手元にある漢文の参考書を手当たり次第(どんだけあるねんw)に目を通していたら、古田島洋介・湯城吉信 著『漢文訓読入門』(明治書院)にある「複数訓読共存原理」という語に目が止まりました。
訓読は、必ず一つの正解に落ち着くという性質の作業ではない。訓読者によって相違が見られ、また、一人の訓読者においても、脳裡に訓読の候補がいくつか存在し、たまたまそのうちの一つを活字として発表したにすぎない、という可能性もある。これを「複数訓読共存原理」と呼んでおく。
現在引っかかっている仏典の古点に関しても、複数の訓読が考えられそうです。ただ、国語辞典の用例として一部分だけを取り出して引用しているので、古点に従ってデータを作成すると、読み手が意味を誤解する恐れが
しかし、作業するうえでは勝手に訓読文を書き換えることはできないし・・・
『興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝古点の国語学的研究』研究篇に以下のようにありました。
P86-上段 (58/362) 右の訓読文は意味を成さないことになる。
P86-下段 (58/362) このやうな永久點の誤読は更に他にも若干の例があらう。
(築島裕 著『興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝古点の国語学的研究』研究篇,東京大学出版会,1967. 国立国会図書館デジタルコレクションより)
今調べている該当箇所に関しての記述ではありませんが、ここを読んで、古点が必ずしも正しいものばかりとは限らないんだ、と
では、なぜそのような仏典の用例を一般向けの国語辞典に持って来る? それが理解できない。(←ちょっと八つ当たり気味)
(もしかして、漢文に興味を持つ人が増えて欲しいってこと? )
しかも、底本とされる写本やそれを基に起こした訓読文に施されていない読点を加えてあるし
意図的に読点を加えた? 誰が? 何の必要性があって?(←もろ八つ当たり)
それとも誤植? その可能性があるならば、版を遡って調べる必要が出て来ちゃうんだけど・・・
勘弁して~! 作業が益々遅れちゃう・・・
気づかない振りしてスルーしちゃえばいいものを。
雉も鳴かずば撃たれまい
書いている途中で夕飯の支度にとりかかり、お米を2度測り直しちゃった
訓読は、必ず一つの正解に落ち着くという性質の作業ではない。訓読者によって相違が見られ、また、一人の訓読者においても、脳裡に訓読の候補がいくつか存在し、たまたまそのうちの一つを活字として発表したにすぎない、という可能性もある。これを「複数訓読共存原理」と呼んでおく。
現在引っかかっている仏典の古点に関しても、複数の訓読が考えられそうです。ただ、国語辞典の用例として一部分だけを取り出して引用しているので、古点に従ってデータを作成すると、読み手が意味を誤解する恐れが
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しかし、作業するうえでは勝手に訓読文を書き換えることはできないし・・・
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『興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝古点の国語学的研究』研究篇に以下のようにありました。
P86-上段 (58/362) 右の訓読文は意味を成さないことになる。
P86-下段 (58/362) このやうな永久點の誤読は更に他にも若干の例があらう。
(築島裕 著『興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝古点の国語学的研究』研究篇,東京大学出版会,1967. 国立国会図書館デジタルコレクションより)
今調べている該当箇所に関しての記述ではありませんが、ここを読んで、古点が必ずしも正しいものばかりとは限らないんだ、と
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では、なぜそのような仏典の用例を一般向けの国語辞典に持って来る? それが理解できない。(←ちょっと八つ当たり気味)
(もしかして、漢文に興味を持つ人が増えて欲しいってこと? )
しかも、底本とされる写本やそれを基に起こした訓読文に施されていない読点を加えてあるし
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意図的に読点を加えた? 誰が? 何の必要性があって?(←もろ八つ当たり)
それとも誤植? その可能性があるならば、版を遡って調べる必要が出て来ちゃうんだけど・・・
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勘弁して~! 作業が益々遅れちゃう・・・
気づかない振りしてスルーしちゃえばいいものを。
雉も鳴かずば撃たれまい
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書いている途中で夕飯の支度にとりかかり、お米を2度測り直しちゃった
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