このDaispo Boxingを始めた当初、不定期ながらも数回に渡り「ボクシング10年」という、自分(Corleone)がボクシングに興味を抱いてからの約10年の間のボクシング界について、ザっとしたものを書いていました。第一弾は2004年6月23日。当時引退したばかりのリカルド ロペス(メキシコ)がどれだけ凄いボクサーで、軽量級、特にミニマム(旧ストロー、105ポンド/47.63キロ)とそのひとつ上のライトフライ(旧ジュニアフライ、108ポンド/48.97キロ)の、その後の課題はロペスの後継者を生み出すことであると強調しました。
2020年9月に、夢にまで見たSuperchamp1991というものを入手。そこには私がボクシングに惹かれる直前、1991年春先の世界王者たちの顔ぶれが掲載されています。その顔ぶれを見てみると懐かしさと同時に、自分にとって新鮮味がある王者たちが載っています。あの時代から30年。「ボクシング10年」の続編的ものとして、各階級の世界王者たちを簡単に紹介しています。
今回紹介する階級は、58.97キロ/130ポンドを上限とするスーパーフェザー級/ジュニアライト級。日本人選手にとり、重いクラスのカテゴリーに属しますが、不思議と昔から継続的に日本人世界王者が誕生しているクラスです。
まずは1991年春先時点での同級王者たちの顔ぶれを見てみましょう。防衛回数は当時のものになります。
WBAジュニアライト級:ブライアン ミッチェル(南ア/防衛回数12)
WBCスーパーフェザー級:アズマー ネルソン(ガーナ/5)
IBFジュニアライト級:トニー ロペス(米/2)
この階級を含め、ジュニア、またはスーパーのつく階級は、認定団体により呼称が異なっています。この階級はWBAとIBFがジュニアライト級で、WBCはスーパーフェザー級と呼んでいます。現在も英語サイトではジュニアとスーパーを使い分けており、日本のように統一して「スーパー」と呼ぶことは珍しいように感じます。私(Corleone)も、日本語と英語以外は読むことが出来ないので、これ以上の事は言えませんが...。
WBAタイトル保持者だったミッチェルは、さすらいの王者として知られていました。当時、彼の母国南アフリカでは、アパルトヘイトという歴史的に悪名高い白人至上主義が敷かれていました。これは白人と、それ以外の人種を徹底的に差別化した政策で、1948年から1994年まで続きました。
(同級でWBAとIBFのベルトを獲得したミッチェル。写真は同一人物です。)
ミッチェルが活躍した1980年代半ばの世界的動きは、当然の如く反アパルトヘイト。1986年9月27日にWBAジュニアライト級王座を獲得したミッチェルですが、WBAはその直後に、非人道的な政策を行っている南アフリカ政府に抗議するため「南アフリカ出身の選手をランキングに入れない」と発表。ミッチェルは王座を剥奪されるか、又は、南アフリカ以外の地で防衛戦を行っていくかという選択を迫られました。
ミッチェル自身は人種差別者どころか、母国の政策に反対していました。彼はWBA王座を保持することを決意しますが、ミッチェルの放浪の防衛記は世界王座を獲得した時から始まりました。強打者でもなく、飛び抜けた技巧派でもなかったミッチェル。しかし、敵地でも勝ち続けるボクシング能力と、強い精神力で防衛回数を伸ばしていきます。プエルトリコ、パナマ、フランス、イタリア、英国、米国のリングを渡り歩いたミッチェル。初防衛戦で引き分けるなど、リング内では苦しい戦いもありました。そして、リング外では反アパルトヘイト者にも関わらず、行く先々で反アパルトヘイトの集団に大ブーイングを浴びせられ続けます。
1986年の秋口に獲得した王座を1991年春までの間に12度もの防衛に成功。それらのすべての防衛戦を母国外で行っています。またこの間、ミッチェルは自国で無冠戦のリングに3度登場しました。
ミッチェルはちょうどこの増刊号Superchamp1991が発売された時期に、思わぬ形で王座と決別しています。1991年3月に、敵地米国カリフォルニア州に乗り込み、当時のIBF王者トニー ロペス(米)との王座統一戦に臨んだミッチェル。自分のペースで試合を進め、優勢のまま最終回のゴングを聞いたミッチェルでしたが、結果は彼にとって非常なドロー(引き分け)。ロペスの地元からも「ホームタウンデシジョンだ(地元判定)!」という非難の声が上がったほどでした。ミッチェルの不運はこれで終わらず。この試合に対し、IBFとの王座統一戦を認めていなかったWBAはミッチェルのタイトルを有無言わずに剥奪してしまいました。
半年後に同じ会場でロペスとの再戦に臨み、今度は明白な判定勝利を収めIBF王座を獲得することに成功したミッチェル。ロペスとの再戦後に引退を表明。3年後に再起し、母国で2試合行い(2勝)、その後正式に引退をしています。
軽打からの連打と滑らかなフットワーク、そして丁寧な試合運びで勝ちに徹するボクシングを演じ続けたミッチェル。しかしそのボクシングで、敵地のみでの防衛戦で12連続防衛とIBF王座をも獲得するのですから凄いものです。ちなみの12連続防衛というのは、現在でもスーパーフェザー級史上最多です。ミッチェルと同じ王座を保持していた内山 高志(ワタナベ)も、大先輩の記録に迫りましたが、惜しくも12度目の防衛戦で王座から転落してしまいました。
