五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

樂(がく)の音(ね)

2007年07月02日 | 第2章 五感と体感
ラテン語のミサ(カトリックの礼拝はミサと云います)の最中、私の頭の中に平等院の雲中供養菩薩が舞っていた事を書きました。

つい数日前に、そのミサを誘ってくれた友人から、CDが送られてきました。
彼女はピアニスト。現在パイプオルガンを勉強中で、キリスト教の音楽史についても更に学習を深めつつあり、その魅力を語る目は、活き活きとして、一緒に居ると私までウキウキとしてくるのです。

封筒を開けると、そのCDジャケットに笙(雅楽の楽器)を持った雲中供養菩薩が載っています。急いで中を開けると、演奏曲目に、ずばり≪「雲中供養菩薩」楽≫と書かれてあります。しかもパイプオルガンのための曲です。

恐れながら、インスピレーションの共時性というものなのでしょうか。
CDを聴きながら、またあの雲中供養菩薩の前に立ちたい衝動に駆られています。

[雲中供養菩薩]・・・
平等院鳳凰堂の阿弥陀如来を囲むように、52体の雲に乗った菩薩がそれぞれ楽器を手に持ち、あるいは舞い、漂っています。

1053年に造立されたと云われていますが、当初それを目にした人々は、まさに浄土の世界に入りこんだのではないかと思うくらい、この世のものではない美しさを感じたに違いありません。
今は、鳳凰堂から外され、新しく建てられた隣接する建物で一般公開されています。

その菩薩に初めて出合った瞬間、私は息をのみました。
一体一体の菩薩が奏でる音(ね)は、果て無き空に響き渡り、しかもその音は遠くに吸収されてしまうのではなく、自分の心臓の鼓動に木霊となって共鳴し、生まれ変わっていくような想像に掻き立てられました。
視覚と同時に、瞬時に聴覚に響いてきた音はそういうものでした。

グレゴリオの家でのミサでの天高く響き渡るパイプオルガンの旋律と合唱は、雲に乗った菩薩が奏でる[楽の音]を思い起こし、私の魂を揺り動かせたのです。

天国とはそういうものなのか。
浄土とはそういうものなのか。

人の持つデジデリウム[見神欲]に、逆らう事無く生きてゆく事が自分の想像力を豊かにするように思います。

不思議な繋がりで大切な人を通して、今私の手元にある、このCD。
やはり、繋がっているのです。

私が死んだら、東大寺の華厳の光に上げられて、雲に乗った菩薩に出迎えられ、その奥にキリストが手を差し伸べて待っているかもしれません。

いや、古層の神々かも・・・。


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コメント (4)
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