自分たちポリネシア人の故郷が実は日本なのではないかと強く感じているフシがある。
だからこそ、サバニという舟、その文化全体にも深い敬意を抱いている。それが、沖縄を訪れてこのサバニ帆漕レースに参加したいと彼が強く願った理由なのである。
同じフェリーの貨物デッキには、サバニレースに参加する大小、新旧、様々なサバニが載せられて、座間味島に向かっている。
ほとんどが沖縄各島から集められた船齢数十年のサバニたちだが、今年は新艇の数も増えてきた。古いサバニを保存するだけでなく、伝統工法に則った新しいサバニを作ることで、サバニ造船技術も保存することに協力したいと考える船主が現われるようになったのだ。
訪れる度にその海の美しさに圧倒される座間味島では、今回のサバニ帆漕レースに参加するチームが楽しそうに準備をしていた。
年に一度のこの催しを心待ちにしていた現代のうみんちゅたちだ。2003年、第4回サバニ帆漕レースにエントリーしたのは34隻。
スタートを翌日に控え、真っ白い砂浜が続く古座間味浜の沖では、レース中の西洋型ヨットと交錯するようにしてサバニたちがセーリングしている。
濃淡の茶色に染められたサバニのセールが、強い光が溢れる青い海の色彩の中で、柔らかく目を癒す。
世界の他のどこに行っても見ることができない、日本オリジナルの光景が目の前に広がっていた。
このサバニ帆漕レースの意義は、少なくとも今のところはまだフィニッシュラインでの勝敗ではないと思う。
自分たちの祖先が乗っていた帆掛け舟を蘇らせ、水に浮かべ、皆が揃って座間味から那覇までの海を走ること。
先人達が大海を渡るのに使っていたのと同じ形の舟が語りかけてくるものを身体で感じ取りながら海を渡ること。
それをより多くの人たちが体験すること。
これらのことが今は重要なのだと思う。それによって、未来に繋がるものも見えてくるようになるのだろう。
座間味から那覇まで約18マイルの航海は、今年もあっという間に終わってしまった。もっともっと乗っていたかった。また一年待たなければいけない。
(後編に続きます。)
(無断転載は、やめて下され)