当時のWBC王座には、ミッチェルと同じく、偉大なるアフリカの戦士が君臨していました。常にアフリカ史上最強のボクサーの一人として挙げられるアズマー ネルソン(ガーナ)は、非常に長い期間、世界のトップ戦線で戦い続けました。当時のネルソンは、こちらもボクシング史に残る名ボクサー・パーネル ウィテカー(米)の保持していた統一ライト級王座に挑戦するも判定負けを喫した直後で、スーパーフェザー級に戻り、再始動を始めた時期になります。
(アフリカを代表する名ボクサー ネルソン。)
ネルソンのプロデビューは1979年の師走まで遡り、1998年7月までリングに上り続けました。2008年6月に、一試合限定で試合を行いましたが、それはネルソンの偉大なキャリアのおまけの様なものでしょう。1982年7月に、米国ニューヨークのリングで伝説のサルバドール サンチェス(メキシコ)の持つWBCフェザー級王座に挑戦し、大善戦の末、最終15回(当時はまだ15回戦制でした)TKO負けを喫したネルソン。しかしその敗戦で評価を落とすことはなく、逆に自身の名前を世界に知らしめる事に成功しました。
1984年に敵地プエルトリコに乗り込み、こちらもまた伝説の雄ウィルフレド ゴメス(プエルトリコ)を失神KOし、念願の世界王座を獲得(WBCフェザー級)。その王座は1988年にスーパーフェザー級に転向するまでの間に、6度の防衛に成功しています。ネルソンに歯が立たなかったゴメスですが、スーパーバンタム級時代にはWBC王座を17度も防衛。しかもそのすべての試合を規定ラウンド内(KO/TKO)に終わらせた怪物でした。
スーパーフェザー級で2階級制覇を達成したネルソンは、2つの引き分けを挟むも10度の防衛に成功。その後王座を手放した後も37歳にして王座返り咲きに成功しました。世界の一線級で戦い続ける事15年。まさにアフリカの生んだ怪物ですね。野性的な強さで、ボクシング史に残る強豪たちと戦い続けたネルソン。38勝(27KO)6敗(1KO負け)2引き分けという終身戦績は、数字以上に内容の濃いものでした。唯一のKO負けはサンチェスに喫したもので、もう一敗はウィテカーに付けられたもの。残る4敗と2引き分けは、力が落ち始めたキャリア後半のものでした。
24度の世界戦に登場したネルソンでしたが、母国ガーナで行った世界戦は僅かに1度のみ。ガーナの経済的理由もあるでしょうが、ミッチェルのような政治的理由でなく、敵地、または第3国で戦い続けたのですから頭が下がります。しかし同時期に2人のアフリカ人選手が世界のベルトを腰に巻いていた当時のスーパーフェザー級。「ミッチェル対ネルソン」戦実現の話は出なかったのでしょうかね?
海外で戦い続けたミッチェルとネルソンですが、IBFタイトル保持者だったトニー ロペス(米)は、故郷である米国カリフォルニア州サクラメントのリングで戦い続けた選手でした。「タイガー」の異名を持つロペスは、打ち合い好きで、会場は常に地元のファンで満員御礼。それでいて左ジャブを丁寧に突きながら基本的なボクシングを展開するボクサーでした。激戦王というイメージがあり、実際、幾多もの激闘を繰り広げました。初めてタイトルを獲得したロッキー ロッグリッジ(米)との一戦は、リング誌から1988年の年間最高試合に選出されました。その後も、同じ時代の打ち合い好きな選手たち、ジョンジョン モリナ(プエルトリコ)やホルヘ パエス(メキシコ)等とも熱戦を繰り広げました。
(激戦王「虎」と呼ばれたトニー ロペス。)
基本に忠実ながらも、激しい闘志を兼ね備えたロペス。1991年9月に行われたミッチェルとの再戦に敗れ、2度目のIBF同級王座から転落してしまいますが、翌年秋にはWBAライト級王座を獲得し2階級制覇を達成。1994年師走には、敵地メキシコに乗り込み、メキシコボクシング史上最強と言われるフリオ セサール チャベスの持つWBCスーパーライト級王座に挑戦。すでにピークを過ぎていたチャベスでしたが、ロペスとの技術差は一目瞭然。サクラメントの虎は10回TKOで散っています。
さて、まだまだマイナー団体だったWBOのジュニアライト級(スーパーフェザー)王者は、イタリアを主戦場にしていたアルジェリア人カメル ブー アリ(Kamel Bou Ali)という選手でした。45勝(31KO)5敗(2KO負け)3引き分けという素晴らしい終身戦績の持ち主でしたが、実力的にはインターや地域王座、またはマイナー団体の世界王座が限界だった選手のようです。
(第4の王者だったアリ。当時のWBOのベルトも、マイナー感が漂っていますね。)
ミッチェルとネルソンを中心に、アフリカ勢が世界を跨ぎ牽引していた当時のジュニアライト/スーパーフェザー級。残念な事に、私がボクシングに関心を持った当初、4王者揃ってピークを過ぎた選手たちでした。そして当時の日本には、世界レベルで戦える選手が赤城 武幸(新日本木村)ぐらいしかおらず、彼らとの対戦も実現しませんでした。そのため、これを書くまで比較的距離感を感じていた選手たちです。しかしこうして書き留めてみると、それぞれが非常に個性的で親近感が増してきました。