玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

E・T・A・ホフマン『悪魔の霊酒』(8)

2015年05月05日 | ゴシック論
 これまで触れてこなかったが、『悪魔の霊酒』は実は“分身小説”としての特徴を大きく備えている。分身というテーマはジェイムズ・ホッグの『悪の誘惑』(1824)で追求されていたことを思い出してもよいが、それに先だつこと10年前に『悪魔の霊酒』(1815)は分身のテーマを深く追求する作品でもあった。
 主人公メダルドゥスの分身が作品中に繰り返し繰り返し、それこそ亡霊のように出現してくる。最初に分身が出てくるのは、奇妙なことにメダルドゥス自身が分身の役割を果たす場面である。
 フォン・F男爵の領地でメダルドゥスは、断崖の上で昼寝している男に声をかけるのだが、男は起きがけにバランスを失い、あやまって谷底に転落してしまう。その男はのちにメダルドゥスの異母兄弟ヴィクトリーン伯爵であることが明らかにされるのだが、メダルドゥスはお屋敷内でヴィクトリーンになりすまし、オイフェーミエの愛人として振る舞い、アウレーリエ誘惑の隙をうかがうのである。
 ヴィクトリーンはメダルドゥスとうりふたつの兄弟であり、谷底に落ちて死んだはずのヴィクトリーンがそれ以降、メダルドゥスの分身として、至るところに出没する。
 だからメダルドゥスが犯したと自分自身で意識している、オイフェーミエとヘルモーゲンの殺害、さらには後のアウレーリエ殺害も、ヴィクトリーンの仕業だったというのが司法の判断となり、メダルドゥスは免責されることになる。
 もしそれが本当だとすれば、分身同士はその意識をすら共有していたのだということになるが、ホフマンはそこまでを想定して書いているに違いない。分身同士が意識や記憶をも共有しているならば、その分身譚は恐るべきものとなるだろう。
 ポオの『ウィリアム・ウィルソン』など遠く及ばない分身物語になっていると私は思う。さらにはホッグの『悪の誘惑』でもあり得なかった設定である。そのために『悪魔の霊酒』は途方もなく入り組んだ複雑な物語構造を持つことになる。
 ところで、何故に西欧人は分身譚を好むのか、ということが私にとっての疑問として浮上してくる。単に恐怖譚のための仕掛けとして好まれているだけではあり得ない。

E・T・A・ホフマン『悪魔の霊酒』(7)

2015年05月05日 | ゴシック論
 メダルドゥスもまた放浪者メルモスのように旅をする。メルモスほど世界中をというわけではないが、メダルドゥスは幼少時代にプロイセンの聖地リンデに旅をするし、ドイツB市のカプチン会修道院に入った後、院長に全権を託されてカトリックの聖地ローマへと向かう。
 旅の途中で迎えられたフォン・F男爵の屋敷でアウレーリエに関係を迫り、あげくの果てに男爵夫人オイフェーミエとアウレーリエの兄ヘルモーゲンを殺害してしまう。
 そこを逃げ出したメダルドゥスのローマへの旅はさらに続き、アレクサンダー・フォン・W侯爵の宮廷に迎えられ、そこでアウレーリエに再会、逮捕劇や突然の釈放のすえにアウレーリエと結婚することになるが、式を目前にして逃亡、イタリアへ向かう。
 イタリアでもカプチン会修道院に迎えられ、ローマ法王とも謁見することになる。その後、贖罪の苦行を果たし、ドイツB市のカプチン会修道院に復帰する。
 メダルドゥスの旅もまた、メルモスの旅のように世界のゴシック化とは言わぬまでも、ゴシック的世界の拡大という役割を果たしている。旅はゴシック的世界の蔓延のために行われるだろう。そのようにして『悪魔の霊酒』のゴシック世界は『マンク』の地下納骨堂の迷路から脱出し、ドイツとイタリアの間を往還する広がりを持つことになる。
 元祖ゴシック小説であるホレース・ウォルポールの『オトラント城奇譚』がオトラントの城の内部で完結していたことを思うと、大きな前進と言ってもいいだろう。
 そこには交通移動手段の発達というものが関連しているのかも知れないが、ゴシック世界は古城の迷宮や地下納骨堂の迷路の中でのみ展開されるものではなくなった。それもまたホフマンがゴシック小説に対して果たした貢献と言えるだろう。