わたしは 犬を連れて
家の近くの海辺に来ていた
低い堤防にそって
ゆるやかに高くなる坂のてっぺんで
海を見ながら静かに風に吹かれていた
海は穏やかに青い
日差しは明るく降り注ぐ
だがわたしの心は暗かった
わたしは
職場のことで大きな懸案をかかえていた
この事態を乗り越えるにはどうしたらいいのかと
そればかり考えていた
心が暗いところに向かおうとすると
かちりとスイッチが切り替わるように
わたしは明るい空に心が吸い込まれる
ああ 悩む必要などないではないか
大切なのは みんなの幸せだ
ならば わたしは
わたしの幸せの方を 捨てればいい
風に少し 涙を感じたが
わたしの心は明るく澄んでいた
そうだ これが一番正しい
なぜ そんなことをするのです
と すぐ近くから
尋ねる声がする
その方を振り向くと
堤防の向こうに小さな漁船があって
その舳先に いつしか
美しい一羽の鷲がとまっているのだった
わたしが不思議な顔をして鷲を見つめていると
鷲は静かにつばさを広げ
わたしのすぐそばの堤防の上まで飛んできて
また言うのだ
なぜ そんなことをするのです
わたしは 戸惑いつつ 答えた
はい なぜなら
わたしはこの国の王なのです
誰も知らないことだけれど
王である限りは
みなの幸せを 最優先せねばなりませんから
そういうと 鷲は
澄んだ青い目を かすかにゆがめて言った
あなたなのですか
この国の王は
はい
と言っても
わたしが勝手に責任をとっているだけなのですが
だれに頼まれたわけでもなく
勝手に
はい 勝手に
でも 勝手にでも
わたしがやっていなければ
今はだれもやってはくれませんから
それはそうです
と 鷲は言った
そして 深いため息をついた
のんきなことをと
思われるかもしれません
馬鹿なことをと
思われるかもしれません
でも わたしは
ああ 言わなくていい
わかっていますから
あなたは そういう人ですから
ええ そうです
こういうことをやるのは
珍しいくらい
馬鹿になれるわたしが
一番ですから
わたしがそういうと 鷲は
目を閉じ かすかに
涼しげな笑い声を放った
その声が あまりにすがすがしくて
まるで さみしいわたしの胸に
暖かい花をいくつも落としてくれるようで
わたしは つい
鷲の方に 耳を澄ましてしまう
鷲は しばし黙っていたが
やがて 目をわたしの方に向けて
言った
実は わたしは
この度の仕事が終わったら
人類から撤退しようと考えていたのです
え?
ええ ですが
今のあなたの話を聞いて
それをやめることにしました
やめる?
撤退をやめるのですか?
そうです
なぜ 撤退しようと
思っていたのですか?
わたしがそう聞くと
鷲は 顔を少しわたしからそらして
言った
それは
あなたはまだ知らない方がいい
わたしをひきとめてくれる人間も
たくさんいることですし
もう一度 馬鹿になってみることにしましょう
それは ありがたい
でも
あなたはもう いいのです
何もせずとも 何も考えずとも
自分の幸せも もう捨てなくていい
人々はもう あなたのおかげで
十分に幸せですから
そうなのですか
ええ そうです
では
愛しています
それだけ言うと 鷲はつばさを広げ
風に乗って いっぺんに
空の向こうに飛んで行ってしまった
かすかに
星の香りがする
幸せを捨てなくてよいとは
どういうことだろうと思いながら
ふとわたしは下を見た
すると地面に 青い星のような
小さな花の群れがあった
ああ ヤマルリソウだ
キュウリグサも咲いている
なんときれいなのだろう
ああ 幸せとはこのことなのかな
などと思いつつ
わたしは わたしの犬を抱きしめながら
小さな花々の前に ひざまずいたのだった