中学生の時、映画やドラマを見て、「闇市」なるものに興味を示していろいろ質問するものだから、親父が雰囲気だけでも見に行こうか・・と、連れていかれたのが「梅田ダイヤモンド地区」。
同年代の友人なのに、行ったことが無い、名前も知らないという人が多いのには驚きます。グランフロント辺りの再開発もまだ手付かずなのに、再開発した場所の再開発が始まる。大阪駅前はいつひと段落するのだろう?梅田~中津間が全部「池」だったり、だから中津まで人が歩くトンネルがあったり、そもそもJR大阪駅が数メートル地盤沈下して下がっている事など、知っている人は周囲にはほとんどいません。阪急梅田駅の位置が、元々は現在の位置と違う事を覚えている人もそう。
マルビル、ヒルトンホテル、大阪第1~第4ビルが立ち並び、言わずと知れた大阪ダイヤモンド地区・・・大阪府大阪市北区梅田一丁目の通称です。大阪駅前線、国道2号、御堂筋および四つ橋筋に囲まれた形が、 五角形のダイヤモンドに似ていることから「ダイヤモンド地区」と呼ばれ、親しまれています。
現在のダイヤモンド地区に至るまでの歴史は、戦後の闇市から始まりました。雑炊屋、芋屋、古着屋等の闇市に不法占拠されましたが、その後強制撤去され、飲食・繊維関係の商店街が出来上がりました。入り組んだ街区に700~800軒とも言われる卸問屋が集まっていました。
写真左には梅田繊維卸会館の看板が見えます。この写真は昭和26年のものです。
そしてこの地図は、昭和30年代初期の梅田繊維街の地図。
この辺りのお店のほとんどは借家人で、当時日本一高い家賃と言われながらも、ここで営業を続けられたのは、「いかに儲かっていたか」の証拠です。
しかし、昭和30年代に大阪駅前の再開発が企画され、昭和44年には新大阪にセンイシティーが完成し、多くの店舗が新大阪に移転しました。
これは昭和45年頃。大阪第1ビルが完成しましたが、まだまだ第2以降のビルも丸ビルも見えません。立ち退き問題もなかなか解決することなく、この大阪のど真ん中に、闇市の名残は平成の世の中にもまだ残っていました。平成になっても・・と聞くと、驚く方も多いかと思いますが、僕が学生の頃1980年代にはマルビルの近くはまだまだ闇市の名残をハッキリ残していました。
こちらはほぼ現在のような形になった平成2年の同地区の写真ですが、マルビルの右側には戦後から残る建物がまだ残っています。大阪で生まれ育った昭和30年代の僕の世代でも、この闇市の名残に足を踏み入れたことがないという人も多くいます。
大阪マルビルが出来たのは昭和51年(1976年)3月。完成当時は周辺で唯一の高層ビルでした。ユニークな形状、一部が復活した屋上部の電光掲示板、大阪の高層ビルのさきがけとしての風格から、今でも梅田のランドマーク的なビルですが、建て替えが今年の春に決定。工事の着手は来年の2023年夏。2025年日本国際博覧会への貢献を考え、同年4月13日から10月13日の期間中は、万博会場にアクセスするバスのターミナルとして敷地を提供するということです。
令和になって、大阪の中心地はこれからも変わり続けて行くのです。