日刊魔胃蹴

暑すぎてつらい。

カダフィ大佐が拘束された後に死亡。リビア独裁政権ついに終幕。

2011年10月21日 | Weblog

リビアのかつての最高指導者であるムアマル・カダフィ大佐が、日本時間の20日午後9時ごろ、身柄を拘束された後、死亡が確認されました。42年間も続いていた独裁政権にようやく終止符が打たれました。


ロイター通信などのまとめによると、リビア北中部のシルトにいた反カダフィ派の戦闘員がカダフィ大佐を発見し、激しい銃撃戦の際に両足を負傷し、それが原因で死亡したとのことです。カダフィ大佐は排水溝トンネルに潜んでおり、拘束された時に「撃つな!撃つな!」と射殺しないでほしいと懇願していたそうです。また、大佐の四男であるムタシム氏も拘束後に殺害されました。カダフィ派の最後の拠点地だったシルトは反カダフィ派によって制圧され、他にも西部のバニワリード、南部・セブハも反カダフィ派が制圧しました。
この報道を受け、リビア新政府の「国民評議会」のホガ副議長は「カダフィ大佐が死亡したことを宣言する。カダフィ政権は終わりを迎えた」と独裁政権の終焉を宣言しました。首都・トリポリでは歓喜に沸き、市民たちは反カダフィ派の旗を振り回し、「リビアは自由だ」と叫んだり、祝砲を打ち上げたりとお祭り騒ぎでした。

カダフィ大佐は1942年にシルトで生まれ、27歳だった1969年に軍事クーデターを主導し、当時の国のトップだったイドリス国王を退位・亡命に追い込み、革命評議会の議長に就任。1977年には国名を「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」に変えると、さらに国旗も緑一色に変更。
欧米諸国と激しく対立する強硬派で、日本赤軍などの過激派テロ集団を支援。歯に衣着せぬ発言から「砂漠の狂犬」、「アラブの暴れん坊」1981年に暗殺団を送り込まれた時に「レーガンは嘘つきで愚か者。そんな奴に指導者の資格はない」とレーガン元大統領を非難。1988年にはリビアが関与したとされる「パンナム機爆撃事件」では容疑者の引き渡しを拒否し、国連議会で受けました。2009年の国連総会では、「安保理事会はテロ理事会だ」と激しく批判しておりました。

長い間リビアのトップに君臨してきましたが、2011年に入ってカダフィ大佐の辞任を求める反政府デモ「リビア内戦」が発生。暫定政権「リビア国民評議会」が樹立され、反体制派が首都・トリポリに迫る中、徹底抗戦を呼びかけるもデモは日に日に悪化。遂にはアメリカ、フランス、イギリスを中心とした多国籍軍が軍事介入を行いました。内戦勃発から半年が経った今年8月23日、首都・トリポリが陥落し、カダフィ政権が事実上崩壊。緑一色の国旗も、「赤・黒・緑」の三色旗に変更されました。
トリポリに消えたカダフィ大佐は、しばらくの間行方が分かりませんでしたが、故郷・シルトに身を構え、最後は反体制派の兵士によって殺害されたのでした。


「ケンミンSHOW」や「きたなトラン」を見ているときに、カダフィ死亡のニュースをインターネットで初めて知りました。「最近カダフィのオッサン見ねえなあ。どこにいるんだろう」と気になってはいたんですが、故郷に戻って排水口に隠れていましたか。かつての独裁者らしくない最期でしたねえ。カリスマ性を保ち続けたのと共に国民を恐怖に陥れた指導者がいなくなり、8か月近く続いていた内戦も終結を迎え、新しい時代に突入しようとしています。今後もカダフィ派の残党と反カダフィ派の対立が続くだろうし、未経験の民主主義、欧米諸国との関係改善など課題が山積み。独裁者死後もリビアの混乱はまだまだ続きそうです。


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